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何をやっても心からの充足があったら正解だ
2012/03/22(Thu)
お金は節約すればサイフにとどまったままでいてくれるが、時間を入れたサイフには穴が開いている。中味はイヤでもこぼれ去ってゆく。すっかり空っぽになったら、この世の生活とおさらばだ。

だからといって時間を節約して大切にしましょう、でよいのか?
子供のころ学校でスケジュール表をよく書かされた。時間についての教育だろうが、規則や秩序を守るのと同じように時間も守れという。決められたとおりに過ごすということと、時間の節約とは、ほぼイコールのあつかい。おかげでわたしは子供のころ、決められたことからはみ出すと、たちまち罪悪感である。時間を忘れて楽しく過ごした時ほど、あとで奇妙な罪悪感にとらわれるようになった。

時間を大切にすることと、時間を節約することとはイコールではない。時間の蛇口は水道の蛇口と違って、どこをひねっても止まらない。この出しっぱなしの蛇口から出ていく時間は、否が応でも使うしかない。節約できないのが時間。わたしは時間を大切にしようと思えば思うほど、いつ何をやってもかまわなくなってきている感じだ。
どうせ何をやっても他人の目には浪費に映る。山を歩くにしても、わたしの身内などは「怠けている」「時間のムダづかい」としか思わない。仕事にきゅうきゅうとしてグチに時間を割く彼らの姿は、私の目には気の毒なようにも映るが、「これこそ有効な時間の使い方。おまえも見習え」と胸を張って言うのだから、これはお互いにしょうがないことと思う。
山から降りてくるときの私は、じつにすみずみまで充たされている。「いい時間を過ごさせてもらった」と晴々として、にこにこしたり、胸がいっぱいになって涙ぐんだり。大往生っていうのはこういう感じだろうかと感謝の思いでお山を降りてゆくこの瞬間は、何ものにも替えがたい。そういう気持ちの充足が今の自分にとって最大になるのが、山と操体法なのである。今日ここで、このような時を過ごしたことの、一体どこがどうまちがいなんだろうかと思う。

時間は限られているだろう。時間のサイフがいつまでもつのかさえ、誰にも分からない。心おきなく気持ちよく使いきる以外に、どうしようもないのではないか。
時間の使い道を考えるときのわたしの基準は、充足感である。
人はきゅうくつな思いをするために生まれてきたのではない。幸せになるために生まれてきたのだと、わたしは考えるようになった。それは操体法が快と不快の微妙なところを感覚でききわけて、快方向のロープをたぐりよせながら解決を導くということと、無関係ではない。誰が何をやって過ごそうと、自由だ。心からの充足があれば全部正解。そう思うことにしている。
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