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おろかな行動を、愚かな行動だと考えることがむずかしくなってはいないか
2012/01/15(Sun)
レジで菓子を握りしめたままだった。大人たちが「ちゃんと返す」と話しても聞き入れない。母と取り合いするうち、手の中のものがつぶれ、こわれていく。それでも手にこめた力がゆるむことはなかった。
三歳か四歳のころの自分の姿を、最近よく思い出す。
同じ行動を大人の私がやってみせたらどうだろう。
「ボケているのか?」と思われるかもしれない。「聞き分けのない、おろかな行為だな」とも思われるだろう。「ああはなりたくない」とも思われるかもしれない。「自分もこれを見習おう」と思う人はいないだろう。

「三つ子のたましい百まで」という。さすがの私も今となっては公衆の面前でこんなことはやらないが、誰も見ていないところではどうなのか。
ごうつく張りの貪らんさが私の本質に備わっているのは確かなことだ。大人になっていくうちに、周囲にウソをつき、隠すのが少々上手になっただけのこと。
今の日本では「ほしい」という気持ちに従ってものを買うことにちゅうちょのない日常が広がっている。財布にお金があるんだからそれを使う、どこがわるいか。「食べたい」という気持ちに従って食べることの、どこがわるいというのか、となる。
経済の発達した日本では消費が奨励される。「ほしい」と思ったら手に入れ、口に入れる。「えっ? そのどこがわるいのですか?」と目を白黒させる人もある。消費が罪の意識をともなっていた時代があったなどと言っても、信じがたいことかもしれない。

昭和三十年代から四十年代にかけて日本で育てられた私は、周囲の大人たちからまた別の、違うメッセージを受け取った。
当時の大人たちは、「ほしい」という気持ちに対してもっと慎重だった。警戒心さえあった。私はそれが何故だか、よく分からなかったが、子供たちの「ほしい」という気持ちに対しては、とくにたいへんに厳しかった。
姉が「ぬいぐるみほしい」と言い出す。それは店の前で語られるのではない。家の中で、覚悟したような静けさの中で、真剣に語られるのである。買い物に連れて行かれるたび、八百屋の向かいの手芸店で見かけていた。何度も何度も心の中で念じたあげく、ここではじめて言う。そんな願いである。
しかしそんな願いでさえ、一年に一度かなえられるかどうか。逆にいうと、一年も持続しないような願いは、自動的に却下である。
小学校入学を機に、祝いの品としてぬいぐるみを買い与えられたときの姉の姿。姉の手に渡った瞬間、ぬいぐるみはたとえ大人であっても触れることも許されない、神聖なものとなった。そのときの姉の姿は、四十年以上たった今考えてみても、後にも先にもないほど感動的なものであった。

一本の幹にびっしりと無数の芽がついて、ぐんぐん伸びて枝となる。そのさらに枝一本一本から数限りない枝が分かれ、さらに枝葉が伸びてゆく。
子供たちの欲望もそれと同じで、大人たちはそれを伸びるにまかせるのではなく、植木の剪定でもするかのように、大人の目で注意深く見極めることが必要だと認識されていたと思う。
経済がゆたかでなかった日本。ものもお金もない時代。生活のベースには節約の影がつきまとっていた。
「お金がないから」「ものがないから」という単純なところから始まった話だったかもしれない。しかしそれで終わりではなかった。つつましさを身につけてゆく日常生活の中で、物質的なことではない、何か次元の高いようなことにまで人々は触れることができていたのではなかったか。
親だけではない。近所のおじちゃんおばちゃんたち。商店街のお店の経営者までもが、あの時代でもまだ全体的にいうと、日本人のつつましさというものを失ってはいなかったと思う。

つつましさは、たんに外から見て見栄えがよいということではない。それは自分自身の身を守る、静かな武器のようなもの。内面的なものだ。
「ほしい」という気持ちを通し続けることは、結局のところわがままであり、不可能になる時がいつかは来る。それを通し続けようとするのは自分自身を窮地に追い込み、自滅の道を歩むことにもつながる。「ほしい」という気持ちに振り回されるのは愚かで危険。それは誰もが知っている。
問題は、欲望に身をまかせるのは危険ということを知ってはいるが、それをどう実行するかである。これは訓練で身につけるほかは、ない。

当時の大人たちは、子供には恐ろしい存在だった。大人たちが「ぜったいに、いけない」ということは、ぜったいに通らなかった。子供たちは欲望に身を焦がしながら「我を折る」ということを身につけるしかなかった。
テレビも食べものも、生活に関するすべてのことについて、大人たちは愚かな行動を子供たちにできるだけ実行させないよう、配慮を徹底させた。そうやって愚かな行動が身につかないようにする。大人の目をちょろまかすのは非常にむずかしく、ちょろまかせても、それがわかったときの罰はほとんど体罰で、これも身にしみて体でおぼえるものだった。罰とは本当に恐ろしいものと覚悟がいった。
当時の大人たちの説教も正論だった。今思い出しても立派な話が多い。心が鎮まり、背筋がおのずと伸びてゆくような、立派な態度でもあった。恐怖や脅しではない。大人自身が、自分の感情に負けてはいなかった。そのような態度もまた、生活の中でつつましさを保持していた大人たちだからこそ、身についたものではなかったか。

治療の現場で先生から「苦しいのなら、しばらくアルコールやめてごらん」とアドバイスを受ける、いい年をした方が「先生、そりゃ~できませんよ」といきなり突っぱねる。
「少しの間でいいから食べる量を半分に減らして様子をみてごらん」とアドバイスを受けたとたん、だまってしまう、いい大人。
「一口ごとに箸を置いてごらん」と言われ、「わたしにできるわけない」と笑ってとりあわない。これもまた社会的にはちょっとした方。
「治ったら、また飲める。好きに食べられるようにもなるんだよ」と言われても、それだけはがんとして聞こうとしない。そういう人ばかりになっていく。これでは三、四歳のころの自分の姿を思い出さずにいられないようなものではないか。

野生の肉食動物たちがガツガツするなら、分かる。急がないと横取りされてしまうから一口でも多くのみこむのに必死。獲物がとれるのも数日に一度だから、彼らがガツガツするのは大いにけっこう。
しかし私たちの身のまわりには、いくらでも菓子はある、酒もある。誰も横取りしようというわけでもない。そういつまでもガツガツしなければならない理由など、どこにもないのである。その逆のことをする理由なら、たくさんある。ガツガツすることで、自分の首を自分でしめているのだ。
それでもガツガツせねばならない理由があるとすれば、それは自分の中にある。
生活の改善とは、行動にうつすより先に、まず自分の愚かさを自分の行動の中に見つけるのが先なのかもしれない。愚かな自分の行動を、あらためたいと思うかどうかは、また各自それぞれ考えもあろう。
自分自身のすべてをひっくるめての、改善。そこから何を発見し、何を身につけるか。それもまた、それぞれだろう。

思えばあの「大人たち」も生きていれば九十代、百にも手が届こうという人々。もうこの世にいないという方々がほとんどだ。時の流れを思わずにはいられないが、彼らから受け取ったメッセージの重みを自分の中でかみしめずにはいられない思いがする。
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