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自由が行き詰まる-自由のセンスを研き続ける-
2013/01/30(Wed)
絵は自由なもので、やり方に決まりはないという。操体法も本来は、やり方などないのだろう。しかし「自由にやれ」と言われても、すでに人は自由ではない。いろんなとらわれがあって、自由が自由にならなくて、行き詰まる。だから「やり方に決まりはない」という前提で教えてもらったり、教えたりしてしまう。

あくまで最終目標は、さまざまなとらわれから解放され、自由になることだと私は思う。無心に筆を運んで絵の具を塗りつけたキャンバスが、人の感動を呼び起こすという以上のことがあろうか。無心に体の調整をした結果が喜ばしいものであったなら、それ以上のことはないわけだと思う。

東洋的アプローチでは心臓がわるいから心臓を直接あつかうということは基本的にやらない。ヒザがどうかあるからといって、ヒザに限定したアプローチは基本的にはやらない。
体の中で心臓だけ悪くなったり、ヒザだけがおかしくなったりするとは考えない。
すべては関係性であり、バランスであり、たとえば木・火・土・金・水、5つの要素のバランスをととのえることが体をととのえることであったりする。

木は火の働きを助け、火は土の働きを助け、となりあうもの同士が互いに強めあうという関係。一つ抜けても成り立たない。5つで一つ。そういう関係である。
この陰陽五行に臓器の働きを木=肝臓、火=心臓、といったようにあてはめ、火の働きが弱まると木の働きを補い、土の働きが弱いと火の働きを補い、全体のバランスをよくしようとする。もしくは火の働きが強すぎると木の働きを弱め、土の働きが強すぎると火の働きを弱め、全体のバランスをととのえようとする。バランスがととのってきたら、臓器みんな、どの部分のみんなにも都合がよい。みんなひとりひとりに都合がよいというのが全体としても都合がよいという方針。

一枚の画用紙に、気になる部分だけ集中して描いたり消したりしていると、紙の一部が傷むだけでなく、全体画面として一つの絵にならない。絵の描き方に決まりはないが、最初に注意されることは、まずは全体のバランスに気を配れということである。バランスに気を配れたら、案外と急に上達したように感じる。どこで何が起こっているか、何となくわかるのである。
体をゆるめることを少しおぼえてくると、手当たりしだいに、ゆるめたいと思うところをゆるめたりする。特に「ここが痛い」という症状にとらわれたり、「ここをこうしてくれ」と頼まれたりすれば、意識は部分に走る。そうやって部分にこだわるため、全体のバランスがととのわず、思うような成果が出ない。心臓がわるければ心臓を調べるのが当たり前と思うのは、東洋のアプローチから断絶されているからかもしれない。心身ともにずいぶん西洋化が進んでいるともいえるかもしれない。

絵のことでも体のことでも、何よりバランス感覚をだいじにしたい。
バランスのセンスがしっかりしてくると、いろんなことに実感が持てる。うまくいったか、うまくいってないのか、わかるようになり、おのずと核心に近づいていくようになる。どんなやり方をしたって、「よし」という全身の実感が持てれば進んでいける。
「わかるようになりたい」。そう思ったら、せっせと自分自身の骨格のゆがみをととのえてゆくことである。ゆがんだ体には偏った神経作用と偏った感覚が宿り、まったく不自由である。体のゆがみを減らすことで徐々に感覚も解放され、しっかりしてくる。どんな練習よりも、自分のバランスセンスを研くことが自分の役に立つ。自分自身が生きて経験を積み重ねることが、バランス感覚の一番の鍛錬となるというのだから、ありがたいことである。
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この世という線引きの中での生活か。それともこの世とあの世に線引きしない世界に身を置く生活か。
2013/01/27(Sun)
土産にもらった好物の饅頭を「どうせ糞になる」と、みんなの目の前で便所に捨ててみせた男がいる。文豪に名を連ねた昔の人だが名前が思い出せない。

その行為は愚かだったろうか。それとも何らかの意味があったのだろうか。ときどき思い返す。
「ああムダじゃムダじゃ。何もかも一切がムダじゃ」とつぶやきながら毎日を過ごすキャラクターが、ムーミンのアニメにあったが「どうせ死ぬのだから生きるのは無駄」なんて言ったらもちろん罰当たりなのだが、それでも正面切って「無駄だ」と言い切られたら、どう切り返せるのか。
リクツでは何とでも言えようが、「みんな最後は死ぬ。この世に終わりもくる。だから生きている間くらい何をどうしようとみんな勝手でいいじゃないか。迷惑かけなきゃいいんだろう?」と、たとえば自分の子供に食ってかかられたりしたら、たじろがずにいられるだろうか。

「死は終わりではない。死ぬからといって何をどうでも勝手にすると、いつとはいえないが恐らく困るときが必ずくる」という考え方もある。また、「体験だけは死んでも持っていける」という考え方もある。死んだら何もかも終わりではなくて、体験だけはついていくという。
いずれにせよほんとうのことはわからない。しかし今の生(今生)に限りがあるのは確かなことで、どんな境遇に陥っても、あらゆることを貴重な体験とするのが一番無駄にならない生き方のようにも思われる。何をどう体験するかが重要であって、体験こそ全てだともいえる。今生の終わり=死もまた大切な体験の一つ。最初から最後まで一つ一つをていねいに、じゅうぶんに、味わいたいものだ。

「この世が全て」なら「金と地位が全て」とかいう唯物主義への道に陥りやすいが、金と地位の通用する世界がむしろごく限られた特殊な世界だとしたら、価値観は多様化せざるを得ない。
死を終わりにして、この世とおさらばするときに何もかも逃げ切れるとするのか。
それとも死で終わりとはせず、この世とあの世を線引きしないで、広げたままの世界観の中に自分の身を置くか。それこそ各人勝手に決めてよいことなのだ。今の科学の範囲を超えた問題であるし、遠慮なく自由にさせてもらってよいと私は思う。
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自分の中に残るもの-足を運ばない理由がもう見つからない-
2013/01/25(Fri)
週一度足を運べば月4回。年間でおよそ48回。それが21年でなんと千回を越える。
数えたのは初めてだが「チリも積もれば」で千回越え。「もう来るな」と言われることもなく、よくぞみていただけたと思う。
施術に足を運んだ自分の中に、しっかりと残されたもの。その存在の確かさに気づく昨今だ。
時間と手間とお金をかけて千回足を運んで身につくものもある。これに替わるだけの体験をほかに持ちあわせていない。私も時間と手間をかけたが、師匠にもまた同じだけの時間と手間をかけていただいた。お互いにもう二度と再現できない時間の積み重なりが、今の自分の掛け値なしの財産だ。自分の感覚をもっともっと尊重し、研かなければと思う。

研究会が月一回。年間11回である。すでに300回以上になる計算だが、私は六年ほど前から真面目に出席している。
通い続けなければ消えてしまうもの、見失いそうになるものが、ある。通うたびに発見や気づきがあり、心を新たにする。参加も不参加も自由であるが、ここに足を運ばない理由がなかなか見いだせなくなってきた。そんな場所を持てる自分はほんとうに幸せ者である。
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何をどうしたら治るのか-何をどうしたらそうなったかを読み解く-
2013/01/22(Tue)
あらゆる病気や症状、ありとあらゆる悩み・苦しみが、その人の持つ先天性の理由と後天性の理由とで成り立つ。いちおうはそう考えてみる。
ほんとうは一人の人間だから「ここからここまでは生まれつきの傾向のせい」「ここからここまでは生活環境のせい」「そしてそこから先のほうは自分の生活行動による」と分けるわけにもいかない。
生まれつきの傾向と環境とを背景に持たない生活行動など一つたりとて、ない。生まれつきそういう食べ方になりやすい傾向があり、生まれつきそういう呼吸になりがちな構造を持ち、偏った体の使いかたを誘う骨組みをして、生まれつきそのような心の傾向をもっていたがため、知らず知らず追い込まれたり、知らず知らずのうちにうまくいったりする。その傾向は進化の過程だとか、ご先祖さまが積み重ねてきたものだとか、長い長い年月でつくられてきたものもある。そのようなことを人間の意志と努力でねじふせようったって、そうカンタンにいくものだろうかと、いちおうは考えてみる。

生活の改善と言ったって、そのような生活行動にならざるを得ないその人の環境というものがある。誰だってそのようになっちゃうだろうというような生活環境(人間関係、経済、社会・文化・時代、気象・気候など広く含む)で、そのようになってしまう面もある。
生まれつきのせい・環境のせいで、悩み・苦しみが発生し、いろんな症状や病気が発生している。そう言えないこともない。しつこい肩こりを長く患う人が、生まれつきそのようになりやすい傾向を持ち、そのようになりやすい生活環境があって肩こりをわずらっているとしたら、それは当然の成り行きのもたらした結果というほかはない。
そのような目で周りを観察していると、なるほどと思うことも見えてくる。人にはそれぞれ生きていくことに関する事情が諸々にあって、本人の意志と努力ではねじふせようのない、変えようのないこともあり、頭痛一つ腰痛一つを治そうといっても、ケースごとに考慮せねばならないことがいろいろある。

これは極端な運命論めいている。それならいっそ何が起きても「まあ運命なんだから」と全てを笑って済ませるほうが、ひょっとしてどんな高度な医療技術よりも人間にとって好ましい治療法になるのかもしれない。しかしよほどの人間でない限り、少々もがいたり少々の悪あがきはやめようったってやめられない。そうまで達観できないから悩み苦しむのだから、少々の努力くらいはやってみて、一時的であれ少々の成果を得ていると考えもして気をまぎらすほうがまし。そのように思われることも、ある。

「中途ハンパじゃ通用しない」師匠からそんな言葉をいただくことがある。
操体法は自力療法だ。自分に具わった力を見出し、具わった力がどこまで通用するか挑戦していくにはたいへん頼りになる杖である。少なくとも私はそう思っている。人間の意志や努力を駆使して、何をどうすれば治りそうかを考えることは当然だいじである。しかし一人の人間の発する症状を、丸薬一粒で解決しようという安易に流れる昨今の風潮である。様式化・形式化した一つの治療を受けて一発解決をもくろむ安直にとらわれがちな文化的風潮である。
テレビ番組では健康問題をものすごく取り上げているけれど、どれも同じことしか言っていない。「この場合にはこうすれば一発できく」。そういう単純思考をいつの間にか持たされる。どんなケースも一発解決のマニュアルがあると前提し、自分自身の内部から聞こえてくる真実の声に耳を傾ける姿勢から遠ざかっていかざるをえないような文化的・時代的環境が用意され、強化されているのではないかと思わざるをえない。

安易・安直にとらわれた拍子に、ひょいと操体法に走り込んだ二十一年前の自分。ついつい安直にとらわれる自分の日常を繰り返し反省する。考えさせられることは少なくない。
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身体を読み解くイメージ-現代の内丹法-
2013/01/20(Sun)
金も名誉も地位もこれ以上は望めない皇帝たちが最後に望むもの。それが不老長寿である。
不老長寿の薬を「丹」という。外丹法とは薬物による延命術。植物や鉱物などから薬をつくり、服用するなどして外から補うやり方である。
唐の時代の人々は外丹法に限界を感じたらしい。薬物をつくるにはお金もかかるし副作用もある。「延命をはかる方法で体を傷めつける」というのでは何をやっているのだかわからなくなる。
「究極の自然薬は我々の体の中にある」ということに昔の人は気がついていた。
自分たちの体でつくられる薬には副作用がなく、もっとも確実で信頼がおける。しかも無料とくればまことに結構。
内丹法とは文字通り、自分の体の内側でつくられる物質=不老長寿の薬を最大限に活用しようというものである。不老長寿の薬を練り上げる製造所は体にある。生活の中で体をつくってゆけば不老長寿薬の製造工場がおのずと手に入る。かんたんな話だ。
仙人の肌は処女のような肌だという。老体とはこわばりひからびた体であり、筋骨が縮こまって伸びない。動きがわるい。その真逆にあるのが嬰児や女性などの柔軟性を持つ体である。生命エネルギーに満ち溢れた柔軟性を持つ体は気のめぐり、血のめぐり、水のめぐりのよい体。そういう体づくりを目指しましょうということで、呼吸法を用いた体の動きが研究されていった。

というようなことを読んでいる。外丹法から内丹法への意識の切り替えは唐代とあるから7世紀ごろの中国の話と思われるけれども、そして今は21世紀で千四百年も前の話なのだけれども、ほぼ自分の考える操体法のイメージと重なる。というか、そのものじゃないのかと思う。「温故知新」の言葉の意味が切実である。

「肉を食する者は勇敢だが猛々しい。しかし気を食する者は心が澄んで寿である。穀物を食する者は聡明であるが早めに死ぬ。食べない者は、不死にして神(しん)である。呼吸にまかせて気のわずらいがない。言い伝えによると、あれやこれやと雑食する者は、百病妖邪の集まるところであり、食をいよいよ少なくすれば、心はどんどんと解放され、寿命がどんどん増すのである。食するところ多ければ、心がどんどんと塞がって、寿命がそこなわれる」「元気を食する者は、地面に埋められることもなく、天も命を奪うことができず…」

これらの記述はマクロビオティックをはじめとする食養のイメージに重なる。
「人は穀物や肉類を食べて100歳の寿命を保っているが、逆にいうと、穀物や肉類を食べているからたかだか100歳までしか生きられないのだし、病気にもかかるのではないか」という養生法の発想も古い文献にすでに見られる。
現代は目新しいものにあふれているように見えるけれども、どこから引っ張り出してきたのかというと古典なのだろう。古い書庫の中、虫食いだらけの文献から小出しに出してきて、現代風の味つけをしただけのものも多いのではないか。

古い文献や記録から何が得られるのか。
「知識のない古い人たちの書いたものなんだから、ほとんどデタラメですよ」という話を聞いた。「どこの馬の骨が書いたかわからないような記録も多い。読むに値しない」「勝手な思い込みで書かれたものも多いから、あんなもん役に立たない」といった不信感は、現代医学を信奉する専門家から直接聞いた。
東洋医学が現場にそぐわず、有効性を否定されていった結果、現代医学がさかんになったというなら話は早いが、事実は上からの強制である。明治政府が漢方医の廃止を宣言し、西洋医学の導入のために医師の国家資格制度を立ち上げた。日本内外で広く一般的であった東洋医学が強硬に排斥されたのは歴史的な事実で、中国でも国策による禁止と暴力的な排除という動きがあったのである。その理由はともかくとして、それでも東洋医学を守ろうという人間がいたから今日も絶滅せずに一部が残っている。そのことに私は注目したい。そして何より、自分自身の数十年来の体験が、私自身にとっての決定的な説得力を持っている。

古典文献を読みあさるだけでは恐らく役には立たないだろう。幸いにも私はその方面の専門ではないのだから、素人らしく好きに読み進め、生命の歴史を積み重ねてきた自分の身体を読み解いていきたいと思う。
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危機に際して役に立つこと-一番だいじなことは一生ものである-
2013/01/18(Fri)
基礎というのはバカにされる。とくに初心者は「先に行きたい」という気持ちが強くて基礎・基本というのは嫌がる。そしていつか進めなくなると「もうやめる」か「基礎に立ち返る」か、それとも「足ぶみ状態でもかまわず続ける」か、三つの選択肢が残される。

基礎を宝のようにだいじにする人々もいる。感覚が狂ったとき、迷いが生じたときは、自分がどうなっているのか自分でもわからなくなっている。わからなくなっている自分を知り、判断を下す手がかりとして役に立つものがあったとしたならば、それこそが基礎・基本である。危機的状況で役に立たなければ基礎でもなんでもない。捨ててもどうでもいいものだ。

受験の生徒に死なれてからずっと、何が一番だいじなことかを考えさせられている。一年間を一緒に過ごし、「この子たちはこれでいい」などと思っていたのが、合格して半年もしないうちに黙って死んでいった。それを知った時はすでに死んでかなりの時間が過ぎていた。長い勤務のあいだに死なれたのは一人ではなく、事故死などもあった。見知らぬ他人の死とはぜんぜんちがう。死が終りとはならず、彼らの死こそが彼らとの関係の始まりといっていい。

私は彼らに何を伝えなければならなかったろう。折にふれて考える。伝えなければならないことを自分は一つでも伝えられたろうかと思いがめぐる。生徒という立場に彼らを据え、何かを伝えるのが私の仕事だった。何を伝えるかは社会のきまりで決まっていた。教科書に書いてあること。受験に出ること。それを上手に伝えられることに対して報酬が用意され、それで彼らも満足していたかのように見えた。彼らとはそういう関係だったんだから、それでいいじゃないかと思いこみたいところだが、そうもいかない。
若かった自分の、生きて過ごした時間と、彼らの生きて過ごしていた時間を合わせて、あれだけたくさん一緒に過ごして一生懸命に取り組んだのだ。それがじっさい危機的状況のときに役に立たなかったとするならば、なんと不毛な作業だったことだろう。

何度考えたって同じところに行き着いてしまう。操体法をやっている間に、私はそういうことを考えさせられていた。あるとき操体法を習いに来られた若い理学療法士の方がいた。「はじめから教科書そのものがまちがっていたとしたら」と思いつめておられる様子だった。大学で教わった、たいそう立派な理論が現場で何の役にも立たない。先輩や同僚のところに足を運んで話をすると、「まあ学校なんてそんなもんじゃない?」とあしらわれるという話だった。
大検から過激に勉強して大学に合格したら「受験で勉強したことは全部忘れてください」と入学式で言われて私はがっかりした。会社の入社式ではきっと「大学で勉強したことは全部捨ててください」と言われているのだろう。
受験勉強は義務教育のなれの果てだ。後に捨てるとわかっているもの、役に立たないとわかっていることを、小学校から国民の義務として九年間も教わるというのは一体どういうことなのか、もう今の私にはわからない。
教師は義務教育で習ったことを一生捨てない。義務教育で習ったことを捨てたくないのなら教師になると辻褄があう。教師は一生、教科書から卒業しなくてよいのだから確かに辻褄はあうのである。

生きる役に立つことをまず教わろうとするのに私は三十年もかかった。生まれて生きて三十年かかってやっと、「ああこれがほんとうに生きるのに役に立つ基本らしい」と思えるものに出会った。死なれた生徒たちにはほんとに申しわけないことしたと思っている。最初からなぜ役に立つことを教えたらいけないのだろう。それとも大人たちは子供たちに伝えるものとして教科書以上に大切なことを知らないとでもいうのだろうか。

基礎・基本というものは、大人の役に立つだけではなくて、どんな小さな子供の役にも立つものでなければならない。そしていったん習いおぼえたならば、死ぬまで一生役に立つ、宝と思えるようなものでなければ基礎・基本という名に値しない。お互いに生きて限られた時間である。まず一番だいじなこと。「何を教えようか。よし、これならばぜったいに役に立つ」。そのように厳選されてきたことが、基礎・基本ということではなかろうか。

生まれて十年や二十年は役に立たないことでも一生懸命やってろというのが世の中のしくみなのだろう。生きてるうちに役に立つことが見つかったときは身につければいい。役に立つことは自分ひとりで見つけろということ。見つからなければそれまでよ、ということか。
それならそれでもいいけれど、それならそうとハッキリ言えばいい。あれだけだらだら勉強させておいて、家庭も学校も成績のことであれだけ真剣にもめて、バカにならない額の教育費を持っていかれる。
「いやまあ世の中そんなもんですよ」とあとで言うのはだまし討ちに等しい。中には本気で「将来の役に立つ」と思い込んでいた私のような人間もいることなんだし、忘れろ捨てろと言われたからって、そんな器用にぽんぽんと捨てられるようなことなんだろうか。根本のほうでは消し難い後遺症が残る感じもするのだが。
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ノンビリの構えは最短距離で快方に向かう
2013/01/16(Wed)
ウサギのストレス実験。前足を骨折させてギプスをつけ、回復までの状況を記録する。
最初はどのウサギも骨折部分を気にしているが、しばらくすると「まあクヨクヨしたって、しょうがないわな」と、多少の痛みも不自由も気にせずに、エサを食べたり身をつくろったりしてノンビリ構える個体も出てくる。
反対に、骨折部分が気になって気になってしょうがなさそうな個体もいる。いつまでもギプスをかじったりしてエサなど見向きもしない。いつまでもいつまでも苦にするうちに心身ともに弱らせてしまう。

ノンビリのほうはストレスがないから早く快方に向かう。ノンビリは輪をかけてノンビリになり、多少の痛みがあってもスッカリ忘れてしまえるのである。
苦にするほうはストレスが大きく、回復も進まない。これではさらに悲観的にならざるをえない。そのままもつれこんで衰弱死するケースも少なくない。死ななければいつかは回復するのだろうが、苦しみに費やした時間は長く、それだけ苦しみをたくさん味わったということになる。この場合の苦しみで得られたものは何もない。生きる上での大きな損失でしかないのである。

「ああまた痛い。またしびれてる。ああまた!」「何でこうなの? なんでこうまで治らないの? ああもう困った困った」と症状をかかえるたびに苦にするのはストレスである。ストレスが、症状を持続する負のエネルギーとして働くこともあるとなれば悪循環である。自分自身を苦の境地におとしめ、「これさえなければ天下泰平だのに」と自らを追いつめてしまう。こころと体を傷めつけ、心身をそこなうのにじゅうぶんなストレスである。

「こんなに節制して、こんなに気をつかって、操体法もがんばっているのに」「ああ治らない」「まだ痛む」とグチで頭がいっぱいになることがある。少しは期待がなければ努力もない。期待もあるから努力するのであるが、努力をすれば少しは期待もする。期待はつねに現実を上回るから、結果にいちいち振り回され、期待を裏切られればストレスの害毒にもさらされる。人相はわるくなり、姿勢もわるくなる。精神衛生上たいへんよろしくない。
期待はできるだけせずに努力をしろということである。努力していることに気がつかないまま、体がいつの間にか動いて実行するということである。治るまでの間をどうやり過ごすか。そこは智恵でカバーするほかあるまい。

やるだけのことをやっているのなら、の場合に限っていえば、受付け窓口というのは時間帯が決まっているのが相場なのだ。体の調整をやっている間はどこまでもていねいにからだの訴えをきく。調整がうまく進んでいれば、あとは時間の問題である。
受付時間の終了と同時に窓口にはカーテンがかかる。痛みや症状に一日中つきあっているわけにもいかないのである。カーテンは次にいつ開くのか。「よし、今の空き時間にちょっと調整するぞ」と思えば、さっとカーテンを開く。カーテンの開け閉めは軽いほうがいい。少なくとも朝一番と夜の就寝時には窓口を開けておく。症状があろうとなかろうと、窓口のカーテンが閉ざされっぱなしというのは論外である。
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人にきけ―行儀のよい客になりきるのもつまらない―
2013/01/14(Mon)
人の話は有難い。体験者の話は実に有り難いものである。
講演や講義のあと必ず講師のもとに足を運ぶ。話し疲れた講師はすでに取り囲まれ、観念した様子だったりする。気の毒だが講義の直後だからこそ、講師の頭も口もよく回転するのだし、いろんな話も飛び出してくる。絶好のチャンスなのだ。
授業をしたことのある方ならご存知と思うが、講義というのは一種のフィクションである。
壇上で話せることは時間も限られ、きれいにまとめられてはいるが、不純物が取り除かれ、雑味のない退屈な味になりがちである。いっそ本のほうがまとまりもよく、詳しかったりもする。本にもならず、講義にもならない不純物の中にこそ、宝ものが隠れている可能性も高い。
壇から下りた人間の生の声も聞かねば、木戸銭を払った価値はほとんどない。そう私は思うのである。

じっさい壇上で話すのが得意な人ばかりではない。講義のあとの雑談や直接のやりとりの中で、ものすごい話が飛び出してきたりする。
だからたとえ講義がイマイチだったとしても、または講義が最高におもしろかったとしても、そのまま帰ってしまうのはもったいない。生きた話し手をつかまえてみて、ほんとうにつまらなかったその時にこそ、さっさとその場を去ればよい。しかしどんなにつまらない講義でも、それを補って余りあるほどの話があとになって出てくる。それが人間どうしの不思議なコラボレーションというものなのかもしれない。
「今日はあとのほうが本番だったのに、先に帰ってしまった人は気の毒だったな」と思われることもある。本に書かれてあるようなことを、ただ聞いて満足するのではもったいない。生きた人間が目の前にいるのだ。一方的に話されることを行儀よく聞いて終りというのでは、お互い何のために時間と手間をかけて集まるのだかわからない。

優等生みたいなお客さまになるのはつまらない。聴衆になりきってしまっては得られないこともたくさんある。新聞社かテレビ局の取材で出かけるつもりにでもなって下準備をしておくと、講義内容もわかりやすく、あいまいにぼかしてあるところや説明を回避してあるところなどにも気づくようになる。
そこまでやらなくても、講師を取り囲む集団の中には実によく下調べをしている人や、講師よりも詳しいことを知っている人もいる。そういう人たちとのやりとりにじっと耳をこらしていれば、釣り糸に引っかかってくる魚は案外に大きい。思っていたよりたくさんの収穫があるとわかるだろう。
講師が壇上を下りた時が終わりではない。生きた人間が目の前にいて、自分の知らない豊富な知識や体験を惜しげもなく吐き出そうというのだ。なんと有り難い、なんともったいないことではないか。

何年ものあいだ、受験勉強を独学した。参考書を開くごとに、見たことも聞いたこともない数式に頭をかかえ、何時間も格闘するクソ勉強が何年も続いたのである。ストレスばかりで不毛な独学の末、めでたく大学に入って最初の講義を受けた時の感動は今も忘れられない。体験者の生の声は、実に有難いものだと涙の出る思いをした。
しかしそんな自分も大学生活に慣れるに従って、いつでも教えてもらえるという安易な気持ちが芽生えてきた。教えてくれる人はいくらでもいる。みんないつまでもいてくれる。だから勉強なんかいつだっていいやという気持ちになっていた。
ほんの最近になって、あのころの研究者に質問したいことが出てきたりする。もう亡くなっている方もいる。
「いつでも」じゃなかったなあ。「いつまでも」じゃないよなあ。
今。「ただ今。このとき」がすべてなのだ。「あとで」「またいつか」ではなく、「ただ今このとき」のチャンスに妥協なく力を出し切りたい。そう思う。
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手探り足探りで核心に近づいてゆく―爆発の瞬間を心に描きながら日々を輝かせたい―
2013/01/12(Sat)
きれいな月面宙返り。「これなら私にもできそう」と思わせるほどの出来栄えである。成功と失敗を分かつのは100分の1秒のタイミング。着地のタイミングがずれると無様にひっくりかえる。100分の1秒の狂いを乗り越えたその着地は、かえって誰の目にも安易に映るものだ。
「あん馬」の台に両手をつき、足で歩くのと同じように手で歩く。片手で全身の重みを支え、もう片方の手を上げて一歩踏みだす。その「片手を上げて一歩」ができるには一体どのくらいかかるものだろうか。
「ぼく一年半かかりました」という元選手の答えに、私は少なからず驚いた。
片手を上げるだけのことで一年半もかかった選手。それは誰だろうと思ったら、世界の体操界の歴史に名を残す、塚原光男さんだった。

腕立て伏せのように両手を台につき、両手で体を支える。それは子供でもできることだ。
しかし左手と右手交互に体重をのせかえながら台を一回りするとなると大問題なのである。片手を上げようとしても上がらない。まったく身動きとれない。全体重を支えた腕はびくとも動かず、じいーっと台の上で固まっているだけ。
その状態からどうやってできるようになるのだろうか。
じいーっと身動きできないまま台の上で格闘する。「できない、よなあ…」と思ったり、「まあでも、いつかできるようにはなるんだろう」と思ったり、「こうすればできる、のかな」と思ったり、いろいろ思うのだろうが、とにかくやれるまで続けるしかない。一週間? 一ヶ月? それとも半年…? 台の上ですったもんだして、じっさいに自分でやってみて出てきた答えが一年半だったということだ。

電車のつり革を長くしたようなものにぶら下がり、腕で体重を支えながら回転したり逆立ちしたり宙返りしたりする「吊り輪」。吊り輪で体を支え、宙で静止するのがまた、できないものなのだそうだ。腕を開いて十字架のかたちをつくり、静止する。それができるのに、どのくらいの期間が必要なのか。
「こ~れはねぇ、二年かかったんですよ」
二年間何をしていたか。ひたすらマットに叩きつけられていた。「だって止まらないんですもん。止まろうとした瞬間にはもう落ちている」ひたすら落ち続けて二年がたったある日、「1秒だけ静止できた。この1秒が大きかった」
その次の日は2秒、そのまた次の日は5秒という感じで、日に日に静止時間が延びていったという。
「静止の1秒」。その1秒が自分にやってくるまで数日でも数十日でもない、七百数十日が過ぎても惜しくはない。ワザを身につけるというのは基本、そういうことだなあと、思わず「ううむ」とうなった。

「100分の1秒の着地のタイミングはどうするのかと訊ねられてもねぇ困ってしまうんだ。どうするって言われても、どうにもしようがないですよ。とうてい自分でコントロールなんか、できっこない」
「とにかく体にやってもらうしかないんでね」
「できる」というのは自分がやるのではない。自分でやっているようでいて、じつは「からだにやってもらうこと」なんだと聞いたとき、「ああそうか、やっぱりそういうことなんだなぁ」と納得をした。
「からだにやらせる」でもない。「自分でやる」のでもない。やってもらえるようになるまで、からだのことを研究し、からだのことを理解し、積み重ねてゆくことをやめない。自分に多すぎるのは何で、少なすぎるのは何なのか、手探り足探りで核心に近づいてゆく。核心の領域にじゅうぶんに近づいたとき、カチリと音がして爆発の瞬間に出会えるのだ。その瞬間のために人間生きているといってもいい。
その苦労を思えばバカらしくも感じる。「おいしいものでも食べてゆっくり遊べばいいのに。そんなことができるようになったからって、ねえ…そんなことできなくてもべつに生活には困らないのだし」
身につけたワザも少し怠ければできなくなる。「体調を管理しながら、やり続けるほかにない。まんぜんと繰り返しやっていてももちろんダメですよ」

一つ一つの言葉が私の耳を打つ。今、自分が「できるようになりたい」と思い、「身につけたい」と思って取り組んでいることには共通点のある話だ。
じいっとあん馬の台とにらめっこして一年半。吊り輪から落ちてマットに叩きつけられるのを二年。その姿はまさに「虚仮(こけ)の一念」。しかしただの「虚仮」ではどれだけ時間を費やしてもなかなか核心に近づくことはないだろう。
自分だってラクをしたい。遊んでいたい。しかしそれではせっかくこうして生きて機会を得ているのがもったいない。宙返りはできなくてもいいけど吊り輪もやりたいとは思わないけれど、核心の領域というところには近づきたい。爆発の瞬間を心に描きながら日々を輝かせたい。それは切実な私の願いだ。
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この地上のどこかで今も。これからも-自然界のスタンダード-
2013/01/10(Thu)
動物たちの子育ては迷いがなくて、よい。親たちが表情も変えず、よけいな言葉でリクツに頼ることもなく、行動や生きざまでひたすら示すというのも、よい。闘いや、あきらめも、何もかもがいさぎよくて天晴れと感じる。子離れ親離れの映像シーンは何度見ても飽きない。サポート校で不登校相談など長かった後遺症だろうか。
「だってあれは本能でプログラムされているんだから当たり前でしょ。ぜんぜんすごくなんか、ない」といった意見もあるが、そのプログラムが画一でないから、子育てのヘタな個体もあれば、親の鏡のような個体もある。鏡がそばにあるのだから周囲も参考にすればよさそうなものだが、ヘタはヘタなりのヘタなまま平気にやっていたりする。
もともとのプログラムも個体差があろうし、親になるまでに身につけてきた、さまざまな後天的な体験も異なっている。じっさいはプログラムどおりではない。プログラムどおりの子育てをする動物など、ないといっていい。彼らの子育てを見ていると、子育ての基準・標準などを気にしない健全さのようなものが感じられてならない。

営巣地、というのだろうか、子育ての時期にM島に集まってきて、いっせいに生み育てる。そんな鳥たちの様子が先日放映されていた。
森の斜面に掘られた巣穴の中では親と同じ大きさにまで育った子供がいる。すると母はある日出て行ったきり二度と戻らないのである。置いていかれた子は、いつものようにじっと巣穴で過ごし、そのまま二日、三日と穴の中で平然としている。飲まず食わずで四日五日と過ごすうち、親からもらった愛情のぜい肉の分がほど良く削ぎ落とされるに至り、彼らは巣穴を出る。ぐうーんと一つ伸びをして、それから羽をばたばたやってみる。一週間の絶食で身軽になった彼らの体は、もう地面からふわふわと浮きあがっている。
そのすぐそばを、あたふたと通り過ぎてゆくみなし子たちの、群れ。途方にくれたように外を眺めている子供たちも、もう穴の中でじっとなどしていられない。

ついにこの島は「子育ての島」から「親に捨てられた子供たちの島」と化し、成長しきったみなし子たちは森にあふれ、口々に「海へ!」「海へ!」と叫んでいる。巣穴に残ること、この島にとどまること。それは彼らにとっては死を意味しているのである。
海への大移動は、敵の少ない夜半に始まり、明け方まで続く。無敵の飛翔力を誇る彼らであるが、地べたに落ちれば飛び上がれず、足取りもおぼつかない。「海へ!」「海へ!」の大合唱で高い木のこずえにのぼって勢いよく飛び出したまではいいが、降り立ったところが人家や道路のまんまん中で、ぼう然としているものも少なくない。人の持ち込んだ猫の野生化したのにやられてしまうものもある。親の力でここまで大きくなれたものが、自力で羽ばたいたのはほんの数分。あっけないものだ。それでも親は、自分と同じ大きさに成長させたら旅立たねばならない。それこそがプログラムといえるだろう。あれ程けんめいに命を張って育てた子であるが、結局は、もともと備わった自然の力でなんとか生きていってもらうより仕方がない。そんな時がいつかは来る。そういうのはプログラムというよりむしろ生きものの基本、自然界のおきてといったようなものではないかと思われる。

映像画面は命からがら海へ飛び出す若鳥たちでうめつくされてゆく。明け方の空に陽が射して、くっきりとした黒い影が波をなして遠ざかってゆくシーンから目が離せない。海がめの子たちや、海鳥の子どもたちが、仲間が亡くなるすぐそばを、「海へ!」「海へ!」と一心に、海を、命を、目指す姿を、涙なしに見守ることは私にはむずかしい。いやもう思うだけで胸がいっぱいになる。私が見ようと見ていまいと、この地球上のどこかで今も、海へと飛び出してゆく若い命の営みは絶えることなく繰り広げられているにちがいない。そのような命のあり方から私は目が離せないでいる。
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「しばられたくない」という根源的な願いを忘れない-老けこまずに生きる-
2013/01/08(Tue)
そろそろガソリンが切れる。車検も切れる。車には常にこういう不便がつきまとう。科学技術が高度に進んだというのなら、ガソリンスタンドにつながれることなく、いつまでも走れる自由な車を目指すべきだと思う。
つながれるのが好きな人もいるが、私のところにはつながれるのがイヤな人も多いように思う。健康診断や予防接種につながれっぱなしの健康はイヤ。病院につながれ、専門家の意見につながれ、病気に自由を奪われるよりもむしろ二次災害のほうが大きい。
イヤというささやかな決意めいたものを秘めているというか、みなぎらせているというか、そういう感じが伝わってくる瞬間が、ある。どこの誰にでもふつうに、ちゃんとしたそういう気持ちがもともと備わっているのだとも思う。

どれにするか迷った時期もあったが、「操体法でほんとうによかった」と思うのは、操体法が自力の療法だったということである。
いろいろと便利な療法はある。しかし人に頼ったり物や道具に頼ったり、科学技術に頼ったりという現場には、もとから備わった自分の力を頼りにするということがスッポリ抜けている。専門家まかせ、物や道具まかせ、科学技術まかせの他力の療法を続けていくというのと、はだか一貫、生まれながらにして天から授かった力を一つ一つ発見しながら自力の療法を続けていくというのとでは、最終的には人間そのものにまで違いが出てくると思われてならない。
自分はずぼらだから「どこかに通い続ける」という面倒に耐えられず、物や道具も買ったままほったらかしにしてしまう。家電製品も壊れたら修理が面倒ということで、「なんにもいらない健康法」しか残らなかった。そんなまことに申しわけのない事情もあるが、操体法に目を向けて訪れる方々から「つながれたくはない」「しばられたくはない」という、人間の根源的な欲求が忘れられずにあるということが伝わってくる瞬間は感動というほかない。

管理社会といわれる水槽の中で、私たちは日常当たり前に呼吸して泳いでいる。
その水槽は温度管理や水質管理をしているのだというが、情報で操作される情報社会ともいわれている。
自分のどこをどのように管理されているか、どこか気づかないうちに、おそらくは私も影響を受けている。少なくとも、まったくその影響を免れていると言い切ることのできる人は誰一人としていまい。
それでも私たちはふと、「つながれている」「しばられている」という、何らかの違和感につつまれる瞬間がある。その違和感こそは出口のありかを導く光のようなものではないだろうか。「何だかおかしい」という違和感は、不愉快ではある。そして時には痛みをともなうことでもあるのだが、麻痺させられて気づかないよりはよっぽどいい。「おかしいよ」「おかしいよ」という警報ランプの示す先を粘り強くたどってゆくと、何が見えてくるか。私はたのしみにしている。
「つながれたくない」「しばられたくない」という根源的な願いを忘れない限り、人間はよぼよぼとふけこむこともなく、自分の心身の、生きのよい状態を維持・増進することが可能なのではなかろうか。
ガソリンのメーターのことも、ガソリン価格の上げ下げも温暖化のことも、何ら気にすることなくドライブが一日中楽しめる。そういう方向性は最強なんじゃないのかなあなどとのんきに考える昨今だ。
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プールは泳げても川は泳げない。海も役に立たない-心の体力を維持・増進する-
2013/01/06(Sun)
人がラクな生活を願うのは、望まぬ仕事に囲まれていたら心がきゅうきゅうとして苦しいからだ。どんな仕事にも心が苦しまないならばラクもきついもない。痛くもかゆくもないから何だって平気だろう。
無重力空間でどれだけトレーニングに励んでも、地球に戻った宇宙飛行士は立つこともできない。無重力にいる限り地球の重力に耐えられる筋力を維持することはできないのである。機械に頼り、便利な生活を享受する生活空間は、無重力めいた空間を思わせるのに十分だ。

泳げるようになるには冷たい水に入るしかない。波風をしのぎながら泳ぐ能力を身につける。おぼれたりもするが、すぐに死ぬということはない。
永平寺の雲水教育で一年を過ごした体験期『食う寝る坐る-永平寺修行体験記-』を開くたび、がんじがらめの生活の中で、人はどうやって心の自由を保てるか、考えずにはいられない。
朝三時四時の起床から夜までスケジュールは分刻み。箸の上げ下ろしからトイレで用を足すところまで全てにこまかく作法がある。夜間の寝方にまで自由が許されない。「地獄に来てしまった」とこの筆者は述べている。一つ一つの手順を一度でおぼえ、正確に実行しなければビンタがとんでくる。引きずりまわされ殴られ、怒鳴られる。まさに軍隊式の印象だが全員志願兵。各々の事情はあろうが「やめます」と一言いえばすぐにやめられる。

作法は行動をしばるが心までしばってはいない。行動が極端に不自由な生活の中で、最低限の正気を保つ。いや願わくば、規則の荒波にもまれながら涼しい顔のまま、心の自由を最大限に確保する。その訓練の場としての永平寺ともいえるかもしれない。
まさに「心頭滅すれば火もまた涼し」だ。もちろん容易なことではなかろうが、陸で眺めているのではわかりっこない。背負った荷物をいったん下ろし、服を脱いで川の流れ、海のうねりに飛び込めば、誰だって生か死かのところで無我夢中になるしかない。無我夢中というのは迷いがゆるされず、余計な考え事のできないピュアな境地のことをいう。悩み苦しみにいちいち構ってなんかいられないことを、いう。

永平寺体験がすごいとか、体験者を英雄視するとか、そういうこととは違う。
こんな一年を正気で耐えられるのか、読んでいてハラハラするが、逃亡や病院に運ばれる者は年に一、二件。あとは全員無事に終了する。人間はこんなに強い。その強さに希望の光を見る気持ちである。
楽ちん生活で泳いでいるばかりでは、海や川に放り込まれたとたんアップアップだ。筋力を弱らせるばかりか心の手足まで弱らせれば、世界全体ではほぼ頂点に近い生活条件のはずの中で、相対的に苦しみ続けなくてはならない計算である。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」。朝から晩まで拘束され、働きづめ。そんな生活条件がよいとはこれっぽっちも思わない。しかしそんな条件の中で、がまん不要、忍耐不要、何ともなく平気という以上に最強なこともなかろうと思う次第である。
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カラッポなのが一番元気-身も心も身軽なのが自由-
2013/01/04(Fri)
元気になると身軽になる。身軽は自由の保証だ。どこへでも、どこまでも歩んでいける。その自由が、人はうれしいし、好きなのだ。
回復して元気になった体が軽いのは疲れがなくてカラッポだからだ。
疲れ物質やら老廃物やら毒素やら、たまったものを吐き出すほうが、より身軽、より自由ということ。疲れれば体も重くなって休む。休むと軽くなって元気になる。何一つむずかしいことはない。

心も疲れたら休めばよかろうと思う。どうしたら心が休まるか。心も休みたい。心も休ませたいと思う。
現代人の生活というのは、山歩きや畑仕事のように全身をじゅうぶんに使う機会がほとんどない。過食と運動不足。とりこむエネルギーは慢性的に過剰。「出す」ということは慢性的に不足の生活スタイルである。
戸外で肉体をじゅうぶんに使ったときの疲れは爽やかだ。充足と喜びがあり、むしろ心は軽くなる。「あとは食べて寝るだけ」というシンプルな疲れは、生き物の自然に近い。健全な疲れといえるだろう。
しかし密室に閉じこもり、イスに根を生やし、長方形のスクリーンの中に目をきょろきょろ泳がして、頭を急がしく回転させるというのは人間という生き物にとって十分な運動とはいえない。
屋内ジムで運動している過食の人は、失礼な言い方になるが、生きるに十分すぎる餌を与えられたカゴの回転ぐるまの中で、いつまでも同じところを走らされているげっ歯類の姿などが想像される。

野生のネズミたちの生活と、どっちが幸せかを決めるのはもちろん各自の自由だが、戸外で十分に体を使ったときの、爽やかな疲れを味わえる生活を送るのは幸せの一つのかたちといえる。心がサッパリせず、「あとは食べて寝るだけ」というわけにもいかず、「そんなことでは解消できないほどの疲れだ」と感じるのは疲れすぎである。体はさほど疲れていないはずだのに、何故そんなに疲れを感じるのだろうか。
いったいどこがどう疲れているというのか。
こういうのをまさにストレスというのだろう。
ストレスの時代ストレスの時代とカンタンに言われるが、「密室における頭脳労働の時代」のことが、「過酷なストレスの時代」といわれている中味ではないのか。

体も資本だけど心も資本だ。心が疲れてはもはや自由がない。心が身軽で自由でなければ、息も深く体の中まで入ってこない。腰が重い、肩が痛い、頭も重いし目がチカチカしょぼしょぼする。「私たちは便利でラクな生活を送れて幸せだ」「毎日がありがたい」と素直にはいえない。口を開けばののしりや呪いが飛び出す、半健康・半病人状態の家人を見ていて、そんなことを考えずにはいられなくなる。

「『人間は動物だからね、うごく方が本当ですよ…しかしだね、本当に自主性を持って、人生の目的というものをはっきり見極めて動いておる人が、幾人あるでしょうか。たいがいが惰性で動いておるのとちがうかな。何かに引かれたり、何かに押されたり、あるいは他人のまねをしたりして、盲動しておるのと違いますかな。みなが学校へゆくからわしも行く、みなが銭もうけをするからわしもする。みなが嫁さん貰うからわしも貰う、働かないと食えんからイヤでも働く…街の中を歩いていたら、大勢が並んでおるから、何ぞ良い物が…と思って後へついて並んだら、葬式の御焼香の場だったという、笑えぬ話があるが、そんな動きならせん方がましでしょう…一度静かに坐って、よく落ち着いて、自分は一体どっちの方角へ向いて、どのように動くべきかということを、はっきり考える必要がある。それが坐禅ということである。坐禅とは坐って静かに考えることだ』…動くことは大切であるが、盲動はいかぬ。想うことは必要であるが、妄想は困る…」

本に記された文字を追ううちに、心当たりがいくらも出てくる。山の中を一人で歩いていると、歩き始めのうちは周囲の風景や音に気がつかないものだ。せっかく木々に光が降り注ぎ、鳥たちがさえずっているというのに、関係のないことで頭がいっぱい。敵も味方も不明の一人相撲。戦争状態である。これでは心も疲れてへとへとになって当然と気がつく。
あの白隠和尚でさえ坐禅している最中に「そういや隣の奥さんに三年前、黒豆三合と糠を一升貸していたっけ~」などと思い出したと書きつけているそうである。
坐禅して修行積んでいる人はきっと身も心も清らかで落ちついているだろう。そうカンタンに考えてしまうが、そんなカンタンに清まるものなら毎日ああして坐る必要もないわけで、毎日部屋のお掃除をしてないと乱雑になるのと同じように、せめて心も体もとりこんだだけのものは排泄し、日々の心身の身軽さと自由をそこなわないようにしたいものである。


※一月の集まりは9日、23日、26日が決定です。12日は天神会場。19日は希望者があれば実施します。
初めて参加の方は日時と場所の確認は freeyourself★yahoo.co.jp(★→@)まで、もしくは 080(1720)1097(山下)まで。参加費二千円。予約不要。
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思いのあるところ道はひらかれる-生きているのも立派な仕事だ-
2013/01/02(Wed)
カウントダウン的タイミングで大晦日に届いたメール。初詣に出かけたろうか何をお願いしたろうかなどと思う。
湧き水をもらいにいく神社で順番待ちをするあいだ、人々の目は壁いっぱいの絵馬に向けられる。
学問の順調。体調の順調。そして仕事の順調。ほとんどの願いがその3つに集約されるようだ。人の願いは年齢性別国籍を超え、何と普遍でシンプルなものだろうと、あらためて気づく。

あとはこの3つの優先順位がどうなるか。
気力・体力の充実が、あらゆる活動の原動力となるのはもちろんだ。学問も仕事も、体が資本であるのは間違いない。しかし一番おろそかになるのも体のほうである。
体調と仕事。それで生活がしっかり回ればいい。仕事順調のためには広い意味での「学」も必要になる。仕事が継続・発展に結びつくには研究が不可欠なのだ。「赤ちゃんは泣くのが仕事」などともいうが、仕事といっても別に会社じゃなくて、「これが自分の仕事だ」と決めればどんなことだって仕事である。「これが自分の仕事」と思って工夫研究を重ねれば、お掃除もお料理もお洗濯もずいぶんなビジネスにまで高められる。必ずしも金に結びつかなくてよいが、仕事は生きていくうえで欠かせないもの。そして真剣に取り組むもの。そう私は考える。

「如意」という言葉がある。西遊記の孫悟空が意のまま、思うがまま操る如意棒の「如意」だ。何を願ってもその通りになる。それはずい分けっこうなことであるが、肝心の「意」や「思い」のないところに「如意」もなかろうし、工夫研究も重ねられっこない。研究や工夫の根っこにあるのは好奇心。好奇心と工夫研究とが終わりのないサンドイッチをつくってゆく。決定的な最初の一枚は好奇心だ。好奇心という薄切りのパン一枚に、何か好きなものを置いたり塗ったりすると、次の好奇心がのっかってくる。するとそのまた上に何かをのせたくなる。工夫研究の進む状態というのは、たいがいそんなふうである。軽い気持ちでいろいろのせていくと、いくつかのサンドイッチが同時並行で積みあがり、どこかでつながりを持ったりもする。

好奇心は、心である。心もまたその重要性を指摘されながら体以上になおざりにされがちであるが、心が生き生きしているところには必ず好奇心があり、疲れた心には怠惰と無関心が宿る。
好奇心の旺盛なところにはサンドイッチを積み上げてゆく集中力と持続力がある。
気力は心の体力である。心は体に宿り、体調に左右されもするが、精神力というのは体の条件がそろわないにも関わらず、心の体力を維持・高揚させる不思議な力のことである。そして心の体力が体の条件さえ調えるというのもまた事実。

まず気力。まず精神力。それが体力を、仕事を、学を支える最も重要な基盤。
気力を養い、精神力を養う。
はじめてこんなことを新年の目標に掲げたわけで、我ながら殊勝なことだと思う。殊勝だとは思うが手遅れである。そう言いたいが、手遅れを言い訳にあきらめては終わりなのだから、そこはあえて返上し、「子供に戻ったつもりになってお気張りなさい」と自分で自分を励ましている。
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