fc2ブログ
2024 01 ≪  02月 1234567891011121314151617181920212223242526272829  ≫ 2024 03
☆「かたよらないものの見方」がまた、かたよっている☆
2012/05/18(Fri)
客観性ということを教えこまれたのは、ものごころもつかない子供のとき。あの時から私は客観性という名のお花畑に迷い込み、ふわふわと暮らした。「偏りがあるだけだ」と唱えたら地べたにおち、足元の花がぼきぼきという音を立てて崩折れた。
偏ってはいけないとかいいのだとか。偏っているとかいないだとか。そういう議論は不毛だった。じっさい世間は立場の寄せ集め。人それぞれの立場の数だけ偏りもある。

「客観的に。公平に。平等に」「偏ってはいけません」とずいぶん教わった。
言いさえすれば偏ったものの見方は防げると本気で思うのが学校の先生なのかもしれないが、「学校の立場」「教師の立場」を一瞬でも忘れず考え行動するということそのものが、すでに偏っている。それは、思わないのだろうか。
三度新聞に投稿し三度載ったとき、担当者との話のやりとりで「新聞も偏っている」「新聞という名の偏りがある」と分かった。

気をつけても気をつけなくても全ては偏る。どこまで行っても人間の偏りが、あるだけだ。
授業もコマーシャルもマスコミも、「この情報にこそ偏りなし」と客観性を装いたがる。しかし教える側と教わる側。売る側と、買う側。見せる側と、見せられる側。それぞれの立場とそれぞれの意図については不透明な布がかけられている。
周囲とあいまいに協調したいときには、「偏り」を一時的に忘れてみる。すると幻想のお花畑に迷い込む。もちろん相手が同じ幻想の中に入ってくれるとは限らない。
お花畑で気持ちよく踊っていたい時には踊っていればよいが、目を覚ましたい時には、「偏りがあるだけだ」と唱えればよい。
行けども行けども広がる花の砂漠のまっただなかで、せいだいに踏みしだきながら、脱け出す歩みを、こころみる。
スポンサーサイト



この記事のURL | 検査のセカイ | CM(0) | TB(0) | ▲ top
コメント
コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する


▲ top

トラックバック
トラックバックURL
→http://soutai007.blog32.fc2.com/tb.php/1031-4019c3b7

| メイン |