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優秀であるという、おろかさ-有能だけど愚か。無能であるが賢い-
2012/12/13(Thu)
学校のテストで百点とると一瞬鼻息が荒くなる。テストは小さく限られた世界だが、百点をとり続ければ小さな子供でも「優秀だ・有能だ」ということになる。どれだけ小さな世界の中でも満点以上は望みようもなく、「自分はこの世界を制した」という制圧感と、「もう自分は何でもできる」という全能感にじゅうぶんひたることができるのである。

世界を制圧し、何でもできるというカン違いに子供のころから何度となく酔いしれた。週二ずつしか通わない不登校生活でもテストの影響は少なからずある。いや不登校だったからこそ自分の存在を集団にアピールする、効果的で手っ取り早い手段にしがみついたのかもしれない。
「ここ来週テストします」の一声で教室全体が「ええ~っ」という声をあげる。誰だってテストはイヤなのだが、ここで「チャンスだ」と感じる人間もいる。自分の有能さ、優秀さをはっきりと見せつけ、自分の存在を認めさせるのにこれ以上わかりやすい手段があるだろうか。
不安と恐怖にあおられながら、ヤマをはる。小手先の細工でテストをまんまと乗り切り、担任から学年一番の人と二点差くらいだったと告げられたこともある。

中学を卒業すると働きに出され、今度は売り上げを競わされた。「売れなかったらどうしよう…」。「毎日がテスト」の日々が始まり、学級に成績が知れ渡るのと同様に、両親や店の者、そして各地の店舗にまで成績が伝わっていく。大人たちを抜いて売上げ一位になり、「優秀な売り手だ」と持ち上げられ、朝礼で「見習ってがんばるように」とほめられもしたが、結局はストレスに耐えきれず三年後肝臓病でダウンした。
それを契機に「大学に進学する」ということで受験生活に入り、がむしゃらにやった。
一生懸命はわるいことじゃないけれど、「不安と恐怖でがむしゃらに一生懸命」がよいというのでは、ムチ打たれながら泡くって走る競馬馬が人間の生きるお手本だということになる。
小学校にあがってから大学を卒業する30歳までのあいだずっと、不安と恐怖にかられて数字を追い求める生活を送る中で、優秀だ有能だと持ち上げられるたびに傲慢な喜びを味わい、酔いしれた。それは一瞬の快楽と引きかえに心身を蝕む麻薬の煙に似ている。小さい頃からテストで優秀さを定期的に測定され続け、医学部に入った後に国家試験に合格し、白衣に袖を通す。それもまた私たちの想像を絶する不健全な煙がまん延してはいないかと思うことがある。

「有能」と「賢さ」とは、ちがう。あくまで別ものなのだ。
私はつねに自分にそう言い聞かせ続けている。「有能」と「賢さ」はよくごちゃまぜにされているが、優秀・有能な医者に勧められた手術で恐怖や苦しみを味わった挙句に命が失われるということは、よくあることなのだという指摘も聞く。
「優秀・有能さ」に目がくらまされて人間としての賢さや愚かさがよく見えないということもある。自分の命や体をあずけようとしている人間が、どのような生活を送ってどのような教育を受け、何を考え何を感じてきたのか、そういうことも考える必要があるのかもしれない。
「優秀な人間が、驚くべき愚かさ・未熟さをかかえている」というのは、ちょっと意外なようでもあるが、「有能」と「賢さ」を分けてみれば当然ながら、「有能」で愚かな人間もいる。「無能」でも賢い人間もある。有能・無能の区別はわかりやすいが、賢い・愚かという区別は微妙な世界である。もともと人間は愚かさを免れるのは至難の業といわれる。ならば愚かな人間はいくらでもいるが賢い人間というのは非常にまれということになる。しかし「有能ならば賢い」というカン違いが一般にはあるから、どれだけたくさんの「有能だけど愚かな人間」が、「有能かつ賢い人間」として処遇されているか、わからないというのが現実なのかもしれない。

世の中には「有能・優秀」のレッテルを貼られた人間がなんぼでもいて、上には上がいる。「優秀・有能」もピンキリだ。どこまでいっても狭い区間を切り取って、人間規模の小さな世界で王者の地位を競うのが相対の世界だ。相対の世界は比べっこの世界である。比べっこの世界は競争の世界で、敵対意識にみたされている。王者の地位は一つ。その一つをねらって新たな参加者が後を絶たない。転落の恐怖と不安に支配され、ストレスも大きい。どこまで行っても不安と恐怖できゅうきゅうと過ごすのが相対の世界。安心感や幸福感と無縁なのも当然なのだ。
「有能」と「賢さ」の両方あるにこしたことはないが、どちらか一方をとれと言われたら、今の自分は迷わず「賢さ」をとる。人間の幸福は必ずしも「優秀さ」にはないが、「賢さ」には人間の幸福が見える。「賢い」とはもともと、人間が不幸になる道を見通して、未然に防ぐ能力をいうのではないか。
有能な機械・優秀な機械の出現により、人間が機械と競わされる。人間がいまだに機械よりも優秀でいられるのはどういう点であるか。そんなことを確認しなければ落ち着かないまでに人間が自信を失わされ、無能感でみたされそうになる時代でもある。

「バカは死ななきゃ治らない」というが、愚かさから賢さへと向かう道は、無能から有能へと向かう道よりもはるかに困難でけわしい。ちっぽけで一時的な「優秀さ・有能さ」に目がくらみ、人としての愚かさに注意を払わないまま年を重ねてしまった自分の迂闊さを、私は悔やむ。
今、私の目の中に映っているのは「優秀な売り手」だった以前の自分の姿である。売上げにきゅうきゅうとして声をからし、売上げのためには「嘘も方便」。売上げに情熱を燃やさない他の売り手たちを「無能」と断じ、自分を追い込む、かたくなな人間。それは決して賢い人間の姿ではない。人として未熟というほかないのである。
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