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二百円のキャベツと二百円の花。どちらを選ぼうか。
2013/02/08(Fri)
キャベツ売場のキャベツの重さは一個1~2キロ。花屋さんの花1本の重さは、種類にもよるが20本30本束ねてやっとキャベツに届くか届かないかである。
それでいて価格はキャベツ1個と花1本がほぼ同じ。
キャベツは重いし、食べられもする。長持ちするのもキャベツである。
「なぜ花のほうが高価なのか」
「なぜ高い代金を払って、食べられもしない花を買う人がいるのか」
そんなことを子供の頃に考えていた。
もちろん代金とは、キャベツそのもの、花そのものの価格ではない。自然の植物に値段はない。労働という人間の手間が多くかかるものは高く、手間のかからないものは安い。また、人々の欲求に対して不足しがちなものは高くなる。役に立つとか立たないとか、そういうことと価格とは、直接は関係がない。

生産の方面から眺めて見れば、キャベツ栽培が重労働になりがちなのに対し、花の栽培は比較的軽い作業になる。運送費用も異なる。キャベツがキャベツになるまでの期間と、花をつけるようになるまでの期間は、どうちがうのだろうか。土や気候のこと。育てやすさ育てにくさ。収穫後の保存性はどうか。人気があって売れるかどうか。
作り手にならないと考えないことのほうが、山ほどある。

消費者とは結局のところ、「安くてよいもの」が目の前に現れることを願う、他力本願の姿勢にならざるをえない。「消費者の高い意識」とか、「ものを考える消費者」とか、言葉では何とでもいえるが、「消費者」という役割をつとめるときには、あくまで自分中心に、自分の気持ちに、自分の都合に、フォーカスさせられる。
「生産者」や「販売者」の役をつとめるときには、どんな自己中心の人間でも、社会の都合、自然界の都合を考えずに済ませることなど、まず不可能だ。

効率よく大量生産できる技術を持つ社会では、生産に関わることがどんどん減少し、生活の中に消費の割合がどんどん増えていく計算だ。生産に関わる人でさえも、関われる部分がどんどん削られていって、何がどうなっているのか、わけがわからなくなる。
全体を見ることがなくなっていって、部分に集中する。部分しか見ないで済む生活に追いやられていく。

生産の縮小と消費の拡大で、自己中心型人間がつくられてゆく構造が、進みすぎた分業社会にはあるのかもしれない。針と糸をほとんど持つことのない、手。土をいじることもない、手。ペンを握って文字を書くこともない、手。
手も足も使わない生活のことが、便利でけっこうな生活といわれるが、人間の発達というのは、動かすべき「手」を獲得し、それに伴って頭脳が発達してきたともいわれる。頭脳はじゅうぶん発達したので、あとはもう手も足も使わないで大丈夫なのですということなんだろうか。体を使わないぶん、それだけ頭のほうも劣化していくということにはならないのだろうか。

人の生活にはもちろん、キャベツも花束も必要なのだが、買うとき、贈るとき、つくるとき、ずしりと重いキャベツと、頼りなげな一本の花との、どちらかを選んでいる自分自身のことを、考えてみたりも、する。
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