好き・嫌いがストレスのもと-一番嫌いなことが好きになれば恐いものはない-
|
2012/12/21(Fri)
|
「好き嫌いこそ個性」という一方で、「あれ好き!これ嫌い!」とうるさい人は周囲も不快だし本人も苦しそう。「好きなこと見つけろ」といわれる一方で、好きなことを追求する人はむしろ「苦手」や「嫌い」を減らす作業に熱心。スポーツなどその典型で、「苦手」や「嫌い」をどれだけ克服できるかが、好きなことを続けていけるかどうかのカギを握っている。
操体法で、体を右に倒すのと、左に倒すのと。「どっちが好きか、どっちがイヤか」とさんざんやらされてきた。 「どっちもそう変わらんじゃないか」と思われるようなことを、「鏡に映したように正確に同じ感じがするのか」と追求されれば、それはまずあり得ない。「そこまでいうなら、こっちかなあ」と、最初はしぶしぶやり出した。 体の弱い人や病気の治りにくい人ほど、操体法でできる動きのレパートリーが少ない。好き嫌いをハッキリ持ち、融通がきかず、「苦手です」「嫌いです」が山ほどあって、申し訳程度に「好き」がある。その強い偏りを「これが自分だ個性だ」と言って一切の変更を恐れ、拒絶する。生活の改善というより改変そのものができそうにない。 ガンコ・ワガママ傾向で自分自身をしばりつけ、身動きできずに苦しい思いをしている。そういう人ほど体の動きに「右も左もちっとも変わらない」と主張するから不思議である。 体の動きに伴う左右の違いがわかるようになってくると、言うこともガラリ変わってくる。「苦手」や「嫌い」が減って、数少ない「好き」にしがみつく必要もなくなってくる。食べ物の好き嫌いも減り、いろんなことが少しずつ平気になって無頓着の様相すら帯びていく。 あらゆる面で神経質だったのが図太くなっていく。それが健全ということなのか。 私自身のたどった姿である。「あれも苦手・これも嫌い」と「好き嫌い」を基準につくった自分の世界が、いつの間にか「あれ?好き嫌い減ってる」「イヤも好きもない。平気になってる」と気がつく一方、喜びや感動はむしろ増えている。 なるほど。感動するにも嬉しいと感じるにも、いちいち「好きだから」という理由は必要ないのだな、と思う。「好き嫌いなど気にすることもない。放っておこう」と思う。 好き嫌いあること。それはむしろ弱点かもしれない。「好き」にしがみつけば災いがもたらされ、「嫌い」は苦痛を伴わずにはいられない。「嫌い」をなくせば当然ながら「好き」と「嫌い」の差は縮み、どっちもまずまずという楽天となる。 以前に酒の席で、「自分の一番苦手なことを好きになったら世の中に恐いものはなくなるぞ」と師匠に指摘されたのは果たしてこういうわけだったかと思いあたる次第。 スポンサーサイト
|
コメント
|
コメントの投稿 |
トラックバック |
トラックバックURL
→http://soutai007.blog32.fc2.com/tb.php/1250-0e7e6065 |
| メイン |
|