単純化せず、ありのままを見せる。ありのままを受け取る |
2012/11/09(Fri)
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下のきょうだいのいる家庭環境で、子供の頃から何かと「教える」生活だった。小学校にあがると、私を頼りにする友がいた。「わからない…」とおぼつかなげな様子を見ると放っておけない。自分の答えはまちがって、教えた答えのほうが合っていた。そんな皮肉もあった。
教えるときにウソをつきそうになる。それは当時から気がついていた。 単純化する。伝わりやすく加工する。そのほうが面倒がない。 「ああ、わかった。これでいいのね」と喜ばれる。それで自分も嬉しいのだが、同時にうしろめたさもある。結局だましているのだ。 納得いくまで修正をかさねようとすれば、「やっぱりわからない…」。 「この先、本人が気がついて修正していくだろう」とたかをくくり、「ウソも方便」とデタラメな説明をやっていた。ウソをつかずに教えるというのは非常にむずかしい。 わけあって、操体法を英語で教えることになった。 英語に変換する手続きの中で、ウソをつく危険がまた一つ増える。 ウソつきにならずに済むためには、どうすればよいのか。英語の世界に身を置いて、操体法を考え直す。 日本語も英語も身につけているという話だった。意思の疎通はお互い日本語と英語があるから何とかなる。さいしょのうちはそう思っていた。 日本語がたんのうな様子だったので、最初の一週間は日本語で通した。しかしどうも反応がおかしい。日本語を使いこなしてはいるが、日本語に対する語感が欠けている。英語は日本語ほど使えないが、語感のほうはまだしっかりしている。英語が身近な歴史を持つ国の人だからだろう。 幸いなことに自分の英語は使いものになった。「英語に切り替えてもらってから非常によくわかるようになった」と喜ばれ、確かに飛躍も見られた。 学生時代は英語の単語やフレーズを増やすことに熱心であった。しかしそれでは自分の言葉にはならなかった。少ない単語、少ない言い回しでも、自分にしっくりした話し方をおぼえるほうが役に立つ。ヘタな英語でも「これなら通じる」という自信と安心の持てる英語の語感を身につけるほうが、英語世界の住民として呼吸を始めることができるのである。 スタジオ内に流れる英語は私の英語だけ。彼は英語を使えないから、質問や会話は日本語でしてくる。私もそうそう英語ばかりで説明できなくなってくる。すると妙な日本語が私の口から飛び出してくる。 英語ロジックの日本語である。ほんとうの日本語ではない。これで何とか彼との意思疎通のベースは整った。 私は操体法を教えるときに、必ず以下のことを伝えることにしている。 「私の師匠はものごとを単純化して教えるなどということはしない。 ただやってみせる。 ありのままを見せる。 教えることは、じつに最小限。 私自身はそうやって操体法を教わってきた。 操体法はカンタンでもなく、むずかしくもなく、つまらなくもなければ素晴らしくもない。ありのままである。そのありのままが、いまだ私にはつかみきれていない。自分を超えたものであり、枠におさまるものではない。 自分の操体法の理解はそういうものである。 それをこんなふうにしてしまって、よいものだろうかと、いつも思うのです。教えるということに、実は迷いがある。迷いがあるのに教えてしまってよいものだろうかと思う」 単純でないものは単純でないままに。単純か単純でないか。それを判断するのは受け取る本人の問題である。 教科書のうさんくささは、何歳の人間にはこの内容を、この順番で教えるのが適切だという役人の判断にある。ここから先は教えるなという鉄格子が隅から隅までガッチリとはめこまれ、単純化されたウソと方便で成り立っている。そういう教科書で最初に学んでいるものだから、私たちは何でもかんでも教科書式に教えてもらうのを有難がってしまうのだが、結果、ニセモノをつかまされて喜んでいるかもしれない。要注意である。 スポンサーサイト
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