生きている間のことばかりで思考を制限したくない |
2009/10/08(Thu)
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何を忙しくしているのかわからないのに気がつくと時間がなくなっているということをよく耳にする。それほどにだいじなことをやっているのかと一つ一つ調べていくと、忙しくするほどのことは何一つない。とかくあくせく過ごしてしまうということであるらしい。
何がだいじなことで何がだいじではないのか。これを決めるのがまたむずかしい。 「勉強はだいじ」という。「勉強ができる」というのは「あたまのよさ」や「判断力の的確さ」さらには「人格」への信頼さえ証明してくれるものらしい。社会一般ではそうなっている。 勉強ができるというだけの理由で東大の医学部を受験するという話はよく聞く。本人が医学に関心があるとか、いのちのことに関心があるとか、そういうことではない。これだけ勉強できるのなら東大医学部も夢じゃないという周囲の流れに乗っている。そう説明された。 受験やテスト勉強は、非常に小さく限定された世界の、限定された期間にだけはばをきかせるものである。受験については私は個別指導で長くやっていたが、受験勉強を教えることについて困ったためしがなかった。受験の指導ほどラクなことはない。まず期間限定。受験は短期的な視野で割り切ることでうまくいく。また受験とは水戸黄門の印籠のようなもので、進学先に迷うことはあっても受験そのものについては疑問がない。いや進学先さえ東大か京大あたりが最高とされ、そこに疑いをさしはさむ人は少ないだろう。少なくとも受験関係者の中にはそんなことをする人はいない。疑問を捨てた者だけが受験に集まってくる。そして正解のない受験問題はない。時間も労力も小さくおさえて正解にたどりつくのがよい。できることなら内容の理解などという面倒なことは抜きに条件反射で正解が出せればそれが一番都合がいい。これらの思考パターンは勉強がデキる人だけでなく、デキない人にもしっかり身につけられている。 『ブッダのことば』(岩波文庫)に書かれてあることは、視野を生きている期間に限定せず、死んだあとのことまで含められた壮大なものである。それが何より自由である。にんげんの勉強、たましいの勉強がしたい。自分にはそれをする必要があると、最近はとみにそういう気持ちになる。受験の世界に長くいすぎたのかもしれない。「とりあえず今だけは」といった期間限定をとっぱらってものごとを考えていくと、だれもが直面する課題の一つとして生き死にの問題、ブッダの指摘する「生・老・病・死」にたどりつく。生きるうえでの基本は万物流転、諸行無常だ。そこを中心にすえて考えていくと、何が自分の信じるに値するものなのかは決めつけるわけにはいかなくなる。正解は、おそらくない、だろう。あったと思っても、次の瞬間にはそれが正解ではなくなっている。そのようなつかみどころのないようなものを、それでもつねに手探りしてやまない、それが生きる営みということであるのかもしれない。 生きものについての思考は、テスト形式でつちかう思考パターンでたちうちできない。だから「いい学校、いい会社」で優秀もしくはふつうでやってこれた時期が長いほど、生きものの世界についてはかえってものわかりがわるくなるという落とし穴がある。そういうこともいえるのではないかと思う。 幼少時から青年期の時期をテスト勉強の繰り返しで過ごしてきた可能性のある職業として、教師と医者がある。生き死ににかかわる問題に対して、テスト問題で正解を出す力では何の役にも立たないのであるが、それが一般には「あたまのよさ」「判断力の的確さ」を示すモノサシとしてはばをきかせ、権威を大きく裏打ちさえしている。そのことをよく考えて見直す必要もあるのではないかと思っている。 スポンサーサイト
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