自分のピッタリを見つけて常に自己ベストで過ごす-操体法で加減を知る(福岡操体法スタジオ)-
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2011/09/12(Mon)
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ストレッチもジョギングも、翌日の体に何かを残す。その感じが体によいことだと私は思っていた。ストレッチはいつもより背伸びして「もうひと押し」する。体操は弾みをつけて頑張れるところまで腕を伸ばし足を上げる。「体によいこと」がなかなか続かず、だんだん苦しくなってくるのは「もうひと押し」や「弾みをつける」のもたらした結果だが、ここで今度はどこまで我慢できるかと根くらべしてしまう。
食事の制限もまた同じ。生活の改善はいつも「やりすぎ」と「やらなさすぎ」とのあいだを振り子のように往ったり来たり。私は子供のころから何でも「さあやるぞ~」とやりすぎる。やりすぎて頑張れば「もうダメだ~」で終わるのは時間の問題だというのに、「もうダメだ~」をいかに先延ばしするか、根くらべの我慢大会になってしまう。 そんな自分だったから、「自分のちょうど」を知って、「自分のちょうどで生きる」というのは消極的な響きがしないでもない。操体法は自分のちょうどを見つける。そのときどきの自分に「ちょうどだ」と思うところを加減する運動療法が、操体法。 一念発起で「やるぞ~」と頑張って、くたびれたら息切れして、終わりというものではない。最初のころは少々刺激が不足しているようで物足りないと感じていた。 物足りないくらいが、続けられる。翌日に何も持ち越さない。それがいいのだと分かるのには時間が必要だった。 ヤドカリっていう生き物をイメージしてみる。自分が小さければ小さい殻をさがしてもぐる。大きいときには大きい殻に入る。それが「ちょうど」ということである。ヤドカリは、自分に合わない殻はいつでもさっさと捨てる。いつもいつも大きい殻にばかり入りたがるのは愚かである。 小さい殻がピッタリのときは、そのピッタリが自分のベスト。大きい殻がピッタリのときもあれば、小さい殻がピッタリのときもある。自分のピッタリさえ見つけてつなげてゆければ、いつでもベストな自分でいられる。 操体法のおかげで少しは知恵もついてきたか、ヘタれて疲れてロスをつくる無理無駄パターンと、いつも気持ちよく持てる力を出し続けるベストをつなげるパターンと、どっちがいいか、よ~く考えてみることにしている。 ※操体法は、動きを通じて感覚神経をはたらかせ、自分にとって気持ちのよいところを見つけ、ちょうどよい加減で動かしながら、心身の回復をすみやかにする運動療法です。 九州・福岡市内にて講習を行っております。自分の体の調整をおぼえながら、自分なりの活動を始めている方もいます。誰でも参加できる定例の講習会(参加費二千円)、少人数で申し込めるプライベート講習や個別もあります。 あなたも始めてみませんか。 お問い合わせ メール freeyourself.sotai★docomo.ne.jp (★を@に)もしくは080-1720-1097(山下)まで。 スポンサーサイト
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