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プールは泳げても川は泳げない。海も役に立たない-心の体力を維持・増進する-
2013/01/06(Sun)
人がラクな生活を願うのは、望まぬ仕事に囲まれていたら心がきゅうきゅうとして苦しいからだ。どんな仕事にも心が苦しまないならばラクもきついもない。痛くもかゆくもないから何だって平気だろう。
無重力空間でどれだけトレーニングに励んでも、地球に戻った宇宙飛行士は立つこともできない。無重力にいる限り地球の重力に耐えられる筋力を維持することはできないのである。機械に頼り、便利な生活を享受する生活空間は、無重力めいた空間を思わせるのに十分だ。

泳げるようになるには冷たい水に入るしかない。波風をしのぎながら泳ぐ能力を身につける。おぼれたりもするが、すぐに死ぬということはない。
永平寺の雲水教育で一年を過ごした体験期『食う寝る坐る-永平寺修行体験記-』を開くたび、がんじがらめの生活の中で、人はどうやって心の自由を保てるか、考えずにはいられない。
朝三時四時の起床から夜までスケジュールは分刻み。箸の上げ下ろしからトイレで用を足すところまで全てにこまかく作法がある。夜間の寝方にまで自由が許されない。「地獄に来てしまった」とこの筆者は述べている。一つ一つの手順を一度でおぼえ、正確に実行しなければビンタがとんでくる。引きずりまわされ殴られ、怒鳴られる。まさに軍隊式の印象だが全員志願兵。各々の事情はあろうが「やめます」と一言いえばすぐにやめられる。

作法は行動をしばるが心までしばってはいない。行動が極端に不自由な生活の中で、最低限の正気を保つ。いや願わくば、規則の荒波にもまれながら涼しい顔のまま、心の自由を最大限に確保する。その訓練の場としての永平寺ともいえるかもしれない。
まさに「心頭滅すれば火もまた涼し」だ。もちろん容易なことではなかろうが、陸で眺めているのではわかりっこない。背負った荷物をいったん下ろし、服を脱いで川の流れ、海のうねりに飛び込めば、誰だって生か死かのところで無我夢中になるしかない。無我夢中というのは迷いがゆるされず、余計な考え事のできないピュアな境地のことをいう。悩み苦しみにいちいち構ってなんかいられないことを、いう。

永平寺体験がすごいとか、体験者を英雄視するとか、そういうこととは違う。
こんな一年を正気で耐えられるのか、読んでいてハラハラするが、逃亡や病院に運ばれる者は年に一、二件。あとは全員無事に終了する。人間はこんなに強い。その強さに希望の光を見る気持ちである。
楽ちん生活で泳いでいるばかりでは、海や川に放り込まれたとたんアップアップだ。筋力を弱らせるばかりか心の手足まで弱らせれば、世界全体ではほぼ頂点に近い生活条件のはずの中で、相対的に苦しみ続けなくてはならない計算である。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」。朝から晩まで拘束され、働きづめ。そんな生活条件がよいとはこれっぽっちも思わない。しかしそんな条件の中で、がまん不要、忍耐不要、何ともなく平気という以上に最強なこともなかろうと思う次第である。
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