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貯金の額で勝ち負けは決まらない-人生の勝者は顔でみる-
2012/09/06(Thu)
のどが渇く。小銭があればコンビニに入ってジュースを買うだけのことだが、金がなければどうするか。頭も体も使うしかない。どこかに金は落ちてないか。事情を説明してお金を借りるか。水道でも飲める場所をさがすか。いずれにせよ渇きもしばらくガマンする他は、ない。
コンビニでジュースを買うのと比べれば、はるかに高等テクニックが要求されるだろう。

お金には妙な落とし穴が待ち受けている。
お金で済ませるのは便利だが、便利の中身は、自分の努力を省き、モノや他人に頼るということである。
「お金にタマシイを売り渡す」というのは、じっさいは「他人にタマシイを売り渡す」ということに他ならない。
お金の不足が自分自身の工夫と努力を促す。時には暴力や盗みといった悪知恵も浮かぶ。コップ一杯の水の不足でさえ、人間性が問われることもあるのだ。

お金がない分どう切り抜けるか。お金以外の方法を模索する。モノや人にできるだけ頼らないやり方をイメージすることで、自分の才覚と体の機能が磨かれることになる。それなら貧乏からは多くの才覚ある人物と行動力のある人が出てきそうなものだが、そう単純でもなかろう。
「貧乏に負ける」とか「貧すれば鈍す」とかいう言葉がある。お金がなくて困ると、かえって容易に「お金にタマシイを売り渡す」ことを身につける機会も多い。貧乏にだって妙な落とし穴が待ち受けているのである。
私は子供のころ、幸いにしてディオゲネスのことを知った。金がない金がないと嘆いて暮らす母に、この哲人の存在を知らせようとしたが、うまく伝わらなかった。マイホームなんかなくても、自分の体が入るだけの大きなタルの中に住んで、読書と思索三昧で乞食生活を送る人が、アレキサンダー大王の時代にいたのだ。お金にも社会的地位にも妥協せず、周囲からも尊敬されていたというのが、なんともかっこよかった。「これだ!」と子供心に思った。ディオゲネスという人の生き方が、自分たち家族の困窮の、一つの解決を指し示している。そう思われてならなかった。

お金がないことそのものが問題の中心ではない。お金がないことをどう受け止めるかが問題である。たとえ食べ物が粗末で少なかろうとも、それをまったく苦にしないのだったら、どんなにか心強いことだろう。
ディオゲネスの生活は、はたから見れば狂人もしくは負け犬とさえ見えるのかもしれない。人生に勝ち負けをいうのもなんだが、笑って生きている人は間違いなく勝者に見えるし、暗い顔して生きているのはどこから見ても敗者にしか見えない。
貯金の額で人生の勝ち負けを見るのより、顔のほうがよっぽど正確ではなかろうか。
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