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さあ、願ってみようか
2009/05/27(Wed)
動物たちの現在の姿は、生きものが三十八億年生きのびてきた結果だ。身についたあらゆるものが生きのびるために必要な戦略なのだといっていい。
私にそなわっている心や意識も、今を生きのびるために必要な戦略であるし武器なのだと考えることができる。

とつぜんだが、神さまが、あなたの目の前にあらわれるのだ。そして「3つだけ、願いをかなえてやろう」と、言う。わたしは何を、願うだろう。一つではない。三つも願いはある。さあ、願ってみよ、と私は自分自身を、けしかける。とまどう自分がいる。尻込みをする自分が、いる。

言わずと知れたフランスのお話である。料理屋を営む夫婦が不平ばかり言って暮らしているところに、あらわれるのである。「3つの願いをかなえてやる。どうしたいのか?」と。
不満をあげつらうのには威勢のよかった夫婦が、いざ、こう問われたとたんにおろおろし始める。あげくの果てには腹がへり、「ソーセージを焼いて食べたい」などと願う始末。願いのムダづかいをしたと言って腹を立てた夫は「ソーセージなんぞ鼻にでもぶらさげりゃいいんだ」と願ってしまう。
この人たちは、なぜこんなにあわてなければならなかったのだろうか。

「どうせなんにもうまくいかないんだから、あわてることもないさ」
不平不満を言っているあいだはゆうゆうとしていられる。ほんとうに何をやってもダメならば、考えてもムダ。何をしたってムダというのがリクツである。グチをこぼしながらあんがい満ち足りた様子である人などは、私の周りにいくらでもいる。
料理屋の夫婦は「さあ願ってください。願えばなんでも実現しますよ」の一言で、「そうか、おれらも何かしらうまくいくかもしれない」と気づき、あわてはじめたのだと推測される。「もしかして、自分にも何かできるんじゃないか」と思うときの、あのワクワクした感じが私は好きだ。その「何か」の中味には、それほど私はこだわらない。はたから見れば他人の願いなど、ほとんど無意味であろうから、自分の思う願いなどもそうそう大したもののはずはないのだ。しかし本人が願うからこそ、その願いには価値がある。願いは、願うもの。願いの本質は、そこにあるのだとも思う。

子どものころ、この話を聞くたびに、ソーセージにまつわる食欲と憎しみに振り回されるこの夫婦のことをバカにした。「腹が減ったからソーセージを食べたい」だとか、「お前のバカ面の鼻にはソーセージをぶら下げるのがお似合いだ」などという願いには、自分は決して振り回されはしない、と。
しかし、どううまく立ち回ったところで、結果は似たり寄ったりになりそうな気がしてくるのである。それに、このどたばたの騒ぎのあと、料理屋夫婦はすっかり変わった。お互いを責めあって後悔にくれるなどということはなく、日々気持ちよく過ごすことができたのだ。それを考えると、バカにされ笑いものにされてきた彼らだが、実はじゅうぶん賢かったのではないかと思えてくる。
願いは3つもいらない。
そんなことに思い至ったのかもしれないと私は想像する。「願いは一つだ。一つだけで、じゅうぶんだ」
願いごとを考え抜いて、3つもバカなお願いをして、おろおろオタオタしたあげくに、わかったこと。
「なあんだ。自分たちはただ『しあわせになりたい』って願っているだけじゃないか」と気がついた。そういうことではなかったろうか。

神さまは日々すでに私たちの目の前にあらわれている。そして「3つだけ、願いをかなえてやろう」と言い続けている。姿がみえないとか声がきこえないとかいう、さまつなことはどうでもよろしい。そんなことは神においては不思議でもめずらしくもないことである。重要なことは、神はじっと待っているということだ。
神さまは、じっと待っている。さあ、何を願おうか。願えばなんでも実現する。
願うということは、意識をするということ。意識をすれば、とうぜん変わる。それが、生きのびるための戦略として備わった、私たちの意識のはたらき、心のはたらきである。
さあ、願ってみよ。わたしはどうすればいいのだろうか。わたしはどうなればいいというのだろうか。
私はいったい、何を願っているのか。自分自身に、いつも問い続ける。
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