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危機に際して役に立つこと-一番だいじなことは一生ものである-
2013/01/18(Fri)
基礎というのはバカにされる。とくに初心者は「先に行きたい」という気持ちが強くて基礎・基本というのは嫌がる。そしていつか進めなくなると「もうやめる」か「基礎に立ち返る」か、それとも「足ぶみ状態でもかまわず続ける」か、三つの選択肢が残される。

基礎を宝のようにだいじにする人々もいる。感覚が狂ったとき、迷いが生じたときは、自分がどうなっているのか自分でもわからなくなっている。わからなくなっている自分を知り、判断を下す手がかりとして役に立つものがあったとしたならば、それこそが基礎・基本である。危機的状況で役に立たなければ基礎でもなんでもない。捨ててもどうでもいいものだ。

受験の生徒に死なれてからずっと、何が一番だいじなことかを考えさせられている。一年間を一緒に過ごし、「この子たちはこれでいい」などと思っていたのが、合格して半年もしないうちに黙って死んでいった。それを知った時はすでに死んでかなりの時間が過ぎていた。長い勤務のあいだに死なれたのは一人ではなく、事故死などもあった。見知らぬ他人の死とはぜんぜんちがう。死が終りとはならず、彼らの死こそが彼らとの関係の始まりといっていい。

私は彼らに何を伝えなければならなかったろう。折にふれて考える。伝えなければならないことを自分は一つでも伝えられたろうかと思いがめぐる。生徒という立場に彼らを据え、何かを伝えるのが私の仕事だった。何を伝えるかは社会のきまりで決まっていた。教科書に書いてあること。受験に出ること。それを上手に伝えられることに対して報酬が用意され、それで彼らも満足していたかのように見えた。彼らとはそういう関係だったんだから、それでいいじゃないかと思いこみたいところだが、そうもいかない。
若かった自分の、生きて過ごした時間と、彼らの生きて過ごしていた時間を合わせて、あれだけたくさん一緒に過ごして一生懸命に取り組んだのだ。それがじっさい危機的状況のときに役に立たなかったとするならば、なんと不毛な作業だったことだろう。

何度考えたって同じところに行き着いてしまう。操体法をやっている間に、私はそういうことを考えさせられていた。あるとき操体法を習いに来られた若い理学療法士の方がいた。「はじめから教科書そのものがまちがっていたとしたら」と思いつめておられる様子だった。大学で教わった、たいそう立派な理論が現場で何の役にも立たない。先輩や同僚のところに足を運んで話をすると、「まあ学校なんてそんなもんじゃない?」とあしらわれるという話だった。
大検から過激に勉強して大学に合格したら「受験で勉強したことは全部忘れてください」と入学式で言われて私はがっかりした。会社の入社式ではきっと「大学で勉強したことは全部捨ててください」と言われているのだろう。
受験勉強は義務教育のなれの果てだ。後に捨てるとわかっているもの、役に立たないとわかっていることを、小学校から国民の義務として九年間も教わるというのは一体どういうことなのか、もう今の私にはわからない。
教師は義務教育で習ったことを一生捨てない。義務教育で習ったことを捨てたくないのなら教師になると辻褄があう。教師は一生、教科書から卒業しなくてよいのだから確かに辻褄はあうのである。

生きる役に立つことをまず教わろうとするのに私は三十年もかかった。生まれて生きて三十年かかってやっと、「ああこれがほんとうに生きるのに役に立つ基本らしい」と思えるものに出会った。死なれた生徒たちにはほんとに申しわけないことしたと思っている。最初からなぜ役に立つことを教えたらいけないのだろう。それとも大人たちは子供たちに伝えるものとして教科書以上に大切なことを知らないとでもいうのだろうか。

基礎・基本というものは、大人の役に立つだけではなくて、どんな小さな子供の役にも立つものでなければならない。そしていったん習いおぼえたならば、死ぬまで一生役に立つ、宝と思えるようなものでなければ基礎・基本という名に値しない。お互いに生きて限られた時間である。まず一番だいじなこと。「何を教えようか。よし、これならばぜったいに役に立つ」。そのように厳選されてきたことが、基礎・基本ということではなかろうか。

生まれて十年や二十年は役に立たないことでも一生懸命やってろというのが世の中のしくみなのだろう。生きてるうちに役に立つことが見つかったときは身につければいい。役に立つことは自分ひとりで見つけろということ。見つからなければそれまでよ、ということか。
それならそれでもいいけれど、それならそうとハッキリ言えばいい。あれだけだらだら勉強させておいて、家庭も学校も成績のことであれだけ真剣にもめて、バカにならない額の教育費を持っていかれる。
「いやまあ世の中そんなもんですよ」とあとで言うのはだまし討ちに等しい。中には本気で「将来の役に立つ」と思い込んでいた私のような人間もいることなんだし、忘れろ捨てろと言われたからって、そんな器用にぽんぽんと捨てられるようなことなんだろうか。根本のほうでは消し難い後遺症が残る感じもするのだが。
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