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雰囲気に流されることを楽しみながら、からめとられない
2012/12/11(Tue)
「アイラブユー」という言葉で済ませられる愛は軽い。黙って死ぬまで忠誠を貫き、態度と行動で「まごころ」を示す日本式は重い。これでは時間もかかるし、「通じない相手には通じないまま」ということになってしまう。「それでもいい。それを耐えてゆくんだ。いつかは通じる」という根性も「まごころ」には必要なのだ。

日本のCMは感性に頼るものが多いと指摘される。いったい何が言いたいのか、最後までわからない。主張をわからなくしてあるものがほとんどだ。日本人は生活の中で具体的データを扱い、ものごとの白黒をハッキリさせることに慣れていない。場の雰囲気に流されやすい傾向があるといわれるのも納得がいく。日本人はその場の雰囲気にだまされることを楽しみながら、時にはその場の雰囲気にからめとられ、身動きできなくなってしまう。日本人はだまされながらだまされていることに気づいているのかもしれない。

事実を言葉でチョキチョキ切り取って、虫ピンでかたちを固定して約束を整えることはできても、生きてかたちを変えてゆく現実の中では、約束さえも流動してゆく。「もののあはれ」「はかなさ」といった万物流転の感覚を背景に持つ日本語の約束の感覚と、「言葉が全て」の契約社会の言語である英語の約束の感覚とはまるで一致しない。
人間関係はつねに流動するから、だまし・だまされのいい加減さがかえって現実に即して人の輪をくずさないところがある。「言わぬが花」「口はわざわいのもと」というように、沈黙もりっぱな武器となる。「言葉を使うのには慎重であれ」というメッセージを支えているのは「言葉は武器であり、武器は危険物だ」との理解でもある。
言葉が足りないくらいが丁度いいという社会の中で私たちは呼吸している。危険な刀を振り回すように言葉をやたらに振り回すのは、たとえ理屈で正しくとも人間ができていないとみなされる。

日本語は、はっきりくっきり伝えることよりも、ぼやけさせたり隠したりが得意なのだ。だから日本語を使うときと英語を使うときとでは気持ちも顔も切り替わる。日本語は忍者のように本音を隠すポーカーフェイスである。英語では目を大きく見開き、口も大きく開けて、笑い声のボリュームも大きくなる。外国語だから緊張するということもあるのかもしれないが、英語は「エイッ」と切りかかってきたのをサッとかわし、「トオッ」と来たら「オイサ」と返すような言葉上の闘いである。言葉つまればバッサリ切られて死ぬか、傷を負う。「攻撃は最大の防御」とばかりに、言葉による説明という爆弾をふだんから用意しておくのが英語である。
日本語と英語どちらがよいというのではない。自国語をよく使いこなす人は外国語習得も早いのだが、子供のころから言語活動そのものが活発でない環境で育った私のような者には、英語の習得作業は並々ならぬ苦労を伴った。

二十代後半を大学の外国語学部で過ごしたが、今振り返ってみるとそこは日本であって日本ではないようなところがあった。外国語の専門家集団に軍隊式の言語トレーニングを課せられていたあの日々を振り返ってみて、その影響というか後遺症というか、そういうものを自分は負っているのではないかと感じることがある。
「夢も外国語で見ることができるように」というのが私たち共有の目標だった。
「英語の単語を一つおぼえるごとに、日本語の脳細胞がプチッて音を立ててつぶれるの」
あるとき一人の研究者が、ぼうっと宙を眺めながらそんな話をしてくれたことがある。
「プチッ。プチッ…て。聞こえる…。イヤ~な音」
日本語を忘れはしないが、英語の影響を受けた日本語になる。少し気をつけて聞いていればわかるはずだ。ふだんの思考は英語で行われ、夢も英語で見る。外見は日本人でも中味は日本人とはちょっと違う。
言語生活の改変が人間改造にまで通じている。それが「外国語べらべら」の行き着くところだ。
英語習得の部隊で四年過ごした後、私は「英語べらべら」を人生の目標からはずしたが、脳細胞の破壊に回復していないところもあるようで、今も操体法のリハビリを続けている。
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