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あたりまえの生き方-体にそなわった自然の持つ力の発見-
2013/03/31(Sun)
「息つぎは、左右同じにはできないのです」と水泳の方がコツを教えて下さった。胸部が外にねじりやすいほうで私たちは子供の頃から息つぎをしている。しかしやりにくい側のほうは「体ごとひらく」。骨盤部分から大きくねじるのを練習しなければ、「息」ができない。
左右同じ動きにはならないということを、経験でわかった上での知恵だろう。
左右どちらも息つぎができなければ長距離は泳げない。それで鉄人レースの出場をあきらめたという人の話をしたら、そんなことを教えて下さった。朗報になるかもしれない。

ふくふくプラザのご縁で、同じ水泳をしているお二方で見えられたのであるが、水泳教室の仲間みんなでやるのだと話して下さった。お一方は「おんころや」の直筆サインまでお持ちである。直接会って書いていただいた由。印刷は目にしたこともあるが、直筆ははじめて。筆致から伝わってくる、確かなものがある。「ほんもの」の持つ迫力だ。
知識の共有というのはほんとうに有り難いことと思う。


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「もんでよいのか」という質問は、よくいただく。
操体法では外から力を加えるのは全くの想定外だが、橋本敬三医師の著書には、「気持ちいいなら焼こうと刺そうと何をしたっていい」。ただし、「外から力を加える」のは他力で、「みずからの」を主張したのが操体法である。他力と自力であるから、主張は反する。だから、「もむっていうのはいいのだろうか?」「なぜ操体法はもまないのだろうか」と考えざるをえない。(この項つづく)

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※操体法の実習を見学・参加する⇒①②③から選べます。
①みんなで講習会
②家族や友人とプライベートに実習
③一人でゆっくり個別実習

 ②③は日程・時間帯を希望にあわせます。西鉄高宮駅徒歩3分。
 お問い合わせ電話080(1720)1097(山下) 
  またはメールfukuokasoutaihou☆yahoo.co.jp(☆⇒@に)


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寝ているうちに治している
2013/03/30(Sat)
体操教室で習わなくても、もともと具わった自然の感覚で、体の歪みはとれるようになっている。まことに便利で結構なシステムが具わっている私たちの体であるが、現代人は、その機能がじゅうぶんに働かなくなってしまっている。


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癒動操体法を、こわがる人もいる。気持ちわるいという人もいる。しかしいったん「出た」人は、「あんな気持ちのいいことはない」という。研究会では年に一度、癒動操体法の実習をする。昨年は会場のあちこちで、とくに女性たちが、海にぷかぷか浮かんで水をかいているような、海中深くもぐっていくような、何とも気持ちよさげな動きが出ていた。気持ちわるがっていた人も、つられてずいぶん動きが出ていた。「わたしは出なかった」とさびしそうにしていた人も、「おうちに帰って手を当てていたら、出た」とか、野間の講習でつい先だっても、「もうあなたは出るよ」と手を置いてみたら、たちまち二名が「あっ、出た出た」「自分はぜったい出ないぞと頑張っていたのに」ずいぶん愉快にやっていた。
薬を長期に服用している人は不思議と出ない。体の力のないような感じのときも出ない。本人の意志とは関係ない。ぜったい出すものかと思っても、出るときは出る。ぜひ出したいと願っても、出ないときは出ない。「出るとか出ないとか、考えないほうがいいよ」とは師匠の言。

私ははじめからこの癒動操体法が目当てだった。母が家で取組んでいたのが妙に薄気味悪く、できればやめてほしかったのだが、半年も経たぬうち、母はめきめきと元気になった。習い事を始めるなどずいぶん様子も変わった。ああも変われるものならと、ついて行った。「私はだまされないぞ」。そんな気持ちも手伝って、「母のあれ、私にも出せますか」と仏頂面であごをしゃくったものだった。「出るよ」という返事だったので、「じゃあ」とベッドに乗った。それからものの十分も経たぬうちに、私の世界は一変していた。
「うわ、動く!体って、こういうふうにも動くんだ!」

四半世紀も前のことだが忘れもしない。あれが最初の操体法体験。
今もときどき考える。癒動操体法のような、ちょっといかがわしい感じのものに好奇心をつつかれなかったならば、あのときついて行ったかどうかは、わからない。
(前回のつづき。この項終了)

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眠ってもないのに寝相が出てくる-癒動操体法-
2013/03/29(Fri)
元気のある子供などは寝ている時も盛大活発に動く。寝相の医学とは聞いたこともないが、身動きできないところで寝るのはつらく、すがすがしさとはほど遠い目覚めが待っている。一週間もやれば立派な拷問だ。
好きなだけ動ける広いところでのびのびと手足を伸ばし、寝返りも自由にできるところで寝るのが、体にとって一番心地よい。ふかふかベッドはカンオケだ。
こんなことを言っているのは橋本敬三著『操体法の医学』。

もう一度、問う。寝ているときに無意識の運動が起こる。これはなぜだろうか。
この無意識の運動は、「骨格の歪みを調整する」。寝相が出るのは「骨格の歪みをとる」という生理現象に基づく。あくびや、ノビもそれに準ずる。そんな見方が操体法にはある。


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無意識の運動は、錐体外路系(すいたいがいろけい)という神経系統の働きによるといわれる。解剖生理学の教科書の記述にある。錐体外路系については不明な点も多いが、無意識の運動に加え、動きをなめらかに行なう調整の中枢であることがわかってきた、とも書かれている。

操体法は意識的に、ゆっくりスムーズに、なめらかな運動を行う。どこにも力を入れず、ひっかかりや、ごまかしがないように動くのだ。操体法の動きは、錐体外路系を活発にし、発展させるトレーニングになる可能性があるのだ。
操体法には癒動操体法という分野がある。橋本敬三医師の直弟子、滝津弥一郎の創案で、目が覚めたまま、寝ているときと同じような調整の動きを、体にやってもらおうというもの。指を動かそうと思わないのに指がぴくぴく動いたり、何もしようと思わないのに、ヒザ関節がぐるぐる回ったり、ぐうーんと足が伸びたりする。見ていると薄気味わるいかもしれないが、やっている本人は実に心地よい。わざと動かそうとして動けるたぐいのものではないことは、見ていればわかる。

無意識かつなめらかな動きは、まさに錐体外路系の運動。それが癒動。癒しの動きというのである。
(この項次回につづく)

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論より証拠。論はあとからついてくる
2013/03/27(Wed)
むずかしいこと抜きにして体を動かしてわかってもらう。それが一番確実だし、私のやりたいことなのだと思う。講習の参加費は二千円でも、他に元手はかかる。お金ばかりじゃない。人生とは限りある時間のこと。将来のために講習を受けるのかもしれないが、身につけたものを試す間もなく終わりがくるかもわからない。それは私にしても同じこと。自分の最後の講習にふさわしい講習を心がけていなければ、「あれが自分の最後の講習だったか!」と悔いをのこすことになる。受験生の教え子に死なれたときに、まっ先に私が思ったのは、そういうことだった。
講習にかかるお金と時間と手間。それらのコストに見合うものがなければ、お互いに不毛だろう。もしそういうことがあるならば、それはひとえに主宰の私のせいである。操体法の橋本敬三先生に顔向けできないことにならないよう、気をひきしめてかからねばならないと自戒する。


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今日はふくふくプラザの参加者がプライベートでお見えになった。
実習の前に、スタジオの中を歩いてもらった。ゆっくり、そして早歩きも。その感じをおぼえてもらったうえ、テーブルに腰を掛けていただく。
一つめの操法はヒザのあげおろしである。感覚のよい方で、「あっ、こっちの足は重い」「こっちは軽い。だけど、脚のつけ根がヘンな感じする」と非常に具体的である。
腰掛けの操法を三つほどおぼえてもらってから、もう一度スタジオの中を歩いてもらう。早歩きもしてもらう。
「かる~い!すたすた歩ける!腰掛けから降りたときにもう、足の裏の感じがちがいましたよ!」
この間、五分。五分前と、五分後に、これだけの変化が実感できる。慣れてきたら一分半。まるで手品。それが操体法なのだ。ふくふくプラザで感じていたもどかしさ。私は一人一人にこうして伝えたかったのだ。一人ひとりをつかまえて、「うわっ、ほんとだ!」「かるいよ!」「すごい!」って驚かせたかったのだと思う。

テレビで話題になる療術というのは「痛い!イタイ!」と痛みを競わせたり、目にも鮮やかな手さばきだったり、派手なことこの上ない。操体法は地味である。茶室で味わう茶の湯の世界。ちょろちょろ流れる水音に、カコーンという竹の音がしみわたるような、静かな身体感覚の体験である。そんな中に、「うわ~」「へえ~」「おお~」という驚きがある。それを伝えたいばっかりに日頃慣れないこともやってはみたが、今日からふたたび朝の山歩きの日常が戻った。


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②家族や友人とゆったりプライベート実習(2500円。三名~2000円)
③一人でじっくり個別実習(一回3000円)

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どちらの足でまたいでいるか-水たまりのまたぎ方-
2013/03/26(Tue)
水たまり一つでも、左右どちらの足でも同じにまたぐことのできる人などいない。
まちがった足で踏みきるとバランスをくずす。なんでもないところで足を踏み外して滑落し、なんでもないとき足首をこじったり転倒したりするのも、とっさに「どちらの足を出そうか」と迷って混乱し、まちがった足で踏み切るもしくは踏み出したのではないだろうか。


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ボールを投げるのは右手か左手か、これはわかりやすい。階段上がるとき先に出す足は左か右か、ズボンはどちらの足からはくのか、バッグをかけるのは右肩か左肩か。「どうでもいいこと」と思われることが、呼吸や胃腸の機能やものごとの考え方・性格にいたるまで、さまざまなことに影響している。そんな指摘が橋本敬三医師の遺された著書にはある。

今、自分は右を振り向きやすいのか。左を振り向きやすいのか、わかるだろうか。
なぜ、つらい動きと、ラクな動きがあるのか。
ラクな動きをていねいに繰り返すと、つらい動きがその場でラクにできるようになる。
そこに何の意味があるのか。
自分のことだが何一つわからない。
自分の探検。
操体法。

快方向の動きにまかせ、力を抜ききる。
自然法則にさからわない動きを身につけ、身体感覚をみがく。

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快方向の動きの謎-日々是好日-
2013/03/25(Mon)
初心者に無心の目があり、「どうして日は西へ沈むのか?」という新鮮な疑問を子供が持つのと同じく、「なぜこんな動きで体が変わるのか?」という鋭い質問も出てくる。


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気持ちのいい動き、快方向の動きというが、まんぜんとやっていても実はあまり進歩がない。
動きのどこかで、①タメをつくり、②一気に力を抜く、という手順をふむと結果は格段にちがう。
何度も何度も体で試してみて、「じわ~っとタメをつくり」「トンと抜く」、たったこれだけのことが、わかるか、わからないか。ここがミソであるのだなあと思う。名人とヘタクソの大幅な違いも、そこで出てくるだろう。
「どうしていちいち、じ~っとしてなきゃいけないんでしょうね?」質問を向けられて、「不思議ですよねえ」と正直な笑いが出る。「脱力する」という点は了承するとして、「タメをつくり」「一気に抜く」という独特の動きには質問が集まりやすい。

実験①コップやスティックのりなど、握りやすいものを、手で握ってみる。
実験②握る手に力をこめていって、どんどんどんどん強く握っていく。
力をこめるには、手の動きだけでは済まなくなって、腕が曲がってきたり背中や胴体がねじれたり、全身に動きが伝わるのがわかる。
これが、タメをつくる理由。操体法で「気持ちのよい、ラクなほうに動け」というのはなぜかという説明にもなっている。

ネコのあくび、犬のあくびは動きの手本だ。最初はもわ~んと口が開き、いっせいに花々が咲いてゆくように全身すみずみにまであくびが伝わってゆき、ついに「カ・イ・カ・ン」のタメに至る。その終わりはあっけなく、スタスタ歩いて去ってゆく彼らの後ろ姿は「ああヨカッタヨカッタ、日々是好日」と語っている。

ただものを握るということさえ、できなくなることもある。エンピツ一本だって握れない。当たり前にできることができなくなる理由は何か。それも実験②の結果により説明できる。
タメのない動きをやってみたり、タメを強くしたり弱くしたり、長くしたり短くしたり、いろいろと実験するうちに、「ナルホド」とわかってくることもある。わからないまま慣れっこになって疑問さえ持たれなくなるのは残念なことだ。

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自分にいちばん心地よい加減がベスト。
2013/03/23(Sat)
はずみをつけず、ラクな動きだから、動くのがうれしくなる。
つらい動きや痛みの出る不快な動きをなくし、からだ全体の改善・回復と、日常の快適を増進することに結びつける。
それが操体法という運動療法。


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「はずみをつける動きはいけません。ゆっくりとなめらかに」という動きだから。
「行き過ぎ・やりすぎは絶対にいけない」という動きだから。
自分がいちばん心地よく、ラクな加減で動くしかない。
身体感覚フル活動で、自力で動く運動療法。
これ以上に安全なやり方は、恐らくほかにない。

福島生まれのお医者さん、橋本敬三医師が、東洋療術を探求の末に創案。
NHKテレビで放映された映像と、NHKラジオ出演3回分が、今もDVD『橋本敬三の世界』(農文協)に収録され、市販されている。
著書『万病を治せる妙療法-操体法-』(農文協)が版を重ねてもいる。

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自分の感覚で、自分だけの動きを発見する
2013/03/21(Thu)
ゆっくりなめらかに動き、じいっと止まって保ち、一気にストンと脱力をする。
「これが体のクセ・歪みをとる動きです」と公表した橋本敬三医師の操体法。
「ぱあーっと動くのでも、はずみをつけるでもない。そういうのがダメなんだ、からだをこわすんだ」と指導する姿をDVDに遺されている。


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「気持ちいいほうに動きなさいよ」「やりづらいほうに動くんじゃないの」「痛みのないほうに動きなさい」とも指導している。
操体法の動きは、①できる限り心地よい動きを見つけ、②なめらかに行い、③じっと保って、④脱力する。
さらに付け加えるなら、⑤動きを数回行ったあとに、「心地悪い動き」だったのがどのくらい改善されたか、必ず確認して知る。

動くのにいちいち感覚をとる。できないこともないが、めんどうな手続きを要求する動きと思われるかもわからない。
なつかしいテレビ体操・ラジオ体操は、そんなこと一つも言わなかった。
号令にあわせ、周囲の動きにあわせて、腕をふればよかった。
掛け声に遅れないよう、みんなの行進についていけばよかったのだ。
子供のころからずっとずっと学校でやってきた、体育の動き。
一生懸命に弾みをつける動き。気持ちいいかわるいかの判断を下すよゆうなど、一瞬もゆるされない動き。

私の中には、二つの動きがある。
「学校の体育の動き」と、「操体法の動き」とは、私の中で矛盾しながら存在する。
弾みの動きで生きてきて、行き詰まったときに操体法の動きを知った。
集団の行進と、個人の歩みとの、判断のちがいのことを、思う。


『万病を治せる妙療法-操体法-』(農文協)
レディメイドの動きから解放され、感覚をたよりに自分メイドの動き・状況しだいの自在な動きにこころとからだをゆだねます。

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自分でゆるめる。こころとからだ-操体法の実習-
2013/03/20(Wed)
痛みのない、ラクで、気持ちいいほうに体を動かすと、筋肉もほぐれて元気になる。
それが操体法の基本。(『万病を治せる妙療法-操体法-』)
レディメイドの動きから解放され、感覚をたよりに自分メイドの動き・状況しだいの自在な動きにこころとからだをゆだねます。


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操体法の創案は、福島生まれの医師、橋本敬三先生。新潟医専卒、東北大学医学部の生理学教室に所属したお医者さんが、鍼灸・漢方や民間療法など東洋医学の分野において探求の末、体の歪みと健康とを関連づけた理論を背景とした操体法を創案。
NHKテレビ・ラジオで放映された映像と音声はDVD「橋本敬三の世界」に記録されています。

参考テキスト『万病を治せる妙療法-操体法-』(農文協出版) 
      DVD「橋本敬三の世界」(農文協出版)

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体にさまざまな音色をきく-全身骨格の改造②-
2013/03/18(Mon)
なぜ、こんなにも幅広い感覚のグラデーションが、人間の体に具わっているのだろうと、不思議に思うことがある。全身の感覚のグラデーションを読み取りながら、ゆっくりと体を動かす心身の調整法。それが操体法である。

体の歪みは筋肉の力学的アンバランスの結果を物語っている。
あちこちの筋肉どうしが綱引きしながら、全身のバランスを保とうとしている。自然なバランスとは、全身まんべんなく負担を引き受けている。不自然なバランスとは、負担がどこかに集中し、かたよっている状態。
骨格の互いの位置は、姿勢にあらわれる。疲れがひどかったり不都合が生じたりしているときには、体の歪みも見えやすい。体の中で、押したり引いたりのけんかがあちこちで発生し、一番しわ寄せになったところがとくに、目に見える決定的な歪みや症状として表現されている。
力学的アンバランスは、目に見えない力の綱引きの結果。目に見える歪みをどうにかしたくて切り開き、「ここに固定してやる」式が、意味のある問題解決とはとうてい思われない。

それじゃあ、どうするの?
まずは筋肉を触ってみよう。腰でもいい。腕でもいい。手で注意深く、探りをいれてほしい。
骨格は筋肉で二重三重に覆われているのだから、体に触れれば皮膚の下は筋肉ばかりである。
同じ腕の筋肉だというのに、いろんな手触りがある。硬いところ、やわいところがある。硬い中にも、筋ばってピンとしたところもあり、ゴリッと塊になっているところなんかもある。
指先で軽く押さえ、圧を加えていくと、いろんな感覚が感じられる。一番気持ちよい圧の加減もあれば、不愉快になる圧の加減もある。心地よい痛みもあれば、イヤな痛みもある。
深さによって、圧の加減や感覚は異なる。圧をかける角度によっても、感覚は異なる。

操体法の手始めは、人体がじつは楽器のようにいろんな音色の備わった楽器であるという発見が必要なのかもしれない。筋肉には多くの情報をキャッチする感覚器が具わっている。それはなぜなのか。
体の動きに伴う感覚を実感し、その実感の上で、体の調整がはじめて成立する。


「全身骨格の改造は自分の手で」のつづきです。(この項おわり)
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全身骨格の改造は自分の手で
2013/03/16(Sat)
あらゆる動きは筋肉せんいが「縮む」ことで成立する。心臓も、ぎゅっと縮んでは縮むのをやめ、という繰り返しで拍動を打つ。
ある動きを行うと、その動きを主にリードする筋肉は縮み、筋肉の縮みに応じて伸びる筋肉もある。
体の中で筋肉の収縮と伸びがいっせいにあちこちで発生し、その全てを総合したバランスが、どの瞬間にもつり合いをとって、動いている。

ストレッチで筋肉をのばしましょうというが、必ずどこかの筋肉は縮ませている。筋肉弛緩剤やりすぎると動けなくなるのも、弛緩剤でゆるみすぎて縮むことができないからだ。
伸びるのは、べつのどこかを縮ませた結果にすぎない。
「筋肉が自ら伸びる」ということは、あり得ない。
筋肉は縮む。拍動が、心臓の筋肉の収縮と弛緩の繰り返しであるのと同じである。

全身が、たくさんの関節ごとに、主導筋と、主導筋の動きを補って協力する筋肉と、主導筋とは逆の、「これ以上伸びたら危ない」というところで動きを支え、踏みとどまろうとする拮抗筋とのバランスが、ある。
全身が、たくさんの関節ごとに、いろんな向きの綱引きをしながら、あらゆる動きを実現させている。
主導筋という名の筋肉はない。拮抗筋という名を持つ筋肉もない。動きごとに、どこが主導の役割を演じ、どこが拮抗の役割を演じるか、一定しない。

操体法は、「骨格の位置は筋肉の状態で決められる」ということから、筋肉の観察を重視する。
骨格の歪みは、骨が歪んで起こるのではなくて、筋肉の綱引きの結果もたらされた力のアンバランスが、目に見えるかたちで表現されていると考えるのである。
だから筋肉のバランスを調整する。骨格が歪んでいるから、そこを切り開き、「正しい位置」にボルトで固定すればいいですよ、とは決して言わない。

人間は絶えず動いている。座禅をくんで、一生懸命にじっとしているつもりでも、静止なんかできない。寝ているときも人はよく動くし、呼吸なんかも、全身の骨格がせいだいに動いている。切り開いてたまたま「正しい位置」が見つかったとしても、骨は生活の中でそこにじっとなどしていられない。無理やり固定された位置は、時には正しく、時にはとんでもない間違いとなるだろう。手術痕は周辺をだんだんと縮ませ、また別の歪みを発生させる。
できることなら全身の骨格を正しい位置に固定したいという心情もわからないではないが、それなら「全身骨格改造手術」で全身の骨格をボルト固定してもらうほうが、みんな具合よく日常を送れるようになるという話だ。ましてや一番負担のかかっている場所を切り開こうというのは、どういう理由なのか、体の成り立ちから説明が必要ではなかろうか。
(この項次回につづく)
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「ラクがいいに決まってる」と言えない気持ち
2013/03/14(Thu)
当たり前に動くはずの腕が、気づかぬうちに四十肩・五十肩で無理に動かそうとすると痛みを伴い、ひどいのは疼いて眠れないことさえ、ある。
「痛みも少しは我慢しながら動かし続けなければ、固まってしまう」という意見もある。

「痛みを少しは我慢してでも」というのは健気である。健気であるが、もっといい方法見つけたよと発表したのは橋本敬三医師。
「挙がらないのなら下げればいい」もしくは「悪くないほうの腕を動かせばいい」という。

どんないいことがあるかは、「使用前」の状態と「使用後」の状態をきちんと確認して判断しなければならない。挙がりにくい腕を動かしてみて、どのくらいの角度までならラクなのか、どのくらいまでくると痛みがくるかを確認しておく。
これがどう変化するか・しないかを、後で比べたいので、「まあこんな感じね」とおぼえておく。

悪くないほうの腕を、ゆっくりと挙げていく。ゆっくりごまかしなく、きれいに挙げきったら、そこで5秒ほどじっと保持をする。力を入れるでもなく抜くでもなく5秒保持をしたあと一気に脱力し、パタリとおろす。腕の重みにまかせて落とす感じ。息も自然に「はあっ」と抜ける。
抜けきったら、ちょっとボーッとしておく。
こういう腕の挙げ下ろしを、三、四回やってみる。

さて。「使用前」の状態と比べてどうなっただろうか。
悪いほうの腕を挙げてみる。まったく変化なし? 向上した感じ? かえってわるくなった?
かわりばえしないようなら、かるく動くほうの腕を、あと三、四回動かしてみて、「使用後」の状態をもう一度確かめる。

動かし方さえ間違わなければ、「悪くないほう」を動かすことで、「悪いほう」の解決の糸口が見つかるというやり方も、立派に成立する。
あとは「痛みを我慢してでも動かさなければ」という健気なほうと、「痛みのないやり方で動かせばいい」というほうと、どっちをとるか。それは効果よりもむしろ、各自の価値観による。
私はむしろ苦しみに意味を感じるたちだから、「そりゃラクなほうがいいでしょ」と笑ってすませるには少しばかり努力を要する。

目的は、「痛みなく腕を動かせるようになる」という、「痛み苦しみの回避」。
しかしそれを治すやり方は、痛みのないラクな方法よりもむしろ、痛みを伴うやり方でがんばって、期待に胸をふくらませるという、矛盾した人間の心理もある。
「痛い思いをして治す」というやり方も、じっさい根強い人気を見せている。
「痛みなく、ラクなほうに動かせ」という橋本敬三医師の提案を受け入れるには、意識の改変が必要となるようだ。

※特定非営利活動法人 日本ホリスティック医学協会の主催で3月24日(日)第113回ホリスティックフォーラムが開かれます。
テーマは操体法で、講師は操体法研究会講師の鶴洋嘉先生(鶴内科医院院長)です。

場所:福岡市市民福祉プラザ(ふくふくプラザ)201会議室(TEL:092(731)2958)
講演:13:30~16:30 懇親会:16:50~18:00
参加費:一般2,500円 学生2,000円(懇親会費1,000円)

すでに定員の3分の2はうまっているそうですが、参加ご希望の方は、主催:日本ホリスティック医学協会福岡事務局 TEL&FAX.092(873)5100 またはメール:holisticmedicalsociety.fukuoka★gmail.com(★→@に)にてお問合せください。
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人間は神さまのコピーである
2013/03/12(Tue)
人間も「物質だ」という考え方がある。人体は機械のような部品の寄せ集めという考えで、切った貼ったも抵抗なく受け入れられている。さらには物資があり余る社会の中で、物を大切に思う気持ちも日頃からうすれている。そんな状況の中、人の心や体に対する扱いも、無意識のうちにぞんざいになってはいまいかと危惧する。

人間は神さまそのものではないが、神の写しだという。人体は宇宙であるともいう。言うのは誰にだってカンタンなことだが、それを実感するのでなければ言葉はただのお飾りにすぎない。
人の心も体も、日常は不完全なものに思われるかもしれないが、その不完全な見かけの下の、奥の奥のほうには超越した神聖なものが秘められている。体に向き合う体験を重ねるうちに、おのずと伝わってくるものもあり、直接に体に手を触れさせてもらえるというのは、じっさいありがたいことなのだと思う。

いろんな価値観を持った、いろんな人がいるが、向き合う体はいずれも神々しい。
実習や施術で体をあつかいなれていくうちに、人の体に対してぞんざいな、粗雑な感覚を身につけてしまうことがあってはならない。師匠はいったん体に向き合うと目つき顔つきが変わる。手つきを見れば、こまやかな神経が指先にまで張られているのがよくわかる。禅のほうでは、行き交う通行人のひとりひとりを拝んで歩く聖人がいたとか。わたしにも少しはわかるような気がする。
「施術の技術」というのは、体に向き合う姿勢のことである。施術という目に見える手続きを通じて、相手とのコンタクトの道がひらけてゆく。見えない道筋をたどる感覚。それが技術だ。だいじなのはあくまで感覚のほう。目に見える手続きのほうに気を取られていては決してわからない。

人の体に向かうときには、親友も身内も関係ない。すべてが本番。真剣勝負だ。
「実験台になってあげるのだから正式なお代は払わない」と友人に言い渡されたとき、「うん、いいよ」と素直に言えないものがあった。ずいぶん昔のことだが、忘れられない体験である。
お代をもらうとかもらわないとか、そういうのはどうでもよいことかもしれないが、師匠から「無料はぜったいダメだ」と何度も釘をさされていた。当初から繰り返し打ち込まれたその深い釘の意味を、折にふれ考えている。
「うちは家族も正式の料金。向こうからお願いしますと頭を下げてこない限り、やってあげない」という師匠の話は、患者さんのあいだでもよく知られている。「家族なのに、なぜ? なんでですか?」と訊ねても、「タダは、ぜったいにダメ」と頑として言い張られる。
最近ある方から、「先生が料金をどうしても受け取らないものだから頼みにくくて」という話をたまたま耳にした。その状況をよくよく考えた末、「なるほど」と納得するところがあり、慎重な判断が求められると思った。

※特定非営利活動法人 日本ホリスティック医学協会福岡事務局の主催で3月24日(日)、第113回ホリスティックフォーラムが開かれます。
テーマは操体法で、講師は操体法研究会講師の鶴洋嘉先生(鶴内科医院院長)です。

場所:福岡市市民福祉プラザ(ふくふくプラザ)201会議室(TEL:092(731)2958)
講演:13:30~16:30 懇親会:16:50~18:00
参加費:一般2,500円 学生2,000円(懇親会費1,000円)

私のほうも手伝いで会場に出かけていきますが、定員の3分の2はすでにうまっているそうですので、参加ご希望の方いらっしゃいましたら、主催:日本ホリスティック医学協会福岡事務局 TEL&FAX.092(873)5100 またはメール:holisticmedicalsociety.fukuoka★gmail.com(★→@に)にてお問い合わせ・お申し込みください。
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発見の驚きと喜びが、実行への報酬
2013/03/10(Sun)
体操で、運動は左右対称に、同じ回数行なうことだと教わった。右を向き、「えい、えい」とやれば次は左を向いて「えい、えい」とやる。
だから「左右を同じ回数やっては結果が得られない」「左右同じ回数をやるからこそ、こじらせている」
というのは大きな壁となる。
ヨガも真向法も自彊術も、健康体操はぜんぶ、ぜったいに左右同じ回数でやっていた。

「どうして左右同じ?」と思ったことはなかった。「よい結果が得られるから」とさえ思わない。考える必要なんかない。だって、みんなそうやっているし、自分もずっとそうやってきたし、だから、「どうして右を二回やったら左も二回なんですか」と訊かれても、「今さらバカ言ってんじゃないよ。とにかくこうすりゃ体操になるんだよ」と、右に「えい、えい」左に「えい、えい」を、一人でやるときだって、みんなでやるときだって、やり続けていた。
そこに何らかの意味があるとは、ちっとも思わなかったから、どうでもよいことのはずだが、左を二回やったら次は右を二回やる。判で押したように規則を忠実に守るのだった。

操体法がむずかしいとしたら、そこのところだ。
橋本敬三医師も患者さんとの言葉のやりとりの中で、「右も左も同じ回数やっちゃうのがいけないんだねえ」と話しているけれど、これまでの習慣にケチをつけられたと感じるのか、患者さんの表情に浮かぶのは、困惑や戸惑いや迷い、さらに疑いや否定や拒絶でしかない。洗濯機の中でぐるぐる回転している汚れものみたいに、混ざり合うこともなくいろんな感情があれこれ浮かんでは消えるのが、見て取れる。
せっかく調整をすませたあとで、右に「えいえい」左に「えいえい」やらないと、どうにも気が済まない人の姿も映像に残されている。

「左右を同じ回数やることでは、結果が得られない」
「左右同じ回数をやるからこそ、こじらせている」
人類史上初の新発見。常識はずれである。その理論は、体験がなければ言葉だけのリクツ。絵に描いた餅。うまくもなければまずくもない。
橋本敬三医師は、現場の具体的な事実を通じてみずから発見し、三十年以上の実績で確認されてきたのだから、そこのところに一点の曇りもないわけであるが、やったことのない人間が操体法で何らかの結果を得ようとするならば、「自分はなぜこれまで左右同じ回数をやってきたのか」ということに、目を向ける必要がある。
そしてじっさい自分で試してみて、自分で答えを発見するまで、何度も繰り返し確認を積み重ね、納得がいくまでは、困惑や戸惑いや迷いや疑いが、頭の中でぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐると、いつまでも回り続けるのである。きっと目が回ってイヤになって、「こんなもの、もう知らない」と、やめてしまう人もあるのかもしれない。

情報社会というのは、自分で確めないうちに答えを決めている日常だ。
「二つのやり方を一年がかりで試したところ、肥料農薬除草剤使う田んぼと、使わない田んぼとでは、このような違いが出ました」とスライドで説明されると、シロウトの自分なんか、「おおそうか!それなら肥料農薬除草剤まかないでつくったほうが確実だな!」とカンタンに飛びつくし、長く農業をやってきた人は「いや私のところにはあてはまらない」という拒絶で最初から話を聞くのかもしれない。
どっちにせよ、確めないうちに答えを決めている。条件が違えば、出てくる結果も違うのだから、自分の現場で確めなければ、どこまで行っても、結論を得られない話だ。やってみないうちに感じた期待や拒絶も、実行する過程の中で具体的に修正されてゆくほかは、ない。
「やらなければわからないことが、こんなにたくさんあるんだな!」という発見の驚きと喜びが、実行という手間に対する報酬である。じゅうぶんな報酬が得られないままでは去り難く、「もっともっと」と欲張るうちに、私の二十一年は経過していった。
これだけ報酬を得てきたというのに、まだ一点の曇りもないというところまでいかない。自分の中に驚きがあり、発見があるうちは、続いていくと思う。

※三月の公開講習の日程は次のとおりです。
水曜日…13日、20日
土曜日…23日、30日
いずれも野間会場で、予約不要・入会金も不要。参加費二千円のみで初めての方も参加できます。
時間も14時から自由に足をお運び下さい。
お問い合わせは、fukuokasoutaihou★yahoo.co.jp(★→@でお願いします)
お急ぎの場合には直接 080(1720)1097 へどうぞ。
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守られて生きている-自然が生みの親・育ての親-
2013/03/08(Fri)
自然観察に山に来ていた子らが「自然を守るんだ」と言っていた。自然を守り、地球を守り、銀河も守る。宇宙警備隊のノリである。
いつ、どこでそんな考えを吹き込まれただろうなどと思う私が、ついほんの何年か前まで銀河警備隊のノリで「自然を守ろう」なんてやっていた。
「守られているのは私たちのほうなんだよ」と言えば、子供たちに目を丸くされるだろうと思う。「世界を守り、自然を守るのは、私たち人間」。それが公的で主流のエコロジー思想。

「オレがお前を守ってやる」とか、「わたしが助けてあげる」というのは、愛情表現であると同時に支配なのかもしれない。船隊を組んで宇宙を我がもの顔で警備する「銀河警備隊」は、宇宙をナワバリとして支配する姿に見えはしないだろうか。
二十代はエコロジー運動にうつつをぬかし、かよわい動物、かよわい植物、かよわい自然にかよわい地球を、私たち人間が守ってやらないでどうする! みたいなことで、完全に感覚を狂わせていた。
しかしながら人間はどこまでいっても人間第一。言葉では「自然を守る」などと言うものの、人間は人間の生活を守ろうとしているのだ。それはむしろ当然。恥ずかしいことでもなかろうから、ハッキリと「私たち人間の生活を守ろう」「私たちの水をきれいに保ち、私たちの空気をきれいに保とう」と言えばいいのではないか。「気持ちよく生活を送るために、緑を破壊するな、動物たちの生活の場を奪うな」と言えばそれで済むのではないか。それは生活の質の向上(ライフオブクオリティ)というより、むしろ生活上の切実な願いだ。

「自然はかわいそうだから守ってやる」などと子供までが言うのは、自然と一体になって、自然のめぐみを実感する機会にとぼしい日常を送っているからではないだろうか。自然は人間の生みの親であり、育ての親である。励ましを与えてくれるばかりでなく、厳しい試練を課されることもあるが、自然がなければ私たちも存在しない。
自然をだいじに思う気持ちは、自分をだいじに思うこととイコールだろう。
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生活の繰返しの中に創造のよろこびがある
2013/03/06(Wed)
大学に合格した男子生徒がうんざりするほど暇をもて余している様子。「家の手伝いくらいしなさいよ」と声をかけたら、「なあにを今さら」という顔。
「高校生にもなって自分のパンツも洗わないんでしょ」と私はにらみ返す。「それじゃ赤ちゃんと変わらないわね」
意外にも数日後、彼は報告にやってきた。家で手伝いをしたら母親が泣いて喜んだという。「それはよいことをしたね」とほめてあげたが胸の内は複雑だった。今の母親は子供のしつけをしていない。

今朝は洗濯しながらそういうことを思い出していた。
すべて手洗いで洗濯するようになって、もう十年近くが経つ。きっかけは山歩きだ。急に衣服がいとおしくなって人にも機械にもまかせられない。最近の洗濯機の使い方もわからないので手洗いを続けるしかなくなった。
ものごころついて以来、家事は好きだ。毎日の料理はもちろん、家が留守のあいだに拭き掃除して、「きれいになってる!」と驚かせるのを楽しみとした。庭の水やりも欠かさず、洗濯も大いにやった。家族六人分の家事というのは子供にとってやりがいのある仕事であった。
家事は万事、娯楽である。そういう感覚は、幼いころから多少は身につけている。
これが今の操体法の指導にずいぶん役立ってくれていることは幸いだ。

健康というのは、生活のこと。生活とは、飲んで食べて眠って。掃除に洗濯。基本はそういうことだ。衣食住のことに関心の持てない人間には、健康のことはまず、むずかしいかもしれない。ましてや人の指導とか、健康関連の活動をしようという場合に、そういう体験なしにはろくに問診もできまい。
どれだけ忙しい現場を持たれている治療家でも、食事は自身でととのえるとか、洗濯も掃除もやるのだとか、少なくとも私の周囲には、生活の基本をきちんと押さえている話が多い。

個人差はあるが、身体感覚は男性より女性のほうが鋭い場合が多い。先天性によることもあろうが、家事をやるのが当たり前の生活で身につけてきた感覚の積み重ねがあるのかもわからない。
洗濯は、水の温度にも気を使う。湿度により乾燥の時間も変わる。洗濯機で洗ってばかりでは、わからないこともたくさんある。せっけん液に浸しておくと、びっくりするくらい汚れが出てくる。どう洗っても取れない汚れもある。そういうのを見ると、体内の汚れや、細胞にためこまれた化学物質が、なかなか一生出てこないものもあるという話も合点がいく。
隅から隅まで自分の衣服の減り具合、傷み具合などを知り、自分の体の動かし方を想像できたりも、する。
脱水機も使わないので、どういう絞り方にするか、どこに、どんなふうに干そうかとか、まあいろいろと考え、工夫する。水に浸けるところから乾燥して仕上がるまでの過程で、いろんなことに気づいたり考えたりした挙句、仕上がった衣服を見て、うれしくないわけがない。

平凡で何気ない日常の生活に、たくさんのよろこびが用意されていることを知る。それがまた有難く幸いであると思う。
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苦労なく生きられるようにできている
2013/03/04(Mon)
昔の野菜は、その土地固有の品種だった。昔からずっとその土地に生きてきた植物は、その土地で生きてきた経験や体験が、タネの中にしっかり宿っている。その土地で生きていくのに必要な備えが、ある。そういうのは自然にすくすくと育ちやすい。当たり前だ。
農業試験場なんかで育ててタネを採取しても、それは試験場で一番うまく育つタネかもしれない。農家がタネや苗をよそから買って持ちこむというシステムそのものが、非常におかしなこと。不自然なことだ。

植物と植物をとりまく環境とを、区別して見ているのは、人間の勝手な目だろう。環境と切り離して見ているから、九州のトマトも四国のトマトも、おんなじトマトに見えてしまう。しかし、九州のトマトと四国のトマトは、違う生きものだという見方もある。
その土地で病気や虫を呼びこんでしまう植物というのは、その土地で生きていけない植物だということ。
環境に受け入れてもらえない生きものだということ。
病虫害に強い体質の植物と、弱い体質の植物という見方もできるが、強い・弱いもあてにならない。北の寒さで生きられる植物は寒さには強いが、暑さには弱い。

個体と、それを取りまく環境とのコラボレーションで、命は営まれている。
健全で幸せな暮らしというのは、環境とマッチした関係を築くことができるかにかかっている。
環境の条件により、その環境にあった植物がすこやかに無理なく育つ。環境にあわせられた植物が、その空間において生命を営むことができる。
雑草は毎年、勝手に芽が出て、勝手に繁っている。食べものが毎年、勝手に芽を出し、病気にも虫にもやられずに丈夫に育ってくれる。これ以上けっこうなことは考えらない。
雑草は、同じ種類なら、どこの土地も同じものかというと、恐らく違う。同じタンポポに見えても、その土地の気候や土壌にマッチした体質のものは繁栄し、その土地に合わないものは消える運命だろう。
わざわざ病気にかかりやすい植物を手渡され、「自然に育つというなら、育ててみろ」と言われたら、どうだろう。病気や虫を呼びやすい体質に「改良」された植物。それが今の野菜の苗であり、タネではなかろうか。
じっさいお店に行くと、そんな品種しか置いてない。遅かれ早かれ、「農薬もください」「消毒薬も」「除草剤も」「肥料も」と、財布は開きっぱなしになる。

お店に売ってある品種でも、元気な雑草がすくすくと育つ畑で、平気に元気に育っている野菜の姿を見たことがある。畑というよりむしろ野原のようなところで、売りものとしても、びっくりするくらい立派なものができている。そんな土地で私は一ヶ月間、滞在させてもらったことがある。
環境に受け入れてもらえている野菜たちは、ほんとうに無理なく幸せな姿をしていた。タネをまいて、そのまま放置して、のびのび育った野菜を収穫する。畑と野菜とのコラボレーションがそこまで実現するのを見るのには何年もかかったという畑の主は、「わたしのはまだ自然農法とはいえないよ」と涼しげに笑っていた。
「でもこんな畑は滅多にない。自分の持っている畑の中でも、こうまでうまくいってるところはないんだ。そんなカンタンなものではない。カンタンでないことは、やったものにしか、わからない」

人間が病気で苦労して生きているのは、自然からずいぶん離れたところで生きている証拠なのだろうと、その畑で過ごしてつくづく思った。この世はエデンの園で、雑草と同じように自然の恵みを受け、私たちは苦労なく生きられるようにもとからできているのだと思う。しかしそれがわかるようになるまでには相応の努力が求められる。私たちは雑草族よりもむしろ、野菜族に近い生活を営んでいる。だから、カンタンなことが、「カンタンでない」ということになってしまう。そういうことなのだろうと思う。
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「おざなりのお握り」と「奇跡のお握り」
2013/03/02(Sat)
握り飯にも「奇跡のお握り」というのがある。相談が入ると、予約の日時までにつくっておき、食べてもらうという話だ。食べた人は涙を流し、問題の解決をみる。
そこはそういう対処で多くの問題の解決をみている。

一体どんな握り飯か。お米は? お水は? 塩は? どんなふうにつくっているのだろう。興味は尽きない。興味はつきないが、「ただの握り飯にどれだけの可能性が残されているか」ということが一大事に思われた。
「一つ一つの飯粒が、ちゃんと呼吸できるよう、むすぶ」。この人にしかわからないコツというか、心得も、ずいぶんとあるのだろう。稲が育つところから、米を洗い、炊くところまで、何か関係があるのかもわからない。もちろん一人で洗い、炊いて、一人で黙ってむすんでいるという。とにかく、おざなりでないということだけは、確かである。そして、それを口にする側にも、何か求められているものが、あるのかも、わからない。

「売りに出せばいい」という意見もあるかもわからない。「多くの人に喜んでもらえるし、ビジネスになる」そのような発想のお握りは、もはや「奇跡のお握り」とまではいかないだろう。
その方も、そんなにたくさんは、握れない。従来の作り方以外のやり方が、あるのかどうかさえ、わからない。
同じ握り飯でも天と地のちがいがある。人間だけにわかる違いかもしれない。畑から口に入るまで、機械化・オートメーション化された大量生産では、人間にとって救いはないのかもしれないと思われる。

お握りはよくつくる。握り飯はだいじと思っているが、奇跡のおむすびの話を読んだら、自分のはぜんぜんおざなり。握り飯の意味がわかってなかった。うかつだった。
同じ時間をつかい、同じ手間と時間でむすび、食べるのだ。
おざなりでは、もったいないではないか。
操体法だって、たった一つの動きにだって、「おざなりの動き」と「奇跡の動き」が、ある。「おざなりの動き」なら、何も目指すこともない。「奇跡の動き」のほうに一歩でも近づきたいから、この日々の生活がある。そうではないのか。
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