知らず知らずのうちに宇宙大の流れに身をまかせている
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2012/11/30(Fri)
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「いま」という自分の後ろには気の遠くなるような過去があり、自分の前には気の遠くなるような未来が横たわっている。それは確かなことだが、ふだん私たちはそんなことは思わないし、わざわざ話題にすることもない。
学生時代に文化人類学で「いま」という時間のいろんなとらえ方があることを知った。自分が生まれてもいない遠い過去のことをよく話し、自分に関係ないくらい遠い未来のことを平気で話す人々には違和感を感じないではいられなかった。 彼らは過去や未来を区別せず、過去と未来とを同時に生きるようにして「いま」がある。「いま」の生活の中に、自分の生まれる以前の、そのずっとずっと向こうの先祖とともに暮らしているような感覚があり、さらに自分の死んだあとの、その先の先の、ずうっと先の子孫といっしょに暮らしているような感覚がある。時間のスケールはバカバカしくなるほど長大で、百年二百年など屁のようなものだ。 その「いま」という時間のとらえ方には違和感しかなかった。「彼らはヘンだ。しかしわたしはヘンじゃない」「昔の人は何もわかっちゃいなかったが、今の我々はたくさんのことを知っている」。そんな傲慢と偏見に安住しがちなところでもあった。 土とともに生きた昔の人のものの見方・感じ方は重みがある。先住民の思想に触れていくにつれ、「自分はうすっぺらい」「軽いな」と感じるようになった。自然を直接相手にしながら生活をしていると、観察のやり方も自然法則に歩み寄っていく。時間の感覚も宇宙大である。そしてそれが、そのほうが、今の私にはむしろ現実的に思えてくる。 過去の祖先も未来の子孫も根付いていない個人主義的生活は、じつに心細く孤独でもある。それを愛というスローガンで切り抜けようという主張も聞かれる一方で孤独死が増えている。しかし「いまの人間」である私だって、いつ始まったともしれない生命の生滅の繰り返しの果てに出てきたものにちがいなく、生命の生滅の法則の中で「いま」を過ごしているにすぎない。そして生命の連なりは、私の到底知りようのない、果てのない未来へと向かっている。その宇宙大の流れに身をまかせているしかない私。それがむしろ現実のように思われる。 軽い・薄い・小さいがとかく追求される軽薄短小の時代。「重厚長大」を目指すくらいが丁度よいのではないかとと感じている。 スポンサーサイト
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