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機能回復とは過去の自分を目指すことなのか
2010/12/26(Sun)
なんにもないゼロからのスタートの、なんとすがすがしいことだろう。過去の栄光というものに無縁で、失うものが何もない。もともと体が弱く、苦労もあった人が操体法を体験すると感動が大きい。もともと頑丈で激しい運動も平気だったのが、故障や症状をかかえてできなくなったという人は抱え込んでいる不満のほうが大きい。前者は「ダメでもともと」という潔さがある。後者は要求が高く、慢性的な欲求不満がくすぶっている。

学習指導の現場でも似たようなことが見られた。もともと成績がよくなかった人は、適切な指導のもとで自分にも勉強ができるとわかると嬉々として励むようになる。ところが小さい頃によく勉強し、「できるのが当たり前」という人が、ブランクの後に勉強を再開するとなると厄介だ。以前の自分と比べ、今の自分のダメさ加減に我慢できない。少々できるようになっても「過去の自分ならもっとできていた」というわけで、喜びはない。客観的には、以前「できていた」人のほうが有利そうに見える。もともと勉強できなかったというほうは、どこまでやれるか未知数だ。以前できていた人のほうは、以前身についていたことを思い出すだけ。新たに獲得するよりラクっぽい。

腕一本が自由に動かせ、思い通りに使える。
これをあたりまえで何とも思わないか、それともすごいと感動できるか。一度機能を失ったことのある人なら、「あたりまえに動けることの素晴らしさ」をすぐさま感じ取ることができるだろう。
動かせない足が、いくつかの動作で少しラクに動かせるようになったとき、「なんだ、このくらいのこと。以前の自分ならフルマラソンも平気だったのに」とがっかりするか、それとも「あっ、たったこれくらいのことでも変われるんだ。すごい」と興味と希望を見いだせるか、そこのところが大きい分かれ道になる。

自分の場合は運動など自分にはできるはずがないという「ダメもと派」。それが三十代に操体法に出会い、山歩きをするようになった。「へえ自分にもこんなことができるんだ!」という発見で夢中になって登っていた。ところが三年前に交通事故のムチウチで、とつぜん何もできなくなった。以前できていたことができなくなることの恐怖というのを初めて知ったような思いがした。「以前の自分ならあんな山、一日中歩いても平気だったのになあ…」。過去の自分と比較して今の自分をおとしめるようなことばかり考えてしまっていた。リハビリというのは、自分の将来の目標が過去の自分になりがちで、これがどうにもやりきれない。過去に登れた山の頂上をもう一度踏むこと。過去に走ったフルマラソンを完走すること。そんな、自分の過去をなぞって生きるというのは、過去の自分に見下されることに甘んじなければならないような気分だ。過去に登れた山に再び登れるようになりたいと切実に願う一方で、今の自分は果たして本当に、本心から、あれらの山にもう一度登りたいのだろうか、過去の自分を目指すことにどんな意味があるだろうかと何度も何度も自問した。

以前にできたからといって、それがずっと維持され、いつでもできるようになるとは限らない。エベレストに一度登頂できたということが、必ずしもその後いつだってエベレストに登頂できるということを保証するわけではない。さらにいうならば、過去にできたことを、再現できなければならないということもない。ものごとは一回きり、なのだ。過去にやったことは、過去の自分がやったこと。でも、その後の自分はまた別である。別のことを考え、別のことをやったって、かまわない。過去の自分を繰り返し生きることに、自分はさして意味を見いだせない。それがここ三年半をかけて得た自分なりの結論。こんなカンタンな、当たり前の結論にいたるまでに、ものすごい時間と相当な苦労があった。我ながら不器用と思うが、それだけの時間と苦労をかけた分だけ自分にとっては貴重な結論である。
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