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大きな壁の向こうでわたしを待っているものは
2010/06/20(Sun)
人の都合で晴れが「よい天気」にもなり「日照り」ともなる。歩けなくなったのは困った事だが体は自然の理にかなったことをしているだけ。別に悪いことをしているわけではない。その点、体のことは天気に似ている。

三年前には思いもしなかった。数時間歩き続けるということもできず、山道を10キロ20キロ歩くことなど夢のまた夢だ。私が歩けるようになる日は来るのか。いつ、どの程度歩けるようになるのか。それは誰にもわからない。
体のことは天気に似ている。晴れは「よい天気」。「天気がくずれる」とか「悪天候」という場合には雨や風のことを指すのが一般的だが、もともと天気に「よい」も「わるい」もないわけで、人の都合しだいで晴れも続けば日照りと言われ、天気が「くずれる」ことを願ったりもするわけだ。
自分にとって長時間歩き続けられるのはよいことで、歩けないのは困ったこと、わるいことである。しかし「よい・わるい」はこちらの勝手な都合。自分の身体はただ自然の法則にしたがって結果を出すだけだ。歩けないようになったからといって、体はべつにわるいことをしているわけではない。自然の理にかなったことをしているだけである。
今となっては長時間長距離を平気で歩けていた自分が不思議でもある。なぜあんなに歩けていたか、それがわからない。なぜこうも歩けなくなったのか、それもわからない。シップだのホットパックだの薬だのとやろうと思えば手当ての方法はいくらもあるだろう。しかし「なぜこうなったのか」「どのような手当てをすればどのくらいの期間で、どのていど治るものなのか」といった肝心のこととなると、誰にも答えられない。肝心なことはわからないまま、あれこれやるのはむやみに鉄砲を撃ちまくって「数撃ちゃ当たる」と期待するのと変わりはない。まちがった手当てが副作用や症状の悪化を招くことを考えれば、おまじないの札を貼るのとシップを貼るのとどちらが本当に「よい」ことになるのか、安易に判断を下すことさえ危ぶまれる。
体の調整はもちろんのこと、食生活についても工夫を重ねてきた。歩けないなら歩かないのかというと、歩けるだけは歩く。違和感や痛みを体の調整で軽減しながら動けるだけは動いていく。野外で体を動かすことも楽しむ。テント泊もその一つであるが、最近楽しんでいるのは岩だらけの河川を遡行するという遊びである。
河原をうろつくと不規則なでこぼこに対応していろんな筋肉を使う。それがよいというのを以前どこかで聞いてきて興味を持っていたのだった。大きな岩がごろごろしている河原を上流に向かって歩いてゆくだけのことだが、散らかり放題の部屋の中を歩くのにも似て、流木やら岩やらでごったがえしになったところを乗り越えたり迂回したりして進まなければならない。どこにどう足を置いたら一番無理がないか、考えながら歩く。一見、何でもない場所も近づいてみると通過するのに苦労する。河の流れもじゃまをする。濡れた岩は藻でぬるぬるして危険きわまりない。少しの距離に手間暇かかるので振り返るといつも少ししか進んでいない。自分が小さなアリにでもなった気分だ。ささいな砂粒にも足をとられる小さなアリの自分。それを上空から見物しているもう一人の自分がいる。地べたを這いつくばる小さなアリは、アリの生真面目さで淡々と歩き続ける。

河をさかのぼっていけば大なり小なり滝がある。崩れ落ちそうな岸壁には近寄らず、コンクリートの堰堤などは林に入りこんで迂回する。沢登りというほどの高度なものではないが、どこまでさかのぼっていけるか、先のわからないところが面白くなってくる。
一時間もすれば足が止まる。ここからが本番というところなのだが、体力面でも気力面でも今の私はそこでストップだ。今回もまた同じ地点で私の足は止まった。少々大きめの滝の手前である。岩のサイズがそこから一段と大きくなり、私を威圧する。岩の重なりあった様子がまた、疲れかけた足をとどまらせる。増水した水の、ひっきりなしにざあざあいう音は私を落ち着かせない。
「今日もまたここまでか」ごつごつした河原にブルーシートを敷いて寝転がる。空は一面白い雲で覆われているが、ふっと明るくなったり、すうっと暗くなったりをさっきから繰り返している。市民の森公園から一時間足らずにすぎないが、まるで人の気配がない。山道ならもうとっくに何人かとあいさつしを交わしているところだ。山を歩くのなら目指すゴールはみな同じだが、こんな河をこう、ただ登っていくとすると、どこまで進めばよいのかさっぱりわからない。道具もなしに登っているから、どこかで一歩たりとも進めなくなる。それがかえって気軽ではある。初めてここにたどり着いたときには、ここが行きどまりと決め込んだが、二度三度と足を運ぶうち、進む余地が見えてくる。

ブルーシートの上に起き上がり、行く手の滝をじっと見る。たったあれほどの落差が越えられそうにないというのも不思議だ。越えようと思えば越えられそうだが、きちんと調べる気がしない。滝の前には背丈を越える岩が三つほど陣取っていて、何か寄せつけない感じがする。滝の向こうの風景を私は想像してみる。滝を見上げたすぐその向こうには茂った草や木の枝が見え、枝先の一つにはピンク色のテープが巻いてある。誰かがこの滝を越えてつけたものに違いない。となれば、これを越えるというのもそれほど無茶なことではないだろう。
急に空が暗くなった。降ってきそうな感じだ。濡れた岩は滑りやすい。ただでさえ岩場はごまかしがきかない。岩に置く一歩一歩に体重を確実にのせなければならないのだ。それがまた歩行のトレーニングになると期待するところではあるのだが。
いやしかし今日はもうここまでにしておこう。そう決めたとたんにふっと肩の力が抜けた。どうせ戻るのなら次に来たときのために先を調べてみようという気になった。立ちあがると右足のヒザの調子がおかしかった。ヒザ裏が固く引きつったようになり、曲げ伸ばしがいうことをきかなくなる。この異常はいつ、どのようになっていくのか。それは誰にもわからないことだ。この右ひざのために自分はずっと足止めをくっている。
行く手をふさぐ一つ目の岩をよくよく調べてみると足がかりがないわけではなかった。へたりそうな右足に体重をのせ、よじのぼる。このくらいの高さでも足を滑らせればただでは済まない。そう想像するだけで目がくらむところだが、「調べるだけだ」というのが言いわけのようになっているのか、妙に何ともない。岩の上からルートを探していると、二つ目と三つ目の大きな岩の間には、もぐりこめそうなすき間がある。二つ目の岩にそろそろと移動をし、いったん下りて地べたにひざまずく。クモの巣だらけのすき間から向こうに抜けると、あとはそう大変でもなかった。さほど大きくもない岩をいくつか乗り越えてゆくと、あっけなく滝の上に出た。
滝の上から自分のたどってきたほうを見下ろす。ごろごろした岩と水の流れと、両岸に広がる広葉樹や杉の林と。へんてつもない風景とでも言うしかない。振り返って今度は滝から先のほうへと目を移す。そこもまた、大小の岩と生い茂った草と、両岸に濃い緑が広がっているだけで、さして変わりはないのだった。山歩きもこんなものだったなと思う。まったく同じことは二度と起こらないのだけれども、似たような場面を何度も何度も通過して、頂上を示すものが現れるまで根気よく歩き続けるだけなのだ。私の視線の行き着く先には古びた堰堤の苔むした壁が立ちはだかっている。あの堰堤を迂回できなければこの小さな冒険も終わりだ。そう思いながら、私の目は勝手に先を追う。あの茂みは簡単に通過できそうか、茂みの向こうはどうなっているかなどと探りを入れるのをやめないのである。私の足のほうはしかし、戻りたそうにしている。どこまで進んだからといって特別いいこともない。かといって特別わるいこともないのだから、やりたければやるがいい。しかしいま無理に進んだからといって無理をした分いいことがあるというわけではない。やりたくなければもちろんやらなくていい。無理する必要はない。そんなことを何度も何度も自分自身に言い聞かせるうち、戻る一歩を踏み出していた。マンガの中の忍者なら、ぴょーんぴょーんと一気に岩伝いに下りていくところだがなと思いながら、大きな岩にしがみついたり、きかなくなってきた足をゆっくりゆっくり運びながら、河を下っていった。
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