自分の本性を、他人のことのようにして眺める二人三脚 |
2012/03/09(Fri)
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修羅場とは、争いの絶えない現場のこと。そこに住する者は修羅とよばれる。過去の自分は修羅で過ごすことが多かったが、周囲はそれを「がんばっている」と評価し、自分もそれを当たり前と信じて疑わなかった。
自ら修羅場をつくり、鼻息を荒くして過ごす。そういう自分を静かに振り返ることが、ある。 損得勘定でものごとを見るだけでなく、損得勘定で人を見て、損得勘定で自分自身をも装う。それを「メリットがある・メリットがない」などといって、さかしらぶる。一人勝ちするための智恵をはたらかせ、食べる間も寝る間も惜しんで努力する。その真剣さ真面目さは驚きに値する。今になってみれば不思議に思うばかりだが、修羅の本性は自分の中で一時的な眠りについただけ。すっかり消えたわけではなかろうと思われる。 自分の本性を、他人のことのように眺めるこの自分。これはいったい誰なのだろう。 このもう一人の自分が、修羅の自分をだんだんと圧倒するようになってきて、これから先はこっちのほうの自分に賭けてみようと思っているが、じゃあこの「賭けてみようと思うわたし」は一体だれなのだろう。 今は比較的おだやかな感謝の日々を送っているが、感謝もまた思いあがりの裏返しかもしれないと思うことがある。飲まず食わずでもなく操体法の研究ができて、いろんな人が訪ねてきてもくれる。それで幸せでなかったら罰があたるというものだ。「しかし、それだって、いつまで続くか分からない。はかない身の上。それが人間だ」。そう考える自分がひょいと顔を出す。 「いや、そうじゃない。飲まず食わずになってでも操体法の修行にはげみ、研究会に足を運ぶ。これだけはゆずれないっていう気迫こそだいじなんだ」と豪語する、やたら勇ましい自分がしゃしゃり出てくる。 「どうだ。飲まず食わずになってでも、おまえ、やれるか。笑って元気よく、やれるのか。おまえがほんものかどうか、いずれ試されるときがくるぞ」と、わたしに向かって言い放つ。 そういう自分ひとりの二人三脚、三人四脚もまた、わるくないものである。 スポンサーサイト
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