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頭で考えれば頭にだまされ知識で決めれば知識にあざむかれる。感覚にもほんろうされやすい。
2012/10/30(Tue)
わるいことをすると楽しい。いくら「いけない。やめよう」と理性のほうで思ったって、楽しいことならばやるというのが人間の基本である。体をこわしながら酒におぼれ、暴飲暴食を止められないのは本人も苦しい。感覚をくるわせると「一方で楽しく他方で苦しい」というような矛盾が起きる。
わるいことをしてもさほど楽しくもなくなって、ほどほどのところでおさまる。自分にちょうどいいことが一番楽しくなる。自分に一番楽しいことが、自分にとって最上のことだったら、何ら矛盾も発生しない。これ以上のことがあるだろうか。

どんなに本をひっくり返し、どれだけ映像を見つめても、だいじなのは「やり方」ではなくて「感覚」だろうと思う。「原始感覚=カン」を働かせ、「よい」と「よくない」を理屈抜きにかぎわけ、最上のことをやる。そこに迷いはない。知識や理性といった頭の判断が入り込む以前の判断力。現代人はこの原始感覚(カン)をくるわせやすい生活を送っていると操体法の橋本敬三医師は指摘する。

操体法はほんらい備わった感覚の正常化をねらいとしたものだと私は考える。
本来あるべき感覚。自然に備わった自分ほんらいの感覚。
頭で考えるのでもない、知識で決めるのでもない。くるった感覚にほんろうされることなく、しっかりした感覚を身につける。
理屈を抜きにした、自分にとってのほんとうの感覚が、じっさいに自分の中にあるのだということ。
体の動きと、動きにともなう感覚とに、意識を向け、感覚に気づく。一つ一つの動作で気づきを体験する。それを日々少しずつ積み重ねてゆけば、確実に近づいていける。理屈を抜きにした、自分にとってのほんとうの感覚。
それは実感をともない、「感覚は力」ということを思わせる。

①テレビをつけたまま正座をして、テレビの音声に心を動かして坐禅を組む。
「ながら坐禅」とでも言おうか。
②テレビをつけたまま正座をしているが、テレビの音声が聞こえないくらいに「坐ること」に集中している。

どちらも外見は同じことをしている。
目に見える世界に気を取られていると、目に見えない世界は「ない」ことになってしまう。
ぱっと見た目には見えないけれども、ずっと見ていくと、天と地ほどの違いがある。
何を見て、何を感じ取るか。感覚こそ力である。
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