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テントという名の別荘。キャンプ地という名の避暑地。
2012/06/06(Wed)
河原に小さな砂地を見つけ、ヒマをみては通う。テントを張って集中したいことに取り組む。日が暮れたら帰る。キャンプ地に出勤するようなものだ。カジカガエルのフィフィフィというやさしい声が川面に広がり、周辺の木立からは鳥の声がさえずる。ここで過ごす一日は生きている最高の楽しみの一つだ。

しばらく来ないでいると、いろんな侵入のあとが見つかる。
人間の靴痕のこともあるが、たいていは糞である。「われここに参上せり」とばかりに、私がテントを張る地面のど真ん中にイタチの排泄物の干からびたのがいくつか転がっていたりする。
岩の上には小鳥の落としたものが点々と残されている。そしてサギの大きな白い糞が流れて固まっている。よどみにいた魚たちが格好のエサになったわけである。河原の岩には巻貝や、糸トンボ、ハグロトンボ、ヤンマなどさまざまな種類の幼生たちが脱皮した殻が張りついている。

ここは誰もが生活に使う場なのだから、もちろん何をされても文句は言えない。私も苦笑することはあるが、生きものの生きたあかしをむしろうれしく思う。
いろんな草までが、この地をねらっている。マツヨイグサが丈を大きく伸ばしていたり、ヨモギが茂みになっていたり、草の芽があちこちに育っていたりして、すぐにテントが張れなくなる。
しかし草もまた、虫たちが卵を生みつけ、巣くい、生活を営む場である。テントの周辺は、もう草丈がずいぶん高くなって美しい茂みをつくり、虫たちの活動もさかんだ。
ここは夏でも涼しい風が吹き渡る、最高の場所。

昨夏から、このあたりは私が大きな顔をして居座っている。私のいる間は、みな、なりをひそめているが、いつかは私もすっかり消えていなくなる。私がいなくなったのをいいことに、また誰かが、何ものかが、この場所を使う。
誰もがこうして使う場所だから、誰がどう使うのもいいけれど、壊されるのだけは、みなが困る。泣く。
以前、こんなふうに通っていた場所がもう一つあったが、ある日たくさん人が入ってきて、ダンプカーで整地をするなどして、そのうち台無しになった。そういうふうに使われてしまうと、もう他には誰も使えなくなる。そして誰もいなくなる。

お金を出せばもう自分の土地だ、何をしたってかまわないという感覚は、私はあまり好きではない。
お金を出そうと出すまいと、そこは誰の土地でもないし、誰のものになるわけでもない。みんなが生きて過ごす場所ということだけが事実だ。そう思えば自然破壊という言葉さえ不要だろう。
テント一張りもはみ出しそうな、こんな小さな面積の土地の平和。それが今の自分の考えうる限りの幸せである。
どうかこの地の生きものたちの平和がこのまま続きますように。
そう祈らずにはいられない。
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