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魔法で治すのでもない根性で治すのでもない
2012/06/19(Tue)
目の前に浮かぶのはうねうねした枝ぶりの松の木。風が吹いたり枝が折れたりを経過した姿は真っすぐではない。でも倒れずに立っていることが一番だいじだ。
病気もけがも、正比例グラフ式に経過して、あとはすっかり忘れるというようなら苦労はない。
「こんなに真面目に頑張ってるのにあちこち痛くなってきたの」と大腿骨折の知人が苦にする姿が数年前の自分の姿と重なった。
「子供の風邪とはわけが違うんさ。ムチウチも大腿骨折も」。

「ムチウチ? そういや何か事故にあったってね…でも治ったんでしょ?」
「治ったといえば治った。でも最初に考えていたような治り方ではなかったんさ」。苦笑いで受ける。
振り返ってみれば何のことはない、最初の二年は坂道を転がり落ちて行くようなものだった。底を打ってのち、浮き上がってこれたからよかったものの、生きた心地はしなかった。
「わたし明るくなったやろ。元気になったやろ。でも元通りの自分かなんて分かりゃせんの。あんなに登っていた山は一つも登れんくなった。でも事故からもう五年よ。どうして歩けないかなんて誰にも分からんやろ。でももういいと。体には体の事情があるんやけん。やるだけのことやっとったらね、あとは痛くなろうと少々おかしくなろうと、文句つけたら体をいじめるばっかりやろ。だけん、よかとよ、もう。なんにもできんわけじゃない。完全によくなりそうな感じの時もある。いつかまた山を歩けるようになるかも分からん。そんなの誰にも分からんことよ」。そばでは師匠が施術の最中だというのに、私はするすると言葉が出てきて止まらない。

知人は「ふうん…そんなもんかねえ」とうかない顔である。こんな話を今やってもムダなのだ。少しずつ自分の体の現実に向き合いながら承知していくほかは、ない。
患者さんという立場になると、摩訶不思議な力で体が治りそうだと思ったり、根性で治りそうだと思ったりしてしまう。体が人間の思い通りになるのならそれでうまくいくが、自分の場合そうはならなかった。
頭では分からない。心でも分からない。自分の体で分かっていくしかないこともあるのだ。
「大腿骨折二カ月でそこまで回復している。それはすごいことだと思うよ。じぶん五年ですよ、五年。たかがムチウチにですよ。元の歩き方でもない。バランスも何もかも変わってる。これだけ変更しながらじぶんの体はここまできたんだなって思いますよ。これで終わりということはないしね」。
三人のお医者に「こんなムチウチ治らない」「治ったのを見たことがないですよ」とはっきり言われたことは、今となっては幸いだ。彼らは今の私を見て「けっこう治ったな」と思うかもしれない。

言葉の洪水が止まったとき、それまで黙っていた師匠が破顔一笑した。
「おれは三十年だ。一生かかるぞ」。
生きている限り体は変化する。病気やけがや、いろんなことを経過しながら枝を広げ、天に向かって伸びてゆく。体はつねに新たな突破口を見つけ、バランスを更新しながら生き抜いていく。
それだけのことなんだな。
そう強く私は思った。
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