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不思議と疲れなくなってきた-六割主義の感覚で力を抜くことを知る-
2012/08/03(Fri)
100m世界記録は10秒足らず。10秒の必死である。マラソンの世界記録は2時間余り。短距離の420倍をカバーし、720倍のあいだを耐えている。

オリンピック競技はさておき、力まかせに走って、すぐに疲れ果てる生活か。半分の力で長く走り続け、いっこうに疲れないという生活か。いずれかを人は自分で選ぶことができる。
発車間近のバスを追うと1分走るも死ぬ思い。休み休み歩けば5時間や10時間歩いて遠くに行くこともできる。
あくせく働き、ストレスできゅうきゅうとした思いの連続の挙句に若死にする人でも、力を抜いて生きれば長く楽しく疲れを知らずに人生を送ることができる。
力を抜くことをおぼえたら、二倍三倍長持ちでいつまでも活動量でき、疲れはまったくない。

気持ちよさの加減が、事の成否を決める。
操体法は六割主義。六十点が理想の最高得点なのだから、腹八分よりもさらに手前のほうに基準を持つ。
食べたあと腹が張って苦しくなるのは腹十分。しかし食べている最中はそれで気持ちよい加減だったのである。
その気持ちよさは腹十分の加減の気持ちよさであり、腹八分の加減ではない。
腹十分の日常を送っていると、腹六分と言われてもどういう感覚か、想像さえむずかしい。恐らくは「さあこれから本腰入れて食べるぞ」となったときがそろそろ終わりの合図なのだ。

操体法の力加減は、腹六分の感じ。
前菜でじゅうぶん満足でき、メインディッシュもデザートも不要な感じだろう。
体操やストレッチをしてきた人には、とうぜんもの足りない。あんまやマッサージに慣れている人も同様だろう。ヨガ生活の長かった私は、「ヨガのちょうどいい」が、「操体法のちょうどいい」の加減を大きく通り超していることに、なかなか気づくことができない。
操体法を十年やり続けても「ヨガのクセで動いている」と指摘されていた。「言いがかりだ」「私のどこがヨガなんだ」と心穏やかではなかったが、さすがにここ数年は自分でハッキリと気がつく。「あ、これがヨガのクセだ」と。
「これがヨガで身につけた感覚だ」と分かるようになってから、やっと操体法になってきた。
それまでやってきた操体法は、体操やストレッチやヨガでやしなった感覚で、操体法というかたちをなぞるにすぎなかった。そうわかってきたときに、やっと操体法がわかってきた。
「これで気持ちいい」というときには、実はすでにやりすぎの感がある。こめられた余分な力が大きければ大きいほど操体法から遠ざかっている。
「さあこれから本腰入れて食べるぞ」を繰り返して当たり前になった日常の中で、六十点を理想の最高とする操体法をやろうとする場合、「何かもの足りないな」「こんなんで効くのだろうか」と思うくらいがちょうどいい。
操体法の六十点主義がだんだん当たり前になってきたら、生活のあらゆる部分を六十点で支障なく送るようにもできる。

力で動くのではなく、力を抜いて動くことをおぼえる。それで今のちょうど半分くらいの加減で生きていくということになる。「操体法をやって不思議と疲れなくなりました」「最近たのしいです」というのは力が抜けてきたということだろうと思う。
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