人間は神さまのコピーである
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2013/03/12(Tue)
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人間も「物質だ」という考え方がある。人体は機械のような部品の寄せ集めという考えで、切った貼ったも抵抗なく受け入れられている。さらには物資があり余る社会の中で、物を大切に思う気持ちも日頃からうすれている。そんな状況の中、人の心や体に対する扱いも、無意識のうちにぞんざいになってはいまいかと危惧する。
人間は神さまそのものではないが、神の写しだという。人体は宇宙であるともいう。言うのは誰にだってカンタンなことだが、それを実感するのでなければ言葉はただのお飾りにすぎない。 人の心も体も、日常は不完全なものに思われるかもしれないが、その不完全な見かけの下の、奥の奥のほうには超越した神聖なものが秘められている。体に向き合う体験を重ねるうちに、おのずと伝わってくるものもあり、直接に体に手を触れさせてもらえるというのは、じっさいありがたいことなのだと思う。 いろんな価値観を持った、いろんな人がいるが、向き合う体はいずれも神々しい。 実習や施術で体をあつかいなれていくうちに、人の体に対してぞんざいな、粗雑な感覚を身につけてしまうことがあってはならない。師匠はいったん体に向き合うと目つき顔つきが変わる。手つきを見れば、こまやかな神経が指先にまで張られているのがよくわかる。禅のほうでは、行き交う通行人のひとりひとりを拝んで歩く聖人がいたとか。わたしにも少しはわかるような気がする。 「施術の技術」というのは、体に向き合う姿勢のことである。施術という目に見える手続きを通じて、相手とのコンタクトの道がひらけてゆく。見えない道筋をたどる感覚。それが技術だ。だいじなのはあくまで感覚のほう。目に見える手続きのほうに気を取られていては決してわからない。 人の体に向かうときには、親友も身内も関係ない。すべてが本番。真剣勝負だ。 「実験台になってあげるのだから正式なお代は払わない」と友人に言い渡されたとき、「うん、いいよ」と素直に言えないものがあった。ずいぶん昔のことだが、忘れられない体験である。 お代をもらうとかもらわないとか、そういうのはどうでもよいことかもしれないが、師匠から「無料はぜったいダメだ」と何度も釘をさされていた。当初から繰り返し打ち込まれたその深い釘の意味を、折にふれ考えている。 「うちは家族も正式の料金。向こうからお願いしますと頭を下げてこない限り、やってあげない」という師匠の話は、患者さんのあいだでもよく知られている。「家族なのに、なぜ? なんでですか?」と訊ねても、「タダは、ぜったいにダメ」と頑として言い張られる。 最近ある方から、「先生が料金をどうしても受け取らないものだから頼みにくくて」という話をたまたま耳にした。その状況をよくよく考えた末、「なるほど」と納得するところがあり、慎重な判断が求められると思った。 ※特定非営利活動法人 日本ホリスティック医学協会福岡事務局の主催で3月24日(日)、第113回ホリスティックフォーラムが開かれます。 テーマは操体法で、講師は操体法研究会講師の鶴洋嘉先生(鶴内科医院院長)です。 場所:福岡市市民福祉プラザ(ふくふくプラザ)201会議室(TEL:092(731)2958) 講演:13:30~16:30 懇親会:16:50~18:00 参加費:一般2,500円 学生2,000円(懇親会費1,000円) 私のほうも手伝いで会場に出かけていきますが、定員の3分の2はすでにうまっているそうですので、参加ご希望の方いらっしゃいましたら、主催:日本ホリスティック医学協会福岡事務局 TEL&FAX.092(873)5100 またはメール:holisticmedicalsociety.fukuoka★gmail.com(★→@に)にてお問い合わせ・お申し込みください。 スポンサーサイト
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