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すべてを受け入れる心の準備
2010/06/16(Wed)
体がほどけて自由になる。体を調整していると、これまで歩いた山の風景とその中で心をおどらせている自分の姿が浮かぶ。あそこまで行きたい。そう願う自分と、「今ここ」こそが自分の「あそこ」なんだと思う自分とがいる。そのような自分のありようもわるくはない。

昨年末から「毎日歩く」を実行している。最初のうちは悲壮感に似たがんばりで毎日山に出かけたが、最近はお天気続きをいいことに朝に夕に川べりの土手を軽く流す。体を動かしながら、体の違和感が減るように減るようにと調整しながら歩く。歩くのはだんだんどうでもよくなってきて、違和感をとることがメインになった。ぶらぶら歩くと自分の体のどこに、どのくらいの違和感があるのかがほんとによくわかる。

違和感が減ると体ががぜん軽くなり、日々心地よく過ごせる。もう何も言うことはない。しかしただぶらぶら歩くことにさえ意味をつけたがるのが自分の欲である。具体的にはまたもう一度大きな山に行くんだという気持ちが湧いてくる。老化だか交通事故の後遺症だか理由はともかくとして長時間の山歩きができなくなっていった。そこに少々無念の気持ちがある。体の違和感をひたすら取り除くぶらぶら歩きの行き着く先に、元気な山歩きがあるのかどうか、まだ確信は持てない。何も意識しないまま都合よく登れるようになるということもないとは言いきれないが、まあなかなかないことだろう。しかし意識しすぎると体の声はがぜん聞き取りにくくなり、自分の努力で自分をこわして元も子もなくすという、よくあるパターンに陥ることは目に見えている。焦りがちな自分に私は何度も話しかける。「行きたいところがあればいつでも行けばいい。持久力や体力がついてからなどと遠慮することはない。やりたいことはやってみろ。やってみないと結果もわからない。結果がわからなければどうすればいいかさえわからない。本当に自分に必要なものならやっていくうちおのずと身についていくものなんだ」。すると焦っている自分が答える。「わかった、やってみる。でもほんとのこと言うと今すぐにというわけでもないんだ。いつまでにやらなきゃっていうことでもない。ただそうなってゆけばいいなあと思うだけ」。

朝の川べりに行くと、自分のどこかに焦りの気持ちがひそんでいることに気づく。筋肉の調整に焦りは禁物。少しでも欲を張れば動きに力みが入り、感覚もくるう。「気持ちいい」の加減がくるえばただの体操となりはて、かえって筋肉のこわばりを増し、違和感を増すことにさえなる。ほんとうに一番よい加減は60点。「操体法は60点主義だ」とよく戒められもする。焦る自分が言う。「自然のリズムにまかせた回復がベストだということはわかる。だけど人間いつ死ぬかわからない。残り時間がわからないのだから、もう少し強度をつけて一か八かの勝負に出てみてはどうか」。ゆっくりと、傍目には動いているかどうかさえわからないほどの動きで痛みと快感とをさぐりながら私は答える。「間に合わなかったら間に合わなかったで受け入れるほかはない。ただ欲求を通せばいいというものでもないだろうから。それをどう受け入れるてゆくかが人間の深みでもある。無理をじたばたやればどういう結果になるかこれまでにじゅうぶん経験してきたはずだよ」
体のしばりがほどけて自由になる。調整をする私の目の前に、これまで歩いた山の風景とその中で心をおどらせている自分の姿が浮かぶ。あそこまで、行きたい。切実にそう願う自分と、今ここ、こそが自分の「あそこ」なんだという自分とがいる。そのような今の自分のありようもまた、わるくはない。
「やるだけのことをやったら、あとはなるようにしか、ならんしー。やるだけのことをやっていけてたら、おのずとすべてを受け入れられるようになっていくはずだよー」と私は自分に言い聞かせる。先を見越しているつもりでも、実際には出てくる結果でしか判断できないことばかりだ。出てくる結果をどう見てどう受け入れるかを観察し判断する。そのほうがよほど重要だ。「自分の努力が自分を不幸にしているっていうことはないだろうか」と自問自答することもある。私は笑ってこう答える。「はっはっはっ。それは大いにありうることだ。しかし自分で決めて自分でやったことだろ。結果は自分が引き受ければいいんだからいっそのこと気がラクじゃないか」。
なるようにしかならない。万事が自然の働きに従うという意味ではすべてのことに言えることだ。自然を受け入れるということは、言葉ではカンタンに言えるけど、なるようになってしまう結果を受け止めたり引き受けたりするにも訓練がいる。文句を言おうと言うまいと、自分勝手な解釈の世界で納得しようとしていまいと、自然の働き以上のことも以下のことも何ひとつ起きてやしない。それが操体法の橋本敬三の言っていた、自然の怖さというものではなかろうかと思う。

そんなことを思いながらひたすらに体を動かしている。すると何がどうなっていたって、かまやしないじゃないかとふとそんな気になる。投げやりのように聞こえるだろうが、拗ねた感じはなく、目の前が急にひらけたような、諦観とでもいおうか、苦労して歩いた末に頂上に足を置いた瞬間感じる解放感とも似た感覚につつまれる。気に入らないことは数え上げればキリがない。だからってどうにでもなることではなし、それがあるからどうということもなし。私のこの身のまわり全てが、身のまわり全てのありようが、私の手になど決して届かないところの自然法則にしたがっている。それは避けがたい一つのかたちをまとっている。だからどうなっていようと、どうなろうとも、自分はかまやしない。かまってもどうにもなるやしれないようなことにかかずりあってもしょうがないだろう。自分の願いもまた、叶うにせよ叶わないにせよ、自然の法則にしたがって動いていく。ひたすらに体を動かしていくことで、私はすべてを引き受ける準備を少しずつととのえているのかもしれない。それが、それだけが大切なことだという気もしてくる。一番大切なことをはずしていさえしなければいい。あとは付録。オマケだ。どんな結果が出てこようとよゆうで引き受けてやる。そんな気分で川べりから戻ってくる。
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