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人にきけ―行儀のよい客になりきるのもつまらない―
2013/01/14(Mon)
人の話は有難い。体験者の話は実に有り難いものである。
講演や講義のあと必ず講師のもとに足を運ぶ。話し疲れた講師はすでに取り囲まれ、観念した様子だったりする。気の毒だが講義の直後だからこそ、講師の頭も口もよく回転するのだし、いろんな話も飛び出してくる。絶好のチャンスなのだ。
授業をしたことのある方ならご存知と思うが、講義というのは一種のフィクションである。
壇上で話せることは時間も限られ、きれいにまとめられてはいるが、不純物が取り除かれ、雑味のない退屈な味になりがちである。いっそ本のほうがまとまりもよく、詳しかったりもする。本にもならず、講義にもならない不純物の中にこそ、宝ものが隠れている可能性も高い。
壇から下りた人間の生の声も聞かねば、木戸銭を払った価値はほとんどない。そう私は思うのである。

じっさい壇上で話すのが得意な人ばかりではない。講義のあとの雑談や直接のやりとりの中で、ものすごい話が飛び出してきたりする。
だからたとえ講義がイマイチだったとしても、または講義が最高におもしろかったとしても、そのまま帰ってしまうのはもったいない。生きた話し手をつかまえてみて、ほんとうにつまらなかったその時にこそ、さっさとその場を去ればよい。しかしどんなにつまらない講義でも、それを補って余りあるほどの話があとになって出てくる。それが人間どうしの不思議なコラボレーションというものなのかもしれない。
「今日はあとのほうが本番だったのに、先に帰ってしまった人は気の毒だったな」と思われることもある。本に書かれてあるようなことを、ただ聞いて満足するのではもったいない。生きた人間が目の前にいるのだ。一方的に話されることを行儀よく聞いて終りというのでは、お互い何のために時間と手間をかけて集まるのだかわからない。

優等生みたいなお客さまになるのはつまらない。聴衆になりきってしまっては得られないこともたくさんある。新聞社かテレビ局の取材で出かけるつもりにでもなって下準備をしておくと、講義内容もわかりやすく、あいまいにぼかしてあるところや説明を回避してあるところなどにも気づくようになる。
そこまでやらなくても、講師を取り囲む集団の中には実によく下調べをしている人や、講師よりも詳しいことを知っている人もいる。そういう人たちとのやりとりにじっと耳をこらしていれば、釣り糸に引っかかってくる魚は案外に大きい。思っていたよりたくさんの収穫があるとわかるだろう。
講師が壇上を下りた時が終わりではない。生きた人間が目の前にいて、自分の知らない豊富な知識や体験を惜しげもなく吐き出そうというのだ。なんと有り難い、なんともったいないことではないか。

何年ものあいだ、受験勉強を独学した。参考書を開くごとに、見たことも聞いたこともない数式に頭をかかえ、何時間も格闘するクソ勉強が何年も続いたのである。ストレスばかりで不毛な独学の末、めでたく大学に入って最初の講義を受けた時の感動は今も忘れられない。体験者の生の声は、実に有難いものだと涙の出る思いをした。
しかしそんな自分も大学生活に慣れるに従って、いつでも教えてもらえるという安易な気持ちが芽生えてきた。教えてくれる人はいくらでもいる。みんないつまでもいてくれる。だから勉強なんかいつだっていいやという気持ちになっていた。
ほんの最近になって、あのころの研究者に質問したいことが出てきたりする。もう亡くなっている方もいる。
「いつでも」じゃなかったなあ。「いつまでも」じゃないよなあ。
今。「ただ今。このとき」がすべてなのだ。「あとで」「またいつか」ではなく、「ただ今このとき」のチャンスに妥協なく力を出し切りたい。そう思う。
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