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万全に生きているという不思議・万全に生きているという安心
2013/02/17(Sun)
「生きよう」とことさらに思わなくても万全に生きている不思議がある。「治ろう」とことさらに思わなくても、「治そう」と思わなくても、「勝手に治っていく体」を私たちは生れながらに持っている。

「私は万全に生きている」という実感を持つのは少々むずかしいところがあるが、日々を乗りきって当たり前の顔をしていられるのは、何のはたらきによるものなのか。ふと考えることがある。
自力療法は「ひとりでに生きている」ということを気づかせるような、療法である。
必ずしも人の助けを得られなくても、努力しなくても、「私には生きるはたらきが万全に具わっている」ということに、気づく。遅かれ早かれ結局のところ、気づいてしまう。それが自力療法なのである。

病気もケガも、基本的に、本来的に、その万全のはたらきにより、ひとりでに治る。ひとりでに治るはたらきがもともと具わっている、私たちの体である。
「そんな都合のよいこと、あるだろうか」という向きもあろう。「そんな都合のわるいこと、あってはならない」という向きもあろう。しかしながら、生きているのは、ほんとうは、誰のおかげでもない。治ったのは、進んだ社会のおかげでもなく、進んだ科学のおかげでも、進んだ医学のおかげでもないのかもしれない。健康法のおかげでも、自分の努力のおかげでも、ないのかもしれない。ほんとうのほんとうの、確実絶対の恩人は、自然のはたらきであり、もともと各人の体に宿る、見えない生命のはたらきのおかげである。
そういうことが、そんな大切なことが、いまやスッカリ忘れ去られてしまっている。

伝統医学では東洋でも西洋でも、宇宙のはたらき自然のはたらき、生命のはたらきを中心にすえて、人間をみようとするのが当たり前のものだのに、この千年二千年の伝統を断絶する、新たにこしらえられた今の医学が幅をきかせ、宇宙のはたらき自然のはたらき、生命のはたらきから目をそらすようなことになってしまっている。
操体法は自力の療法で、考案したのは医師であるけれども、操体法をやればやるほど病院から足が遠ざかるのだとすれば、こんなこと許されるだろうか。

操体法を、「治療法」「健康法」として見る必要はない。広大な宇宙・自然法則の中に、自分がちょこんと生きて生かされている。宇宙や自然とへその緒でつながっているのを感じているのが、自分にとって一番心地よく、一番安心なので、操体法でそのようにさせていただいている。
自分と自然をわけて考える必要もなく、自分と宇宙とをわけるというのがどういうことさえもわからないような意識の中で、呼吸しているというところまで、ならないものかなあなどと、ときにはイメージしたりも、する。

「もっと」「それ以上」「こんなことが自分のベストではない」と思うのは人間のさがだ。しかしたとえ取るに足りないような日常だとしても、今日一日を自分は生きた。天敵に食われることもなく、ちょっとしたミスで命を落とすこともなく、多少の困難はあれども一日を乗りきっているということ。それは確かに一つの実績であり、万全であるということを、私は認めざるを得ない。
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