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守られて生きている-自然が生みの親・育ての親-
2013/03/08(Fri)
自然観察に山に来ていた子らが「自然を守るんだ」と言っていた。自然を守り、地球を守り、銀河も守る。宇宙警備隊のノリである。
いつ、どこでそんな考えを吹き込まれただろうなどと思う私が、ついほんの何年か前まで銀河警備隊のノリで「自然を守ろう」なんてやっていた。
「守られているのは私たちのほうなんだよ」と言えば、子供たちに目を丸くされるだろうと思う。「世界を守り、自然を守るのは、私たち人間」。それが公的で主流のエコロジー思想。

「オレがお前を守ってやる」とか、「わたしが助けてあげる」というのは、愛情表現であると同時に支配なのかもしれない。船隊を組んで宇宙を我がもの顔で警備する「銀河警備隊」は、宇宙をナワバリとして支配する姿に見えはしないだろうか。
二十代はエコロジー運動にうつつをぬかし、かよわい動物、かよわい植物、かよわい自然にかよわい地球を、私たち人間が守ってやらないでどうする! みたいなことで、完全に感覚を狂わせていた。
しかしながら人間はどこまでいっても人間第一。言葉では「自然を守る」などと言うものの、人間は人間の生活を守ろうとしているのだ。それはむしろ当然。恥ずかしいことでもなかろうから、ハッキリと「私たち人間の生活を守ろう」「私たちの水をきれいに保ち、私たちの空気をきれいに保とう」と言えばいいのではないか。「気持ちよく生活を送るために、緑を破壊するな、動物たちの生活の場を奪うな」と言えばそれで済むのではないか。それは生活の質の向上(ライフオブクオリティ)というより、むしろ生活上の切実な願いだ。

「自然はかわいそうだから守ってやる」などと子供までが言うのは、自然と一体になって、自然のめぐみを実感する機会にとぼしい日常を送っているからではないだろうか。自然は人間の生みの親であり、育ての親である。励ましを与えてくれるばかりでなく、厳しい試練を課されることもあるが、自然がなければ私たちも存在しない。
自然をだいじに思う気持ちは、自分をだいじに思うこととイコールだろう。
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