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りんごのタネを植えて木になるのか
2013/02/28(Thu)
あの小さなタネは確かに木になって実をつけるが、その実は小さくて固くて苦い。自分たちの知っているりんごは純粋なりんごの木を切って、べつの木を土台に成長させた枝がつけた実だ。接木という、人工処理をしなければ、とても食べられたものではない。
柿ももともとは渋い実をつける木だ。それをべつの木に接木されて成長すると、あの甘い柿の実をつける。
自然ほんらいという点でいえば、固くて渋い実をつける木のほうが自然。甘い実のほうは自然本来からは、一歩離れたところにある。

私が食べてきた野菜だって、全部そういうことだ。「改良」に「改良」を重ねてしまったものは、病気にも虫に対しても、どんどん体質が弱くなっている。それを「改良しました」と言っているだけだ。
「いやしかし味を追求しないと消費者にウケません」という話も聞くけれど、誰も頼んでなんかいない。「昔の野菜のほうが、おいしかったよ」という話のほうは、よく耳にする。私自身、そう思う。今の野菜はとにかくまずい。私は数十年来、有機JASや無農薬という表示の生産物しか食べてこなかったけれど、宣伝のうたい文句のように「味が濃くておいしい」とはちっとも思わない。思わないが、輸入物とかスーパーで適当に買っている人に食べさせてみると、「いやでもこれおいしいと思うけど」と言われる。小麦粉なんかは、「これ売ってちょうだい」とお金を置いて持ち帰る人さえ、いた。

体にいいものはおいしいというが、この「おいしい」がクセモノだ。有機だろうと化学だろうと、およそ肥料を入れると何らかの「おいしさ」が、加わっていくのらしい。
しかし、あえて肥料を入れず、農薬も除草剤も使わずに育てて「体質改善」した作物の味は、また別のおいしさを獲得する。自然ほんらいに一歩近づいたおいしさといってよいのかもしれない。

肥料を入れておいしくした野菜には虫がたかってくる。農薬で守ってやらないと、人間の食べるぶんがなくなるのだ。肥料を入れておいしくした野菜には、病気もたかってくる。殺菌消毒してやらないと、食べる前に病気で倒れて死んでしまう。
そういう、不健全な体質を持ったおいしさなのだ。
あえて肥料も入れず、農薬も除草剤も使わない畑で育つようになった野菜には、虫も病気も寄りつかない。そういう健全さを備えたおいしさなのだ。
肥料を入れておいしくした野菜は、二週間以内にはどろどろに溶けて腐ってしまう。腐敗菌を呼ぶのだろうか。うちで買う野菜もとにかく腐りやすい。
肥料農薬除草剤を使わないでも育った野菜のほうは、二週間どころか、六ヶ月経っても腐りはしない。食べてみたら漬け物になっている。

これらの話はほとんどパクリである。私はそういう話を本でみただけだが、「やはりそうだろう」という確信が感じられた。私は健康のことをやっている人間だから、できれば肥料農薬除草剤を使わずに育つ、自然ほんらいに近いほうの野菜を食べたいと思うが、残念ながら、そんな健全な野菜の味を知らないまま、この五十年余りを過ごしてきた。
「自然農法の野菜」と表示されて売られる野菜は多くなってきた。しかし前年まで肥料農薬除草剤の行われていた畑の生産物だったり、土がぜんぜん違っていたりする。新聞やテレビも平気でそういうのを「自然農」といって紹介する。自身が生産現場まで足を運び、くわしい事情を聞かない限り、決してわからないことである。自然に一歩近づいた、健全なお野菜は、消費者である私にとって、まさに「まぼろし」。そんな健全で体質のよいお野菜の味は、まぼろしの味である。不健全なほうの「おいしい」は熟知しているけれども、まだ自然ほんらいの「おいしい」を知らない私にとっては、自然栽培のおいしさは、想像するしかない「まぼろしの感覚」なのであると思う。
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循環を得る-感動の風化しない日常-
2013/02/27(Wed)
水も空気もよどめばすぐに濁ってくる。自分の充電と放電との、バランスが取れてゆくと、心地よい循環を得る。大循環になるか、ささやかな循環になるのかは自身の力量だが、ひとたび循環を得れば、水も空気も濁ることは、ない。

知識や経験も、自分という蔵の中にしまい込めば、ほこりもたまってくる。
新鮮な風を通し、光を呼び込む方法の一つとして、蔵入りしたものを開放し、人とシェアするのは有効だと思う。
人に開放し、共有する場を持つことで、「自分のもの」が同時に「みんなのもの」にもなる。感動は増幅され、情熱の火を灯し続けることができる。決して規模は大きくないが、ブログを公開し、スタジオを解放することが自分の日常として根付くことを得、そんなことに気づかされてきた。
自分の所有しているものの価値が、自分自身ではよくわからない。いろんな人が訪れて操体法を面白がったり、大切に思う姿を目にするうちに、操体法に注ぐ自分の目もまた、知らず知らずのうちに更新されてきた。

村田喜代子さんの文章教室に初めて足を運んだ日、「自分の書いた文章を、夜半にこっそり一人で読んで、うふふと笑って引き出しにしまいこむのなら、文章修行を積む必要はありません」と言われて仰天した。
文章を書くのは好き。努力して勉強して技術を身につけたいという気持ちもあった。しかし書いたものをどうするか。身についてゆく技術をどうするのか。顔も名も知らない不特定多数の人々の目に自分をさらすということは、また別のことだった。
文章教室の中でさえ、ほめてくれる人、面白がって読んでくれる人ばかりではなかった。「けしからん」と批判され、趣旨と違う読みとり方をされて誤解を受けることも多々あったのだ。
一人で読んで、うふふと笑って済ませてさえいれば、イヤな目にあうことはなかった。しかし結局のところ、ほめられるも、けなされるも、両方とも刺激になる。背中を押されて動かざるを得なくなるのである。
読んでくれる人もなく、反応もかえってこないなら、文章なんか書かない。書けなくなるのも時間の問題だ。

たいてい何でもそうなのだ。一人こっそりやるだけではもったいないし、広がりもない。刺激もなくていずれは行き詰まるだろう。勉強したことを片っぱしから公開するならば、手直しをして正確を期することも必要だし、あわてて復習もする。疑問もわくし、質問も出てくる。次から次へと新しいものを仕入れなければならなくも、なる。ここに循環が発生する。
喜ばれることもあろうし、失敗したり恥をかいたりする。しかしどんな反応も結局は自分に還ってくる。橋本敬三医師の口癖のとおり、やってみるしかない。失うものもない。家族や知人でもいいが、不特定多数も得るものは大きい。
「わたし先日こんなことを聞いたんです」「こういうのも知ってます。うまくいくかわかりませんが」と他人に試すうちに勉強も進み、自分らしい活動の仕方もおのずとできてくる。

いちばんしぜんで無理がない。ウソも発生しない。最初は方向もわからないが、引き受けていくうちに「手応えあり」とわかったもののほうには枝が伸び、新芽も吹き、だんだんと葉が繁ってくる。そよ風と日光が適度に入り、時には慈雨が降り注ぐ。そうした環境を得ることも時間の問題と思われる。

※2013年3月の公開講習の日程
水曜日…13日と20日。土曜日…23日と30日。いずれも福岡市南区の野間会場で予約なしで入れます。参加費二千円。14時から時間自由。
福岡操体法研究会は第二土曜天神会場にて15時。二次会も参加自由。
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枯れ野にわたる風の音を聞きに
2013/02/25(Mon)
冬の大地は清潔で清らかだ。あれほど競っていた植物たちも、なりをしずめ、どぎつい欲望は地中におさめられている。地上に残されたのは、夏と秋のにぎわいの抜けがらである。つかみ合い、からまりあったまま地べたに倒れているもの。うずくまっているもの。互いに重なり、積みあがって、クッションのように敷きつめられているもの。ぴんと突っ立ったまま天を指しているものなどが、冷たい風にそよぎ、かさこそと音をたてている。
かつてテントを張った地面にも、ヨモギやマツヨイ草が変わり果てた姿をさらしている。
こんもりと枯れ草に埋もれた地面の下で、水の流れ音が聞こえてくる。対岸の、ごろ石だらけの河原を、小さなけだものがするすると走り抜けていく。

焼けただれたような褐色の、うねり曲がった茎。黄色みを帯びたまっすぐの茎。弓なりに垂れ下がった細長い葉が、乾いたベージュ色の波となって、あたり一面を包み込む。
背丈をゆうに越える枯れ草の茂みを踏み分けていく。一歩踏みしめるごとにパキリポキリという音。行けども行けどもススキや萱の茎。しゃがみこんで見上げれば、ススキの穂に囲まれた、はるか遠いところに、ぽっかり浮かんだ冬の空。
まあたらしい冬の感覚が、しみこんでくるようだ。
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PPK-「コロリ」とは病の名前か理想の死に方か-
2013/02/23(Sat)
「PPK」は今や大人気。毎日のように人々の口にのぼり、保健の教科書にまで記載がある。
前の日までピンピンしていた人がコロリと死ぬ。周囲に迷惑かけずに死ねた、死んでくれた。この、どこがいけないですか、これ以上の理想は考えられない。そうも言われる。

「PPK」の背後には、延命的な介護や治療と、それに伴う苦しみがある。「あんな死に方をするくらいなら」と人々が思うような死に方が増えて、そこに出てきたのが「コロリ」という生き方・死に方ではないだろうか。
あらたな「姥捨て時代」の到来の予感は、私にも他人事ではなく、不条理な苦悩の増大の中で安楽死制度も時間の問題だろうと感じている。「慎重に検討されるべき問題」ということで、国民の間でじゅうぶんな討論と、じゅうぶんなコンセンサスが必要といわれ、テレビ番組も新聞もラジオも、こぞって問題を取り上げるだろう。審議会や対策委員会がつくられ、どこか知らないところで、私の知らない専門家と呼ばれる人たちが、頭を突き合わせて話し合いを繰り返した結果、「安楽死制度ととのいました」。
そういうシナリオを想像することは、むずかしいだろうか?
整然とした公的書類に名前が記入され、一定期間の審査をパスしたら、整然とした死が施設で執行される。そんな光景に疑問も抱かれなくなる日の到来を想像することは、むずかしいだろうか?
すでに臨終は家で迎えるものではなくなっている。死は次第に自分の日常から奪われ、限りなく公的社会の手にゆだねられてゆく。
社会制度の介入が色濃くなってゆく状況の中で、臨終のあり方のじっさいの決定権は、誰に、どのように握られているといえるだろう。

長々と苦しみ抜く死に方も、コロリと倒れる死に方も、自然の用意した本来の死に方とは思えない。不自然な生き方には不自然な苦しみが伴い、不自然な死に方がある。そんな想像は、むずかしいだろうか。
「コロリという死に方はよくない」ときっぱり告げる師匠の声を、先日はじめて耳にした。「なんでですか、苦しむのがいいということですか」と患者さんはくってかかっていたが、師匠は黙ったままだった。患者さんが「なんだ、この人。おかしなことを言う」とぷりぷりするのを黙って見ている。ぷりぷりするのも真剣のかたちだ。少し真剣になって考えればわかることだ。
「安楽死」にも「PPK」にも深い絶望とあきらめが背中合わせではなかろうか。
安楽死も決して「安楽」ではない。自然死以上に安楽な死は、ないということだ。

文豪の夏目漱石が、自分なりの理想の死について書き遺したものを見たことがある。また、禅宗の名僧の死に方の記録には、死ぬのが楽しみにさえなるほどの、立派な死に方が散見される。死に方によって生き方を示すような、「こんな死に方ができるのだったら、生きているうちに真剣に修行を積んでも惜しくはないな」とうならせるほどの死に方も、ある。生きる目標としても惜しくないような、「死に方を追求する生き方」というのも、ある。
子供のころからずっと長い間、死をわずらわしいもの、恐いものとして考えてきた。しかし今は恐怖というよりむしろ、もっとも充実した瞬間にしたいと思う。この人生の、大切な一度だけの瞬間を迎えるために、今の日常生活を、どう過ごせばいいだろうか。そんなことが重要課題の一つになっている。
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心の歩き方はどうなっているか-体のクセを洗い落とす-
2013/02/22(Fri)
傘を握ってバットにみたて、スローモーションでスイングする。傘を握る右手が左手の上ならば右スイング。左手が上ならば、ぐっと体を左に寄せて左スイングである。
ゆっくりと、スイングを繰り返す。右スイングと、左スイング。
どちらも同じ感じだという人は、まず、いない。体は左右対称ではなく、体の使い方も左右対称ではない。だから体を調整してととのえることを知らないままならば、ふだんの動きの偏りから体の偏りが生じ、どこかは酷使され、どこかはあそんでいる。そうした役割が固定化することによって、健康上、何らかの不利益が生じることもやむをえまい。

右スイングの構えでは、右足に体重をのせ、それを左足へと移しかえることで、傘を右から左へと流すことができる。このとき上半身は、右ねじりから左ねじりへと移り変わる。右腰が、ねじりの動きを支える要である。ゆっくりと何度も右スイングをしてみる。角度も変えて試してみる。そうするうちに、「恐らくこの動きなら、このあたりを最も酷使する」などということも、わかってくる。

次に、左スイングを実行してみる。左足に体重をのせ、それを右足へと移しかえることで、傘は左から右に向かって流れてゆく。上半身は、左ねじりの構えに始まり、右ねじりへと収束する。今度は左腰が、上半身のねじれと下半身のねじれを支える要となる。個人差はあるが、右利きの人は左スイングがぎこちない。右利きの人はとくに左側の腰や、肩甲骨付近の筋肉が硬直している人が多いから、左にねじろうとしても、じゅうぶんな角度までねじることが物理的にできなくなっていることもある。

西洋の体の動きは「体をひねる・体をねじる」ものが多い。スポーツにせよダンスにせよ、いかに腰をじょうずにねじるか・ひねるかで、優劣が決定される。ところが日本の先祖伝来の動きは「体をひねらず・ねじらず」である。日本がレスリング得意なのは、必ずしもひねったりねじったりしないで済む競技だからだ。
日本人は、日本人の体にあった歩き方さえ失っていると指摘する声もある。ただ「歩く」というだけでも、欧米と日本とでは原理がまったくちがう。
西洋の人間は、体をひねり、ねじることで歩行してきた人類である。しかし日本人は、体をひねらず・ねじらずに歩行する歴史を重ねてきた。日本人の歩き方の西洋化は「文明開化」の時代に始まる。歩行の変更は、体の中を伝わる力の通り道の変更である。体のバランスが根本から異なり、その影響は全てのしぐさにまで及ぶ。呼吸のしかたさえ違わずにはいられない。異文化とはそういうものである。

「文明開化」のツケが、どこで、どのような形で、今の自分の体を左右しているだろうと思うことがある。「国際化」とは耳に心地よい便利な言葉だけれど、要するに、先祖伝来の体のルールを、欧米方式にあらためなさいということでもあろう。ひねらない・ねじらない日本古来の動きは「なんば」といわれるが、とっくの昔にまぼろし化している。ものの本によると、先祖伝来のなんば歩きを試行錯誤していくうちに、ものごとの感じ方や精神のはたらきまでが根本的に変わってゆくのが実感されるのだそうである。
操体法で体のクセ・動きのクセを少しずつ洗い落としていく作業の中で、そんなところに考えが至ることも、ある。

※三月の公開講習は、三月二十日(水)が決定しております。14時以降の時間帯で自由に参加できます。予約不要です。その他の日程は、決まり次第お知らせいたします。
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宇宙の心臓の鼓動が、聞こえてくる
2013/02/20(Wed)
掘り返すと、昨年植えた球根が、ずいぶん小さくなって出てきた。茎を伸ばし、葉を繁らせ、花をつけていたのは、先代のたくわえを食いつぶしながらのことであったかと思う。
あらゆる生きものは「先天の気」をいただいて世に生まれ出る。そこに本人の努力はない。先代までのたくわえというか、生命が四十億年かけて積み上げてきたものというか、生まれる前の、長い長い経緯というものがあって、今の自分があり、今の世界がある。そう考えてみると、長い長い生命の営みによって積み上げられてきたものを、ただ食い散らし、食い荒らし、食いつぶして去っていくというわけにもいかないと思えてくる。自分一人生きたぶん、なにがしかのものが補えたとしたならば、これ以上のことはないようにも思われてくる。

生命といっても、何を生命とするかはまた難しいが、いちばん最初の生命体が地球上に生れ出る前に、その準備段階として宇宙の出現がある。気の遠くなるような壮大な宇宙の営みの中で、生きものの活動する舞台がととのっていくわけで、ここにも残念ながら、人間の関与はない。人間の努力もないのである。
人間は命も、体も、最初からもらってばかりである。空気も水も、あらゆる生活物資が与えられ、基本的にはもらうほうが圧倒的に多い。そしてもらったものは全てお返ししてどこかへ去ってゆく。それが「自然のめぐみを受ける」ということで、自分とはまさにそういう存在なのだと思う。

宇宙の営みも、自然界の営みも、人間の浅はかな意図や努力からは遠く及ばないはるかなところで、一瞬も休むことなく今も続いている。そのことと、私たちの心身の健康の問題とは、深く結びついている。そのことを、私はひとときも忘れないでいようと思う。
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「その一歩」を踏み出す壁の厚さ
2013/02/19(Tue)
「きょうはずいぶん成績いいですね」
できなかった動きもすらすらでき、痛み・ひきつりも消えている。
月一度きっかりで通い始めて二年目の方。これまでになく大きな変化があらわれている。
「冬は一般に硬くなるものですけど、逆ですね」などと話していると、「あれが原因かなあ…」とつぶやかれる。

「先月から寝床の中で、かかとを突き出すのをやってるんです。そんなキチンとやるわけではないけれど、右と左を比べながら、やりやすいほうをゆっくり三回か四回かやってみて、右と左がそろうかどうかを、やってる。気がつくと寝床の中でやっているんですよね」

聞きながら、ああなるほどなあと思う。こういう何気ないような、小さな取り組みが、かつてない変化をもたらす。誰もが一度は経験すること。自力療法の威力おそるべし、だ。
DVD「橋本敬三の世界」のシーンが目に浮かぶ。橋本医師が腰痛の患者さんに、「こんどは自分で取り組んで二週間もたせなさいよ。持たせてみなさいよ」とけしかけている。けしかけられた患者さんは「週に一度が限界です」などと尻込みしたり、「まあでも少しやってみるかな」などと考え込んだり、する。

自分で取り組んでみようと思うまでに何年もかかった私。自分で取り組むだけの理由が見いだせなかった日々。
自力療法の操体法が、ほんとうの自力になるための、「その一歩」を踏み出すのには時間が必要なときもある。そして「一歩」を踏み出してみれば、その収穫は、大きい。
よろこぶTさん。
「きょうはもう一つ、なにかおぼえていきたい」と、うれしそうだ。
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万全に生きているという不思議・万全に生きているという安心
2013/02/17(Sun)
「生きよう」とことさらに思わなくても万全に生きている不思議がある。「治ろう」とことさらに思わなくても、「治そう」と思わなくても、「勝手に治っていく体」を私たちは生れながらに持っている。

「私は万全に生きている」という実感を持つのは少々むずかしいところがあるが、日々を乗りきって当たり前の顔をしていられるのは、何のはたらきによるものなのか。ふと考えることがある。
自力療法は「ひとりでに生きている」ということを気づかせるような、療法である。
必ずしも人の助けを得られなくても、努力しなくても、「私には生きるはたらきが万全に具わっている」ということに、気づく。遅かれ早かれ結局のところ、気づいてしまう。それが自力療法なのである。

病気もケガも、基本的に、本来的に、その万全のはたらきにより、ひとりでに治る。ひとりでに治るはたらきがもともと具わっている、私たちの体である。
「そんな都合のよいこと、あるだろうか」という向きもあろう。「そんな都合のわるいこと、あってはならない」という向きもあろう。しかしながら、生きているのは、ほんとうは、誰のおかげでもない。治ったのは、進んだ社会のおかげでもなく、進んだ科学のおかげでも、進んだ医学のおかげでもないのかもしれない。健康法のおかげでも、自分の努力のおかげでも、ないのかもしれない。ほんとうのほんとうの、確実絶対の恩人は、自然のはたらきであり、もともと各人の体に宿る、見えない生命のはたらきのおかげである。
そういうことが、そんな大切なことが、いまやスッカリ忘れ去られてしまっている。

伝統医学では東洋でも西洋でも、宇宙のはたらき自然のはたらき、生命のはたらきを中心にすえて、人間をみようとするのが当たり前のものだのに、この千年二千年の伝統を断絶する、新たにこしらえられた今の医学が幅をきかせ、宇宙のはたらき自然のはたらき、生命のはたらきから目をそらすようなことになってしまっている。
操体法は自力の療法で、考案したのは医師であるけれども、操体法をやればやるほど病院から足が遠ざかるのだとすれば、こんなこと許されるだろうか。

操体法を、「治療法」「健康法」として見る必要はない。広大な宇宙・自然法則の中に、自分がちょこんと生きて生かされている。宇宙や自然とへその緒でつながっているのを感じているのが、自分にとって一番心地よく、一番安心なので、操体法でそのようにさせていただいている。
自分と自然をわけて考える必要もなく、自分と宇宙とをわけるというのがどういうことさえもわからないような意識の中で、呼吸しているというところまで、ならないものかなあなどと、ときにはイメージしたりも、する。

「もっと」「それ以上」「こんなことが自分のベストではない」と思うのは人間のさがだ。しかしたとえ取るに足りないような日常だとしても、今日一日を自分は生きた。天敵に食われることもなく、ちょっとしたミスで命を落とすこともなく、多少の困難はあれども一日を乗りきっているということ。それは確かに一つの実績であり、万全であるということを、私は認めざるを得ない。
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教科書のない学校・自然界という教科書
2013/02/15(Fri)
人生の教科書はない。ましてや自然の世界にも教科書はないのである。とはいえ私の知る限り、教科書を配らない学校はない。学校には必ず教科書があり、教科書の指導をする教師がいる。学校の教師が高い壇上にいるのは、人生のプロだからでもなく、ましてや自然の世界のプロだからでもない。教師は教科書のプロだ。教科書のどこに何が書かれており、何が教科書に書かれていないのかを知っている。それだから自信満々でいられる。若い頃の私ごときが、「先生はねえ…」などと一段高いところでふんぞり返っていられたのだ。

美大受験に落ちまくっていたころ、私をそそのかした人がいた。「ふつうの大学なら、これを暗記すると合格するよ」と、参考書を私の前にドンと置いたのだ。「東大だって、この中からしか出ない」。そう言われて、「ならばチョロいな」と思った。「この参考書を自力で書くくらいのつもりで暗記しろ」と言われ、その通りにした。それだけ美大受験に四苦八苦していた私だった。
美術研究所には一冊たりとも教科書がなかった。指導する先生はうさんくさい絵描きであり、一人ひとり全く言うことがちがう。「何をやったらいいんですか」とたずねれば、「おまえはどうしたいんだよ」などとたずねられる。「おまえはどういうのが好きなんだ?」
美大で学生生活を送りたいというだけでしかない私は、困った。先に合格していく受験生たちには、各人なりの趣向があったように思う。合格した大学では方向性に苦労しているようだったが。

こんなことしていたら一生かかってしまう。一生かかっても絵が描けるようになれば、大学などどうだっていいと割り切れたらほんものかもしれないが、むしろ大学生活に執着していた私はキャンバスを下し、教科書に向かうようになった。そのことは周囲はホッとさせただろうが、あのとき私は一種の堕落をしたのかもしれないと思う。ミューズの神さまのもとを去り、教科書は神さまだ、参考書は仏さまだと一言一句あがめて過ごしたら、試験に合格するわ、周囲から褒められるわ、わるいことはないように思われた。教科書に忠実なしもべとなった私は大学でもうまくやり、卒業後は「教科書の奴隷となれば、私のように受験に成功できる」と壇上で叫ぶ日々を送った。そして合格した学校で悲劇に見舞われた教え子たちに気づかないまま月日を送ったりもしたのだった。

交通事故で人生が狂わされたと思っていたが、じっさいは、交通事故で目を覚まされたのである。「交通事故で狂った体を治す教科書は、医学部にはなかったし、試験にも出なかった」と教えて下さった医師の方々に今は感謝している。「病院に一生通いたくなければ、ご自分で探しなさい」という医者の一言が、教科書ボケした頭の私を、自然界という学校へと足を向けさせるきっかけになったように思われる。
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治るコツ-できる限り何も思わず体と向きあう-
2013/02/14(Thu)
人に感謝されると、感謝に応えたい、感謝されたいとか、つい思ってしまう。それを励みにするのはともかくとして、善意という名の下心というか心積もりといった落とし穴も控えている。悪意より善意がすぐれているのは確かだが、善意よりもダントツなのは、無為だろう。
やることなすこと何もかも、善意などという下心がやらせることより、もっとよい結果が出るのなら最高ではないか。サイコロを振り出すたびに、出た目がすべて正しい。たとえるならば、そのような状態は考えられないだろうか。

「治してやろう」などという意識が、邪魔。
そんな記述が野口整体の著書には散見される。初心者の頃は、「そうかそうか。治そうと思わないほうが、治せるようになるのだな!」と勘違いし、自分や他人の体に向かうたびに、「治そうと思わないほうが治る。治そうと思わないほうが治る」と念じていた。
要するに、これこそ「治す」「治そう」という意識のとらわれ、こり固まりなのだが、初心者ではそれも仕方ないわけで、だんだんとやっているうちに、「やっぱり何となくうまくいかない…」。とくに緊急の状況では、「これは緊急だからな!何とかしなきゃ!」「何とかしてあげないと!」という気持ちでいっぱいになる。困ったときには「よし、自分を治してやる!」「よし、他人を治してやる!」と思わずにいられない。それが人情というものではないか。

しかし人情で治れば苦労はない。善意のこり固まりから、無為の姿勢へと抜け出していくのは、至難のワザ。
「奇跡のりんご」で知られる木村秋則さんは、「りんごは『つくる』ものではない」と主張する。同様に、「からだは『治す』ものではない」とわかってくるのには、体に向かう時間と、相応の経験とが必要なのではなかろうか。
「治そう」という意識を追い払う前に、自分の中に、そのような意識があるということに気づくのがまた、むずかしい。さらに、「治そうと思わないほうが、治る」という意識を追い払うのもまた、むずかしいのである。
「体を私たち人間の手で何とかしよう」という意識を芽生えさせる、もともとの意識というのは、どこらへんにあるのだろうか。
「テクノロジー(科学技術)で治しましょう」が主流の時代には、自然のはたらき、生命のはたらきという面が死角となっている。自然は人間の意識を超えた存在であるが、科学も医学も自然ではない。あくまで人工である。人間が意識的に収集したデータをもとに、読み取りと解釈を行う中から生まれるものであり、技術は人間の明確な意図から生じている。

操体法の著書には、「自然法則」という言葉が必ず見られるはずだ。自然法則への理解こそが、「治しましょう」などという浅はかな下心を打ち砕く、有効な処方箋ではないのか。私にはそう思われてならないのである。
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器用と不器用のちがい-動きのちがいは体の固さのちがい-
2013/02/13(Wed)
1ミリのずれでも感じ取る神経のはたらき。自分のペースを持つ、ノリのある動きは、やってる本人も楽しいし、見ているだけでも心地よい。
「体の動き」「体のコントロール」が器用と不器用とを分かつ。体の動きがよいかわるいか。たったそれだけの違いである。

子供の頃、「ホレ肩の力ぬきなさい」と言われていた。上半身に力が入り、いかにもブキッチョの姿になるのらしい。
「不器用とは要するに、体がかたいということだよ」とは師匠の言。「体がかたいということは腰が固いということなんだ」。だから「さっさと腰をゆるめろ。カンタンなことだろ?」というのである。
「三十歳を過ぎてから、そんなこと教えてもらってもねえ…」とうらめしかった。しかし最近では気持ちよいくらいに肩の力がすっと抜け、頭の中をさわやかな風が通り抜けるような感覚を、山歩きや座禅をしているときに感じる。背すじがしゃんとして骨盤の角度が決まってくる。坐骨とか、背骨のねっこあたりとかで、重力の向きを感じ取り、バランスをとってくれているのが、よくわかる。

下半身の充実と、上半身の軽やかさ。「うん、これでいいんじゃないかな」という実感が、ある。
体のゆがみをなくしていき、体がととのってゆけば、おのずと感覚はととのい、育ってくる。
体をゆがませたまま、ととのわないままの感覚で、何ごとかに取り組もうというのは、ずいぶん厳しいことになりはしないかと、今なら思う。
「操体法で体をととのえてゆくと、武芸だろうと音楽だろうと、何でものみこみのよい体になるのだから、操体法はすべての基本となる」というような記述が橋本敬三医師の原稿には遺されている。
「操法の、ごくシンプルな動き一つ一つの中に、すべての要素が入れてある。それが操体法なのだ」とは師匠の言。
「ほ~ん。そんなもんですかのう」くらいにしかわからない月日を長く経て、今ようやっと、納得がいく。のみこみの早い人というのは、一言の教えを聞けば「ああ!あのことだな!」と、頭からつま先まで納得の火花がバリバリ走ってゆくのだろうが、こっちはいかんせん昼行灯。とりあえずわかるところまできたということが、私には何よりだ。これからもいろいろと剥がれ落ちるうろこもあることだろうから、期待している。
「おい、これでいいらしいぞ。遠慮なくどんどんとやれ」と蝸牛の歩みにはっぱをかけている。
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年を重ねながら若返る感じ-子供のころのピュアな感覚が息を吹き返す-
2013/02/09(Sat)
各自、自分の体に向き合う体験を積み重ねながら身につけるのが一番ウソがない。
「あれは、ああいう時にいいね」「これは、こういう時に役立つよ」「あっほんと!これはいいよねえ」などと互いに情報交換しながら身につけていく。

自分が心の中で描いていた風景が、講習で展開される。体のことを話し合える場が、ささやかながら、できているのが夢のようだ。一年、二年、三年と参加を続けるうちに、みんなずいぶんたくましくなっていく。
こういう集まりの中で過ごすことが、私の夢であり理想だったのではないか。
大切に、大切に、見守っていきたいと思う。

操体法の愛好家が一人でも増えてくれることは心強い。
自分のようになんにも体のことなど関心を持たなかったのが、操体法の体の動きをおぼえるにつれ、驚きの体験を重ねていって、「からだって、すごいなあ~」「自分の体も、まだまだわからないことばかりだなあ~」とウキウキ感動し、生き返ってくる。感覚がよみがえってくる、年を重ねて若返ってくるっていう感じになってもらうのが、私は何よりもうれしい。
難しいリクツはあとでついてくる。それよりも、息を吹き返した感じ、よみがえる感じ。子供のころの、真新しいピュアな感覚が自分の中から取り戻されてくる感じ。それを体感してもらうだけで、いい。

今年八十歳になる母は、私のたのもしい同志である。操体法歴は私より長く、足掛け24年になる。「ほとんど休まず毎週通った」と胸を張り、腰も曲がってない、内臓にもわるいところはない。何でも好きなものを食べ、五階から地上まで、毎日階段を行き来してヒザも痛くなく、ふつうに暮らしている。見かけが、六十代の終わりごろから変わらないのは大したものだ。家で外で、これまでに何度も転倒したのに、不思議に痛い目にあうことなく過ぎている。師匠によると、操体法を続ければおのずと受け身ができてくるのらしい。半信半疑であるが、母はいつもすんでのところで危険を免れている。見ていて可笑しくなるくらいだ。

操体法は私にとって何物にも代えがたい宝ものであるが、その宝がどのくらいの威力を持つものなのかは、私自身が一生かかって体験してわかるのが一番ウソがない。各自で時間と手間をかけて発掘していって、ほんもののお宝を自分で掘り当てるのが、一番ほんとうのことだ。私がスッカリ忘れた頃にでも、「操体法のおかげで、こんなものが見つかりましたよ」と報告でももらえたら、と願わないことなきにしもあらずだが、本人にわかれば、それでいい。それだけでいいのだと思う。

※2月の公開講習(予約不要)の日程は、土曜日が16日と23日、水曜日が13日と20日です。他の日は予約となります。
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二百円のキャベツと二百円の花。どちらを選ぼうか。
2013/02/08(Fri)
キャベツ売場のキャベツの重さは一個1~2キロ。花屋さんの花1本の重さは、種類にもよるが20本30本束ねてやっとキャベツに届くか届かないかである。
それでいて価格はキャベツ1個と花1本がほぼ同じ。
キャベツは重いし、食べられもする。長持ちするのもキャベツである。
「なぜ花のほうが高価なのか」
「なぜ高い代金を払って、食べられもしない花を買う人がいるのか」
そんなことを子供の頃に考えていた。
もちろん代金とは、キャベツそのもの、花そのものの価格ではない。自然の植物に値段はない。労働という人間の手間が多くかかるものは高く、手間のかからないものは安い。また、人々の欲求に対して不足しがちなものは高くなる。役に立つとか立たないとか、そういうことと価格とは、直接は関係がない。

生産の方面から眺めて見れば、キャベツ栽培が重労働になりがちなのに対し、花の栽培は比較的軽い作業になる。運送費用も異なる。キャベツがキャベツになるまでの期間と、花をつけるようになるまでの期間は、どうちがうのだろうか。土や気候のこと。育てやすさ育てにくさ。収穫後の保存性はどうか。人気があって売れるかどうか。
作り手にならないと考えないことのほうが、山ほどある。

消費者とは結局のところ、「安くてよいもの」が目の前に現れることを願う、他力本願の姿勢にならざるをえない。「消費者の高い意識」とか、「ものを考える消費者」とか、言葉では何とでもいえるが、「消費者」という役割をつとめるときには、あくまで自分中心に、自分の気持ちに、自分の都合に、フォーカスさせられる。
「生産者」や「販売者」の役をつとめるときには、どんな自己中心の人間でも、社会の都合、自然界の都合を考えずに済ませることなど、まず不可能だ。

効率よく大量生産できる技術を持つ社会では、生産に関わることがどんどん減少し、生活の中に消費の割合がどんどん増えていく計算だ。生産に関わる人でさえも、関われる部分がどんどん削られていって、何がどうなっているのか、わけがわからなくなる。
全体を見ることがなくなっていって、部分に集中する。部分しか見ないで済む生活に追いやられていく。

生産の縮小と消費の拡大で、自己中心型人間がつくられてゆく構造が、進みすぎた分業社会にはあるのかもしれない。針と糸をほとんど持つことのない、手。土をいじることもない、手。ペンを握って文字を書くこともない、手。
手も足も使わない生活のことが、便利でけっこうな生活といわれるが、人間の発達というのは、動かすべき「手」を獲得し、それに伴って頭脳が発達してきたともいわれる。頭脳はじゅうぶん発達したので、あとはもう手も足も使わないで大丈夫なのですということなんだろうか。体を使わないぶん、それだけ頭のほうも劣化していくということにはならないのだろうか。

人の生活にはもちろん、キャベツも花束も必要なのだが、買うとき、贈るとき、つくるとき、ずしりと重いキャベツと、頼りなげな一本の花との、どちらかを選んでいる自分自身のことを、考えてみたりも、する。
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穴を掘る手・目盛りをよむ目の持ち主は話がおもしろい
2013/02/05(Tue)
山の土の表面の温度を確かめたら、次は穴を掘って50センチ深さの土の温度を確かめる。
畑でも同じように調べる。すると「こんなにも結果がちがう。自分で比べてごらんなさい」とその人は語りかけてくる。生きた土と破壊され死んでゆく土とを見分ける方法の一つであることを発見した人類最初の人である。

土の表面と、日の当らない、深い土の中では、環境がちがう。だいたい何度くらいのちがいだと思うか? 表面の土が20度のとき、深い土の中は10度だろうか、15度だろうか、それとも、ほとんど変わらない20度前後かと、何度も何度も、たずねかけてくる。
自分で穴を掘り、目盛りをよむ。たったそれだけのことが、決定的で、革命的なことなんだと告げるために、その人は国中を駆けずり回っている。
DVDに収録されたその講演会は、立派な広い体育館が会場で、学校の全校生徒と教員と、校長先生の目の前で、彼はこう言い切った。「この広い体育館がこの世界とすると、教科書は針の穴ほどのこともない。自分の手を動かして、自分の目で、見てください」

山を歩いて十年以上になるが、土の温度など考えたこともない。恐らくエベレスト登頂を果たした人々も、山の土の温度を知ることなど一生ないだろう。
「山を知るために登っているんじゃないんだから、いいじゃないか」と開き直ることもできるが、何千何万回と足を運んでいると、知らないくせにわかったふうになってしまうものである。そして周囲も、「あの人は山のプロだからたいていわかっている」と思いこんで、そのように見てしまうものである。
しかしひとたび穴を掘った手を持つ人は違う。地面に刺した温度計の目盛りをじっさいによんだ目を持つ人はちがうなあと、つくづく感じるわけで、そんなことをした人間は、いまだかつて一人もいなかったというのがまた、どれだけすごいことか、しれない。

心臓や脳のむずかしい外科手術を何千何万回行ったとしてもやはり、人間の生きた体のことを知ることにはならず、ましてや生命のことを理解することにもならないということを、私たちは頭でわかっているつもりなのかもしれない。生きた動物や人間の体を何万何十万回と検査機器にかけても、何十万何百万回とじょうずに切り刻んでも、そのやり方では永遠に知ることのできないことも、ある。むしろ、そのようなやり方では遠ざかってしまうことのほうが大きいかもしれない。ましてや人生のことなどは。

学校の教室では教科書を熟知した者だけが優秀で、国家試験をパスもできるだろう。しかし、それは自然界の事実を前にすれば針の穴ほどのことかもしれない。自分の手で穴を掘り、自分の目で温度計の目盛りをよむということが、どれだけ大きな発見の喜びをもたらすか、しれない。
「自分の手。自分の目。きちんと動かして使っているか」という問いかけが私の中で続いている。
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加減を知らない努力は墓穴を掘る―足るを知らないこころ―
2013/02/03(Sun)
努力は両刃の刃。やりすぎは、やらないほうがましだったというトラブルを招くことも多い。それに気づいた人が「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」と言い始め、「確かにそうだな」と語り継がれてきた言葉なのだろう。

やらないほうがよいような努力をして、やらなければならない努力をしていない。そう感じることはしょっちゅうだ。操体法であれだけ「六割主義」と言われているのに、気づくと安易にものごとを通したがる。そこを立ち止まって考える努力をする。判断を試し、感覚を研く。それが「六割主義」なのだと思う。

ムチウチで歩けなくなったことから、加減を知るということに努力せざるを得なくなった。
山歩きから戻って車から降り立った瞬間が、一つの目安になる。
足首やヒザがいうことをきかず、体が重くてよたよたしたら、明らかにやりすぎだ。
地面に足が着いたとたん、「うわ、軽い!」。気持ちより先に歩が進む。足が消えてなくなっているのではないか。そう感じるくらいが成功である。
事故にあう前の、体調がベストの時期の自分は、下山後によれよれになった体を嬉しがるところがあった。翌日は全身疲れてぼーっとしている状態だから、六割主義どころか、百パーセント二百パーセント主義の感覚といえようが、それでも自分では「六割主義」を通したつもりだった。

「足るを知る」というのは賢人の智恵だ。「六割主義」は「足るを知る」がなければ実行できるものではない。じっさいは非常に微妙な加減が要求される技術だと思う。もちろん山歩きだけでなく、あらゆる面において「足るを知る」ことは賢者への道だ。その道のりは果てしなく遠いが、苦しくはない。「自然」を追求し、ラクを追求し続ければ、おのずと道は「足るを知る」のほうへ向かっている。そのように思う。
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国家主導の健康ランド。うれしたのしの管理社会。
2013/02/01(Fri)
先進国の死因はどこも似たようなものになるという。食生活の乱れがひどくなり、体を動かすことは減ってゆく。三大疾患とよばれる病気が多いのも、豊かさの象徴、長生きの象徴といえる。

公衆衛生の教科書によると、「感染症は撲滅したが、今度は生活習慣病だ! 国民一丸となって生活習慣病予防にまい進しよう!」というノリである。敗戦直後の時期に死因第一位だった結核と同等に生活習慣病をあつかいかねない勢いだ。
胃がんは減ってきたが、大腸がんと乳がんが増えている。脳卒中は減ったが、糖尿病が増えている。そんな記述を読んでいると、結局はどこかが減ってどこかが増えるだけの話だとわかる。

死ぬ人間が増えているという話ではない。死なない人間が増えてきたという話だ。老化に伴って出てくる不調を病気と指定してゆけば、病気の数はいくらでも増やせる。長生きすれば当然かかる病気が三大疾患であり、生活習慣病と指定されている病気だともいえる。
それをどう予防したいのか。予防して、どうなれば国は満足するのか。
生活習慣病に対する行政の姿勢がエスカレートする中で、乳幼児も生活習慣病予防対策や健康管理をしようという動きもある。いや、生れてからではもう遅い、などというものまで出てくる始末。
死ぬ人間の数は、生れた人間の数と同じ。その内訳けをどうしようかという話に、国家の予算が増やされていく。老化を病気とするならば、死因の内訳は動きっこない。この健康戦争は最初から負けと決まっているのではないか。

ふつうは公衆衛生の教科書など開かないだろうが、保健に関連した資格には公衆衛生の単位が必要で、行政の定めた健康観と健康管理システムを暗記させられる。具体的には「健康診査」「ワクチン」、そして「生活習慣病対策」である。
生活習慣病対策には、定期的な健康診査と指導のみならず、日常生活における人間の行動を変容させる論理と手法、行動科学も含まれるのだから少々穏やかではない。
暗記するうちに、「国民の健康管理は国が主導する。健康管理は公的に展開するものなんだ」と考えるほうが頭に入ってくることがわかる。国民の体は国が管理する。そんな健康観で暗記すれば、テストもラクなのだ。

国家主導の健康ランド。うれしたのしの管理社会。そんな考え方もあるだろう。しかしこの健康ランド、ほんとに大丈夫? 教科書の記述はあちこち矛盾だらけだ。いま、三つの病気が日本人の死をもたらしているという一方、1958年から今日まで55年にわたり、ずっとそうだったという記述も見つかる。国はあらゆる対策をしてきたが、発症の数は増える一方。医療・健康関連予算は国の財布をたいへん圧迫しているともいう。
要するに55年かけて失敗続きで、お金もたくさん使ってきた。それをこれからも盛大に進めていきますというのを、暗記する。暗記しながら「根本的におかしいんじゃないのか?」と思うのは私だけだろうか。

生れる前から検査検査で、検査を受け続けて一生を送れば、人の不老長寿は実現されるというのだろうか? 医療費は国家予算を圧迫している。国家的な課題だと教科書には書いてあるが、検査が増えれば当然ながら医療費も増える。ほんとうにこんなことで大丈夫なのだろうか。
不老長寿は東洋の十八番。東洋医学の伝統的な記述のほうが、よほどまともなことを言っている。そのように思われてならない。
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