それでも花は咲いている-水と大気と日光と-
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2012/12/19(Wed)
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川のほとりに野菜が育つ。「植えるのは法律違反です」の立札のそばで花が咲く、野菜も育つ。物心ついた頃からずっと変わらない風景。
川辺は誰のものというでもなく、育つ野菜も誰のものというでもないが、耕したり植えたりして手入れや世話をすることで、何とはなしに「その人たちの畑」のようなものができあがっている。 立札は定期的に新しくされる。花咲き、実りが収穫されるという営みの真っ只中で、「法に反する行為だ」と主張し続けている。私の知る限り、そんなことがもう50年以上続いている。100年以上続いているのかもしれない。同じ家の人がずっとやっているのか、主が交替していっているのかは、知らない。 そういう空間の、一時的な所有が続いて、現在に至っている。 野菜がなければないで野菜のない川辺の風景になるのだろうが、菜の花や、おナスや白菜やらが、季節の移り変わりを知らせながら、国の立札と共存して半世紀以上になるのが、自分の日常の現実を見るようで、おもしろい。 自分は野の花や虫と同じ、自然の生きもので、勝手に生まれて勝手に死ぬ。 しかし私が母の腹の中に宿ったことは速やかに届け出され、生まれる前から人間社会の秩序のもとに組み込まれた。それでも私が生きていられるのはまず第一に、ナスや大根と同じく、きれいな水と、きれいな空気と、日光のおかげだというのも事実。それなしにどんなケアをしようと生きられない。 新しい看板がなぜ作られ続けるか、住民たちは知っている。川はどんどんコンクリートで固められ、橋が渡され道路がつくられて、街全体が殺風景な工場のような風景に置きかえられてゆく。カワセミやカルガモたちの暮らしの場も失われ、水は決定的に汚くなる。周辺の住民はブルドーザーやらトラックやらが出入りを始めるたびに、「ああまたか、イヤだな」と感じている。花も畑も勝手につぶされるが文句を言う人はいない。「花や野菜を川辺に植えるのは法律に違反しているから」である。「そのこと忘れてないよね」というメッセージを感じ取っている。川のほとりは水害もあるが、土は肥えてうまい野菜が立派に育つ。育てられる間は育てるという現実的な態度が、立て札のある畑の風景だと私は思う。 行政に管理されていた山道が、数年前からふっつり放置されて荒れたところがある。もともとけもの道めいたところだったから歩く人もいなくなってしまった。ホームセンターで見かけた草刈鎌は一本五百円もしない。買った翌朝、早く目がさめ、久しぶりに出かけていくと、背丈を越えるススキや、笹やら何やらが行く手をふさぎ、道がどこにあるか見つけるのも苦労である。分岐点の入口と出口をそのままにしておいて奥のほうの整備を少しだけ、やった。久しぶりの鎌の感触が心地よい。最初はそっと、しかし途中からは大胆に、人の気配のない山中でささやかな自然破壊である。ほんとうは許可を取りたいが、煩雑な手続きになるだろう。許可を待った挙句、「立入禁止」の立て札が立つかもしれない。見つかって咎められたら「なぜこの道の整備は中止されたのですか」とすなおに聞いてみたい気もする。 間に合わせの鎌一本で90分。トゲの引っかき傷で薄赤くなった腕をひりひりさせながら、廃道寸前になったけもの道を最初から最後のところまでゆっくりとたどる。人の手が入ったとも思えない出来栄えで、枯れ草の乱れ加減がかえって落ち着く。「こういう脱線もときにはわるくない」と思われたり、「誰かに見つかったら、やめよう」などと思われたりもする。そして、「数百円でも鎌は鎌だな」とつくづく感心を、した。 スポンサーサイト
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