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自然の法則、宇宙法則の前では人類みな等しく尻尾である
2012/03/13(Tue)
「鯛の尾よりイワシの頭」は鯛の尻尾とイワシの頭の比較。「鶏頭牛尾」はニワトリの頭と牛の尻尾の比較。
思いのままにならないと腹が立ち、思い通りの境遇に喜びを感じるのが人間。シッポ生活では頭に振り回されてさぞかしつらかろう。

個人的に牛は苦手なので、ニワトリの頭と竜の尻尾で比較させてもらうことにするが、竜のシッポであると同時にニワトリの頭であるというのは、生きていく上ではむしろしぜんなこと。イワシの頭となれ、ニワトリの頭となれと勧められても、どのシッポを選ぶがよいかで頭を悩ませることが少なくない日常である。

シッポの安楽さというのも確かにある。
どうせ同じシッポなら、ニワトリのより竜のほうがよい。竜の尻尾というと、そんな考えが暗示される。それではニワトリの尻尾ではどうか。ダメなのか。
竜の日常につきあわされるよりはむしろニワトリのお気楽な日常につきあうほうが都合がよい。そういう考えもある。
わたしはきょうだいの二番目に生まれ、何もわからないときから家の長子が頭上に君臨していたようなものだった。大人になると上のきょうだいは社長業をし、自分はしばらく手伝わされた。
頭の立場にいると尻尾のほうは見えにくくなるようだが、尻尾のほうでは頭の生活を眺め、頭としっぽのことをじっくり考えることも少なくない。
頭の立場にいる人は、頭はえらいが尻尾はダメという考えを持つことも多いようだが、そう単純にはいかない。
シッポはシッポでも、尻尾道とでもいうか、すぐれたシッポもあれば、ダメなシッポもある。
頭に向かって振ることしか知らないシッポもあれば、頭をコントロールする実力のあるシッポもある。でしゃばることなくシッポの立場をわきまえたうえで、言いなりにもならず、シッポであることに甘んじない。むしろ誇りを持つシッポもある。

尻尾道もなかなかに奥深い。尻尾道をたどり歩いているつもりが、ひょいと気づけば頭になる。そんなことも少なくない。社会生活のじっさいは入れ子構造で、あるところではシッポの威力を発揮し、あるところでは頭の威力を発揮しなければならない。頭といえども、おびただしい頭たちがゾロゾロと群れている。誰が誰の頭で、誰が誰の尻尾のほうか、接続もなにも分からない。
一番はっきりしているのは、自分の体が自分の頭に接続しているということくらいだ。人は否が応でも自分自身の頭として生まれ、自分の頭として生きるほかはないのだということ。しっぽ生活に甘んじていると、ついそのことを忘れ、自分の首が、別のどこかに接続しているくらいに思ってしまう。自分に頭があることを忘れ、尻尾生活に特化して、自分でえらぶ、自分で決める、自分で判断してその結果の責任を結局は自分がかぶっているという、あたりまえのことも分からなくなっている。

頭の生活に甘んじていると、すべての頭も結局は何かの尻尾であるという入れ子構造を忘れてしまう。
人類の頭をたどっていくと、どこに行きつくか。
自然の法則、宇宙法則の前では人類みな等しく尻尾である。
頭であると同時に尻尾。尻尾であると同時に頭。
その両方のバランスをとって生きている。それだけだ。
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