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生きる活動を支える解毒・排毒について
2009/06/10(Wed)
「お金はだいじ」「生きるのはだいじ」。その二つのことにかまけて過ごす日常の中でふと、「生きている限り毒素を出しつづけなければならないさだめなのだなあ」などと思い、「生きるというのは一筋縄ではいかない」とことさらに実感される。

肝臓や腎臓は、生きることは不浄であるということを前提とした臓器であり、ひたすら体内の浄化につとめる。呼吸する。水や食べ物を摂取する。そのあと体内で起きるのは、生きつづけるのに必要なエネルギーを取り出す化学反応である。その生命活動の化学反応のいたるところで毒素が発生するのはまぬがれない。多かれ少なかれ自分が生きていくことで出される毒素が自分の体内をかけめぐるのである。めぐるうちに肝臓や腎臓へと集められ、無害化されて外に出される。そのようになってはいるが、肝臓や腎臓による浄化力しだいでは、からだは弱り、病気にもかかりやすくなるだろう。最終的には死に至る。肝不全、腎不全で苦しむというのは自分のつくった毒素で自分自身がやられるということだ。肝臓をわずらったとき実感した。

食べ物のゆくえを追う。食べ物が進んでゆく体内トンネルには百兆もの微生物や細菌がわいている。このものたちもまた、エネルギーをとりだして無心に生きようとするばかりである。百兆のものたちの、生きようとすることにまつわるおびただしい化学反応から毒素が吐き出されもする。有益なもの、たとえばビタミンや薬効成分などが吐き出されもする。自分にとって都合のよいほうだけというわけにはいかないのである。毒物がひょいと無毒なものにされたり、有益なものがさっと毒物にされたり、そのようなめまぐるしいことがじっさいに起きているという。毒素を吐き出すものたちの増える条件がととのえば、トンネル内は腐敗し、さかんに毒素がつくられて体中をかけめぐることとなる。腹の中は浄化と不浄化とがひしめきあっている、おもしろい場所ではある。

私の体内や体の表面にいつもうようよとひしめきあうものたちにとって、私の怒りや悲しみは、私にとっての雨や風と同じように、生きる環境の変化である。私が何をして何を考えるか、どんな呼吸を行い、いつ、なにを、どのように食べるか。どんなふうに睡眠をとるか。それらすべてがかれらの環境に変化をもたらしている。ペーハーしかり、酸素量や温度、圧力しかり。うようよひしめきあうものたちのすみかの条件を私は常に変化させている。そしてあるものはそれで栄え、あるものはそれで衰退をする。浄化と不浄化とのバランスはそうしておのずと決まってゆき、健康をも左右する。
生きるという活動はブッダの指摘のとおり、まさに不浄である。
それが生きるだいじさをそこなうということでは決してない。不浄なばかりでは生きられない。生きるかぎり不浄はまぬがれないが、その一方で自分で自分を浄化しながら生きている。
生きる。実はこれがもともとの病気の原因で、生きる活動がなければ病気もない。こんなことにいちいち感心してしまうことが、ある。
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