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感覚が鈍くなってはたらかなくなるとき
2009/05/29(Fri)
水に入れたカエルをゆっくりとあたためていくと死ぬまで気がつかないという。出ようと思えばいつでも出られる。手を伸ばせばすぐのところにふちはある。
しかしいつまでも鍋の中でカエルはスーイスイと泳いでいる。鍋をゆっくりゆっくりあたためていくと水もゆっくりゆっくりあたたまってゆく。鍋の水はたっぷりとしていて、出ようと思えばいつでも出られるところに鍋のふちは、ある。すぐ目の前にあるふちに手をかければ、すぐに、出られる。カンタンなことだ。

有名なゆでガエルの話である。鍋はゆっくりあたたまっていく。カエルはすいすい泳ぎつづける。水があたたまっていくことに、カエルはどのくらい気づいているのか、その表情やしぐさからはうかがい知ることはできない。そのうち水の表面からもわもわと白いものがわいてくる。だいじょうぶなんだろうかと思うが、あわてた様子もないし鍋から出てこようともしない。本人がああしているんだからだいじょうぶなんだろうなあなどと思ううち、はたしてカエルの動きはとまる。引き上げてみると息もたえだえである。これでは助かるはずも、ない。

「死ぬまでわからないものだろうか、あきれるなあ」。ゆっくりではなく、さっと加熱されれば、カエルはびっくりして飛び出してくる。大きな変化には気がついて命は助かるのである。しかし、ごくごく小さな変化の積み重ねには気づかない。気がついていても無視できるくらいの変化だから「このくらいだいじょうぶ」「次もきっとだいじょうぶ」と無視をかさねるうちに、感覚もはたらかなくなってくる。小さな変化は見落とされ、ないことになってしまう。感覚がだまされて鈍くなり、ついに反応しなくなると、かえって「調子がもどった」「よくなった」などと安心をして深みにはまっていく。慢性病のおそろしさは、まさにここにある。病気そのものよりも、感覚の働かなくなることのほうが、よっぽど重大である。そして突然に「急にわるくなった」とあわてる日もくるのだが、急にわるくなるなどということは、まずありえないわけで、たくさんの見落としをして、「だいじょうぶだ」とカンちがいをしたまま時を過ごしてきたということ。気がついたときにあわてて病院にかけこむようでは、もはや手遅れ。死にはしないまでも、きちんと回復するにはいたらない段階であることが多い。

出ようと思えば、いつでも出られる。手を伸ばせばカンタンに出られるところに鍋のふちは、ある。出ることじたいは、ひょいと一またぎで済むことだが、じっさいに鍋から飛び出してくるのは、ごくわずか。ほんの一部だと思っていい。
私たちは、大きな、大きな鍋の中で泳ぎつづけている。じゅうぶんに間に合うタイミングで、「ああ、もうガマンできない。なんてあついんだ、ここは!」と気がつく感覚が、命を救う。そうやって飛び出してくる数が、少しでも増えることをわたしは願う。
そういうわたし自身は、どうなんだろう。加熱していく鍋からきちんと飛び出せているのだろうか。
それはわからない。ふちに手をかけたまま、のんきにも「まだあと少しならだいじょうぶ。このぬるま湯に浸っておくのもわるくはない」などと思案している最中なのかもしれない。周囲を見渡せば、気を失いかけたのや、すでに意識のないようなのがふちにいっぱい集まっている。いいセンまで行きかけて途中で力尽きたとでもいうか、そんなふうなのもじつに多い。本人だって、そうなるとは夢にも思わなかっただろう。
生きるということは、ときには目の前の鍋のふちを思い切ってエイヤっと飛び出すことなのかもしれない。エイヤっと飛び出して、どこに行くのか。気がつくと、またまた新たな別の鍋の中で泳いでいるのかもしれない。目の前に「ふち」があるので手を伸ばしてみたところ、気づかないうちにエイヤとふたたび鍋から飛び出していた。そういうことも、あるのかもしれない。
鍋の中の水があつくなるのは、自分のせいもあるかもしれない。自分が泳ぐうちに自分でぬるま湯にしてしまう。気がついたときには、また「ふち」に手をかけて、エイヤとまたげば、いい。エイヤっ、エイヤっ、ヤっとこさ。

都会の生活は太陽を見失い、季節を失った生活である。たとえば稲作をする生活だと、太陽の運行は作業の節目となり、生活の節目となる。竹に節がいくつもあるように、一年という時間にもかならず区切りがあって、大きな作業や祭りのたびに、節目は意識され、生活の見直しや命の再生や、あの世だとかに、意識を運んでいくきっかけになるのではないかと思われる。
都会の生活は、太陽がどこにあろうとなかろうと同じように過ごすべし。夜中に外を出歩いていても、犯罪などに巻き込まれさえしなければ「別にいいじゃん」。いつ、どこで、何をしようと「自分の勝手」「気分しだい」である。そういう意味では都会の生活は自由である。自由はべつにわるいことではないが、しぜんのルールをやぶりやすい。体は、しぜんのルールについてゆく。あなたの「勝手」にはついていかない。季節を見失い、太陽の運びを無視した生活は、しだいに命がけの様相を呈してくる。「自分勝手な生活」は、各自が命がけでやっているということだ。命が惜しければ、そしてあんまり苦しみたくない場合には、しぜんのルールを見直したらいいよということである。
ごいっしょに、エイヤっと、飛び出してみませんか。
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