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死生観の新しいバージョンを追加したいと考えた
2010/05/07(Fri)
赤ちゃんの頃どのように過ごしていたか。詳細な記憶を持つ人はいない。赤ちゃん時代の記憶がないのだから自分には赤ちゃん時代がなかった。そんなことを言う人はいないだろう。
意識というのは相当にあやふやものだと養老孟司さんは言っていた。自分はずっと自分、変わらない自分と思い込んでいる。それが意識の役割であり働きであるのだけれど、昨夜寝る前の自分と今朝起きたときの自分がほんとうに同じ自分であるのか確かめるすべはないではないかと言い、聴衆をケムにまいていた。

『ダライラマ「死の謎」を説く』の中に、自分にそのおぼえがなくても赤ちゃんの時期を過ごした事にかわりはないのと同様に、前世のことが自分の記憶にないからという理由で必ずしも前世を否定する必要はないという記述がある。ななめ読みしているうちに、「死んだら終わり」という考えは目の前の現象を見てそう思われるだけのことにすぎないのかなと思った。何にもない所からポンと生まれ、ある日あるときバタッと倒れて死んだら消えて何もなくなってしまう。そういう日常感覚的な死生観もあると思うけれども現実には親のない子はいない。親のない親もいない。何もない所からポンと生まれてくるわけでなく、何代にもわたって自分の源をさかのぼることができる。400万年前の人類の起源から今日の人間まで何世代を重ねてきたか。今の人間は40万世代目くらいにあたるという試算もある。女がいて男がいてそれが子どもを持つ。子どもがまた女となり男となりそれがまた子どもを持つというようなことを40万回くらいは行ってきて自分がいる。その生活の積み重なりや広がりでつくられてきた自分の心と体。自分の意志くらいではどうにもならないというのも道理だと思われてくる。

死ぬということを考えるはずが、自分が生まれる前のことになってゆく。
枠を広げてみる。人類の歴史はたかだか400万年から500万年。しかし生きものの起源を自分の源としてさかのぼってゆくと38億年だか40億年だかの生きものの歴史が横たわっている。さらに時間をさかのぼって宇宙の始まりというところに行き着く。ビッグバンは150億年前に起きたという。批判的な意見も多いが、相対性理論が正しいとなれば数学的には150億年前より前には時間は存在しないということになるのだそうだ。ここまでくると数字の遊びめいてくるのだが、150億年より前にはもうなんにも存在しないというのは容易には受け入れがたい。
若い頃、自分の死、自分の不在という状態のことを思いつめていた時期がある。死後永遠にこの自分という意識を失うというイメージが止まらない。私の行く手にはがっぽりと大きな闇が口を開いて待っている。闇にのみこまれて目も耳もきかず鼻もきかず意識も失われ、そのことばかりを思って自分の行く手に目を見張っていた。あるときふと自分の後ろを振り返り、自分の来し方へと目を向けてみた。自分が生まれる前にはどのくらいの自分の不在が、闇があったのだろうかと気になったのである。人類の誕生、生きものの誕生、さらに地球の始まり…。私の背後にもじゅうぶんな時間の流れが横たわっており、私は目がくらみ足のすくむ思いをしたものだ。私は行く手に広がる闇を恐れていたが、背後にも同じく大きな闇が広がっていたのである。闇は自分の後にも先にも広がっている。自分は生まれる前の永遠と、死んだ後に続く永遠とのはざまで綱渡りをしているちっぽけな炎でありか細い光であるように思われた。
何もないところから生まれ、死んだらおしまいというのでは行き詰まる。死んでおしまいというのなら、生きてるこの世のことだけ考えるのがベストだ。この世の成功と楽しみだけが生きている意味であり、それ以外のことは望ましくないこと。生きていることそのものが成功の頂点であり死ぬことは最も望ましくない失敗なのだが、これを避けることはできないからエンディングはアンハッピーだと決まっている。あとはどう上手に負け惜しみを言って取り繕うか。永遠に生きられるものなら生きたい。死を先延ばしにしたい。それが本心である。
仏教の時間のとらえ方は大きくバージョンが異なる。始まりは、始まりなき始まりと表現され、終わりは終わりなき終わりと表現される。宇宙は永遠に回り続ける。そういう考え方のほうが現実的でしっくりくる感じがする。『ダライラマ「死の謎」を説く』に目を通すうち、私の死生観はもう一つのバージョンが加わって、生きることに対する姿勢も少々変わりそうな予感がしてくる。

虫や動物を飼ったことがある人ならわかると思うが、生きものは生まれたときからすでにたくさんのことが備わっている。生まれたときから個性があり、カブト虫だろうとカメだろうとけんかっ早いものからおっとりしたものもいて、最初から一体一体に独自の傾向が見られる。生きものはタブラ・ラサ=白紙の状態で生まれてくるのではない。すでに生まれる前から書き込みがされている。その書き込みはどこでどうなされているのか。その解を遺伝子だけに求めるのには仮説としては成り立つが無理があると感じる。少なくとも仮説の域を出ないままわからずに終わる可能性は高い。この程度では人間自身は自分の本能に書き込みをしたり書きかえをしたりできないのは確かなことだ。だから生きものは生き死にを繰り返しながら魂の経験を積んでいると言ったとしても別に何の問題もない。私は宇宙の始まりから現在に至るまで生き死にを繰り返してきたと言ってもいい。これからも永遠に生き死にを繰り返しながら経験を積んでゆくと言ってもいい。もう生まれてくる必要さえもない。そういうこともあっていい。私がこの世での死を迎えてそれで終わりと考えておかねばならない必要はないとなれば、生きてるうちに楽しもうとせつな的になることもなく、次の世のことも見据えてじっくり最期まで生きてゆくのもわるくない。この自分の限界ということもある。積み残しが出そうなら次の生の宿題としておくのもいい。そのような考え方も自分の選択肢に入れてよいということだ。検討したい。
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