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人間の幸せはどっちに転んでも大丈夫な安心保証
2012/06/25(Mon)
子を持つ幸せは子を持つ不幸せで帳消しだし、子を持たぬ不幸せも子を持たぬ幸いで帳消しになる。
人間の幸せはどっちに転んでも大丈夫にできている安心保証だ。自分が幸せかどうかくらいは自分で決める。人はそのくらい自分で決められるだろう。そう思う。

「卵子の老化」というテレビ番組は時間をかけて見る必要はなかった。「子供を生まない人生はかなしいものです」と一言いえば済む番組だからだ。
自分は仕事でたくさんの親子の相談を受けてきたから、人間どちらに転んでも幸福量と不幸量にさして変わりはない、泣きわめいて大騒ぎするほどのことなどほとんどないのだなという感じを持っている。
とらわれて身動きできなくなることを不幸という。
しかしテレビ番組は時として新たなとらわれを我々に吹き込む。
不幸になりたくなければ「とらわれ」に捕まってしまわないことだ。そう自戒する機会となった。

番組構成を見れば主張が偏っている。いや、偏りではない。はっきりとした意図が感じられる。「病院に行け」。子供がいない人は病院に相談に行けというメッセージである。
ある一つの行動を促す効果を持つ番組。ドキュメンタリーの手法をとった宣伝・広告に近いといえるだろう。
自分は子を持たないし生んでもいない。それゆえの不幸は感じたこともない。世話する子供に不自由もしなかったが、この番組は最初から最後まで見た。子を持たないからこそ、最初から最後まで見て、自分の心にどんなさざ波が起こるかを確めた。テレビ画面と自分の心とを眺めながら、「この番組はきつい」という印象を持った。いや、「不妊治療の現場はおかしい」という印象かもわからない。

人間の持つ期待や望みは、裏も表もある一枚のコインである。叶ったら叶ったで幸と不幸がワンセットだ。それを裏だけ強調して表を見えなくしたり、表だけを強調して裏を見えなくすると、判断を誤る。しかし「裏と表のどっちもありですよ」という番組ではインパクトがない。何を言っているのだか分からない話になる。分かりやすいストーリーに沿って説得力のある構成と納得のいく材料をかき集める。プロデューサーはそういうことをするプロである。
身寄りのない子供は世界にあふれている。「自分の子を自分で生み育てたい」という人々の願いが世の中にあふれているのと同じように、「親がほしい」という切実な願いもこの世にあふれている。不妊治療を行う病院だけが人間の不幸を幸せに変える場所ではないだろう。

願いとは、エネルギーだ。人々の期待や希望も、エネルギーだ。それをさまざまなところに転化できるというのが、人間の強みだ。
とらわれは不幸である。とらわれを転化するということが幸いであり、安心である。
光エネルギーは熱エネルギーや電気エネルギーに転換できる。エネルギーはさまざまに転換することができる。それは動かしがたい事実である。自然法則である。
子供を持ちたいというのは食欲と同様、自己保存の本能に直結するため、エネルギーは小さくない。
大きなエネルギーは転換のしようによっては大きな幸いともなる。
幸福力は、転換力。
私はそのように思う。
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