言われるがまま手術台にのるか、手術台から勝手に降りてくるか |
2012/08/24(Fri)
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鼻がつまる子は手術しましょうと勧められた父は私を手術台にのせた。
扁桃腺がはれやすい子だから切除しましょうと勧められた母は、迷ったうえ、私を二度目の手術台にのせるのを断った。数年後にふたたび、この子の鼻の調子が改善しないから、ここも切るしあそこも切ると言われたが、さすがに少し考えたとみえて、食事療法の世界へと大きく舵をきった。 あのまま病院につきあっていたら五回や六回の手術台送りでは済まなかったはずだ。 その後も、たんのう切ります、盲腸切ります、子宮を切りますと機会あるごとに家族に何かしらお誘いがかかるわけである。足が痛いと言えば、これも「切ります」。「一週間後もまだ痛みが消えないんだったら切らなきゃ」と言われ、病院から足が遠のいた。 大学で文化人類学をかじったときに、切除の文化を知った。男性性器や女性性器を切除する文化的処置は昔から当然のように行われてきた。儀式的な抜歯や、身内の死のたびに指関節を一つずつ切断するなど、人間の文化にはとかく「切除」がつきまとう。 切除にともなう痛みも障害も、時には出る死者さえも、切除をとりやめる理由にはならない。 外部の人間から見れば「なんという忌わしい。愚かなことを」と痛々しい思いがすることも、内部の人々には何一つ疑いも迷いもない。内部の人間にはそうするだけの内部事情があり、合理性があると考えられている。ほかの選択肢に変更も可能だが、それは本人たちに決定権がある。文化とはそういう恐ろしさがあるということを、つくづく考えさせられた。 生まれて半世紀。六歳のときに一度メスが入った以外は、何とかまぬがれたが、その一度のメスの後遺症の名残を今もかかえている。日本の切除の文化の中を、手術なしで切り抜けていくというのはそれなりにたいへんなのである。 それとも、メスを入れられた数だけ自分の命が救われたのだと、心から感謝しなければならないのだろうか。 日本ほど手術が好まれる国もない。 自分の身のまわりにも、平均すると二度や三度はメスが入っている。何度メスが入ったかわからないような人も少なくない。五十代で臓器がぜんぶ揃っている人など、まれなのかもしれない。 「さすがに途中でおかしいと思いまして」と、手術台にのるのをやめ、「切らない医学」のほうに舵をきられた話をうかがう機会も多い。 こんなに手術台にのらないと、日本人は命をまっとうできないのだろうか。 いったい、一生のうち何回くらい手術台にのせようと思われている文化なのだろうか。 手術でそこなわれるもの、失われるものは、本当にないのか。 よいことづくめ、なのだろうか。 そういうこと、いちいち考えずに、言われるがままに手術台にのるのが、ものわかりのよい日本人で、手術台から勝手に降りてしまう患者などは、非国民か不良くらいにしか思われないだろうか。 スポンサーサイト
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