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男は子がいても、いないようなもの。女は子がいなくても、いるようなもの。
2012/06/26(Tue)
夢で自分の子と遭遇した。案外大きく育って、もう世話など必要ない。育つとどの子も少々ぶさいくで、あまり賢こそうでもないが、自分の子だから、どんなのでもかまわない。自分の子ということで全部ゆるす。不服も不満も一切ない。そう思った。
「子供」とは一般に幼児の意味もあるが、必ずしも赤ちゃんや幼児のことではない。人間関係という目に見えないものをも意味する。そして子を生み、育てるというのは、無形の体験である。
私には子はないが、親はある。あるが、関係は必ずしも一定しない。他人よりもよそよそしくなったり、急に身内になって心強い味方になったりもする。それと同時に厄介な弱みであり、害悪をもたらしさえする。
まったくゆらめいてとりとめないものだからこそ、形式的に限定するのがラクであり便利だ。
「親は、親だ」「子は、子」。それ以上でもそれ以下でもない。

「ぼくに子供はいるけれど、女は自分で生んでいるから違うよね」。
ある文化人類学者が話してくれた。
「男には子供がいても、いないような感じだよ。ぼくは自分の書いた本を踏まれると、すごく心が痛むんだ。でもワイフは本は本だと言う。自分の本がどうなっても平気っていう、あの自信は女だね。男のぼくは、自分が確かに生んで育てたと思えるのは自分の書く本しかない。でも本も研究も子供のかわりにはならないよね。男ってかわいそうな生きものだよ」。

子供を生み育てないかわりに、それに匹敵することを見つけなければならない。そう意気込んでいた時期もあったが、女の、子供への執念というか、子に対するエネルギーは無条件に強いと認めざるを得ない。
子供の頃、「子を生めるなんて」。自分の体はすごい、ぜったい一度は生もうと思っていた。自分の子が生まれたら何を伝えよう、何を話そう。そんな想像にふけって過ごすことも少なくなかった。
存分に生みちらかした母などは、「子供なんか真っ平ごめん」と平気で言い、「子供なんかぜったい持つもんじゃない」とあちこちで言いふらす。
しかし子供を生み育てることに匹敵するだけのものを見つけるのは、そうそうカンタンではない。一大事業だ。ひょっとして私の命への関心は、我が子をはらみ、育てていないというところが原動力なのかもしれない。
「男には子供がいても、いないようなものだ」というのなら、「女には、子供がいなくても、子供がいるようなもの」。
いてもいなくても、変わらないものが、ある。

子供もそうそういつまでも親のエネルギーを受けとめる対象とはなりえない。
子供が必ずしも親のエネルギーの受けとめ手という役割を果たさねばならぬというわけでもない。
子に向けるエネルギーを転化できずに子を苦しめ、ダメージを与えていることもある。
いつまでも母としての地位に甘んじているわけにもいかないのだ。
子を生み、育てることに匹敵するだけのものを見つける旅に、親のほうも出かけなければならない時がくる。
自分はちょっと早合点して、生むより先にさっさとその旅に出かけたようなものだった。
誰にも邪魔されない、気楽な女の一人旅ではある。
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