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「おざなりのお握り」と「奇跡のお握り」
- 2013/03/02(Sat) -
握り飯にも「奇跡のお握り」というのがある。相談が入ると、予約の日時までにつくっておき、食べてもらうという話だ。食べた人は涙を流し、問題の解決をみる。
そこはそういう対処で多くの問題の解決をみている。

一体どんな握り飯か。お米は? お水は? 塩は? どんなふうにつくっているのだろう。興味は尽きない。興味はつきないが、「ただの握り飯にどれだけの可能性が残されているか」ということが一大事に思われた。
「一つ一つの飯粒が、ちゃんと呼吸できるよう、むすぶ」。この人にしかわからないコツというか、心得も、ずいぶんとあるのだろう。稲が育つところから、米を洗い、炊くところまで、何か関係があるのかもわからない。もちろん一人で洗い、炊いて、一人で黙ってむすんでいるという。とにかく、おざなりでないということだけは、確かである。そして、それを口にする側にも、何か求められているものが、あるのかも、わからない。

「売りに出せばいい」という意見もあるかもわからない。「多くの人に喜んでもらえるし、ビジネスになる」そのような発想のお握りは、もはや「奇跡のお握り」とまではいかないだろう。
その方も、そんなにたくさんは、握れない。従来の作り方以外のやり方が、あるのかどうかさえ、わからない。
同じ握り飯でも天と地のちがいがある。人間だけにわかる違いかもしれない。畑から口に入るまで、機械化・オートメーション化された大量生産では、人間にとって救いはないのかもしれないと思われる。

お握りはよくつくる。握り飯はだいじと思っているが、奇跡のおむすびの話を読んだら、自分のはぜんぜんおざなり。握り飯の意味がわかってなかった。うかつだった。
同じ時間をつかい、同じ手間と時間でむすび、食べるのだ。
おざなりでは、もったいないではないか。
操体法だって、たった一つの動きにだって、「おざなりの動き」と「奇跡の動き」が、ある。「おざなりの動き」なら、何も目指すこともない。「奇跡の動き」のほうに一歩でも近づきたいから、この日々の生活がある。そうではないのか。
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