ミラクルボディー-理論上「ありえない」ところで生きている私たちの日常-
2012/07/26(Thu)
奇跡の体と奇蹟でない体という区別があろうはずもない。天才的アスリートの体を取材した番組「ミラクルボディー」が彼らの体をミラクルと呼ぶのなら、私たちの「ふつうの体」もまたミラクルなのに違いない。
体を調べる現場では「あり得ない」が何度も研究者たちの口から発せられる。
そんな専門家たちの姿を見ていると、生きた体は研究者たちの想像を超えているのだと感じる。
私たち全員をこのように調べてゆけば、一人一人が「あり得ない」生き方をしているのではなかろうか。老若男女、健康人も半病人も、病人もけが人も、あらゆる人間が、説明のつかないところ、理論的にあり得ないところで生きているといえるのではないかと思えてくる。

じつは家人も専門家の頭を悩ませるミラクルを平気でやってのけている。
極度の貧血。「こんな数値で生きられるはずがない」「ふつうに動いて生活できるわけがない」と言われながら十年生きてふつうに仕事をして生活をしている。
ふつうに脱線生活を積み重ね、一向にあらためるふうもなく、「きつい、だるい、死ぬ」と文句を言いながら、ふつうの生活をしている。
生きているはずのない人々が、いくらでもいるのに違いない。
医学常識では生きてもらっていては困る人々が、この世にはわんさかいる。
みんな、よく生きてる。
これは、ミラクルではないのか。

肩や腕が何らかの理由で動かなくなるのはめずらしくも何ともないと思われている。しかしもともとが自由に動くようにつくられているものなんだから、むしろ動かないほうが不思議だ。
その理由が分からないから、リハビリもうまくいかない。
「なぜ離れ業ができるのか」もミラクルならば、「なぜ離れ業ができないのか」もミラクルだ。
肩や腰、ヒザも、痛みが出るようにつくられてはいない。胃腸ももともと何不自由なくできている。
理論上「あり得ない」事実が世の中にはあふれている。
それを「あり得る」事実として認めるために、「じゃあこの場合はこういうことにしときましょう」とつじつまをあわせている。
説明や理論はあとづけなのである。

ケニアの高地で子供たちははだしで駆け回っている。数キロから十キロ近く走って通学する。その生活が彼らには「ふつう」である。ふつうの生活を通じて、腰や背中に負担のかからない足の運びを身につけ、
赤血球が小粒になり、毛細血管の中を速く流れるようになった。
これもまた、生命のふつうである。
生きものの体は生活でこれほどまでに変化する。
変化するのはもちろんアスリートたちの体だけではない。私たちも、繰り返される日常の行動によって、何らかのミラクル的変化をとげている。それが好ましい方向か、好ましくない方向かは別だが、日常繰り返される行動は、私たちがまるで気がつかないうちに驚くべき変化を確実にもたらしている。
運動不足で食べすぎの私たちの日常。特筆すべきことでもなんでもないことのように思われるが、ふつうに当たり前にできるはずのことも、できなくなってゆく。
腕や肩が動かない。うつぶせができない。できないできないが増えてゆく。
そんな体のほうが、むしろ不思議。ミステリーである。
スポンサーサイト
この記事のURL | 生きるということ | CM(0) | TB(0) | ▲ top
<<痛いほど強いほど体にいいのか?-筋肉をゆるめ、ほぐす- | メイン | むしろ目に見えない結果のほうが大きな意味を持つ>>
コメント
コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する


▲ top
トラックバック
トラックバックURL
→http://soutai007.blog32.fc2.com/tb.php/1111-abfc9c35

| メイン |