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治るコツ-できる限り何も思わず体と向きあう-
2013/02/14(Thu)
人に感謝されると、感謝に応えたい、感謝されたいとか、つい思ってしまう。それを励みにするのはともかくとして、善意という名の下心というか心積もりといった落とし穴も控えている。悪意より善意がすぐれているのは確かだが、善意よりもダントツなのは、無為だろう。
やることなすこと何もかも、善意などという下心がやらせることより、もっとよい結果が出るのなら最高ではないか。サイコロを振り出すたびに、出た目がすべて正しい。たとえるならば、そのような状態は考えられないだろうか。

「治してやろう」などという意識が、邪魔。
そんな記述が野口整体の著書には散見される。初心者の頃は、「そうかそうか。治そうと思わないほうが、治せるようになるのだな!」と勘違いし、自分や他人の体に向かうたびに、「治そうと思わないほうが治る。治そうと思わないほうが治る」と念じていた。
要するに、これこそ「治す」「治そう」という意識のとらわれ、こり固まりなのだが、初心者ではそれも仕方ないわけで、だんだんとやっているうちに、「やっぱり何となくうまくいかない…」。とくに緊急の状況では、「これは緊急だからな!何とかしなきゃ!」「何とかしてあげないと!」という気持ちでいっぱいになる。困ったときには「よし、自分を治してやる!」「よし、他人を治してやる!」と思わずにいられない。それが人情というものではないか。

しかし人情で治れば苦労はない。善意のこり固まりから、無為の姿勢へと抜け出していくのは、至難のワザ。
「奇跡のりんご」で知られる木村秋則さんは、「りんごは『つくる』ものではない」と主張する。同様に、「からだは『治す』ものではない」とわかってくるのには、体に向かう時間と、相応の経験とが必要なのではなかろうか。
「治そう」という意識を追い払う前に、自分の中に、そのような意識があるということに気づくのがまた、むずかしい。さらに、「治そうと思わないほうが、治る」という意識を追い払うのもまた、むずかしいのである。
「体を私たち人間の手で何とかしよう」という意識を芽生えさせる、もともとの意識というのは、どこらへんにあるのだろうか。
「テクノロジー(科学技術)で治しましょう」が主流の時代には、自然のはたらき、生命のはたらきという面が死角となっている。自然は人間の意識を超えた存在であるが、科学も医学も自然ではない。あくまで人工である。人間が意識的に収集したデータをもとに、読み取りと解釈を行う中から生まれるものであり、技術は人間の明確な意図から生じている。

操体法の著書には、「自然法則」という言葉が必ず見られるはずだ。自然法則への理解こそが、「治しましょう」などという浅はかな下心を打ち砕く、有効な処方箋ではないのか。私にはそう思われてならないのである。
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