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青い鳥を見る視力と青い鳥の羽音を聞きとる聴力を養う方法
2012/12/09(Sun)
手紙を書いて方々に送り、快い返事を寄こしてくれたところに出かけていた。「素晴らしい人のいる、素晴らしい世界がこの世のどこかにある」という信念が燃料となり、私のエンジンをぶいぶいふかしていたのだろう。
学生時代に旅が何度も繰り返された理由を考えてみる。それは行く先々で「これが幸福の青い鳥だ!」と感激すると同時に、「これが青い鳥だろうか?」という疑問も感じていたから何度でもあちこちに足を運んでいたのではなかろうか。さんざんに旅を繰り返した結果、「青い鳥は自分の中にいたんだなあ」とか、「青い鳥なんかどこにだってそこいらじゅうにいる」と気づくのが幸せの青い鳥のストーリーの結末で、自分自身の歩みはそこからやっと始まるのである。

いったい私はどこで「青い鳥は、いま、ここではないどこか別のところにある」という考えを身につけたのだろう。
人文系の大学生活では「ピンチョンはもう読んだ?」とか、「チョムスキーをどう思う?」など、教授や学生の会話にはやたらと外国人名が飛び交っていた。「レビストロース」とか「エコロジー」とか不思議な呪文を唱えただけで、ビートルズのコンサート会場で絶叫する女性ファンのような熱狂的反応が引き起こされることも珍しくはなかった。
外国語大学なのだから海外の流行に敏感なのも当たり前かもしれない。「今、何が一番注目されているか」「今、誰が一番素晴らしいか」「いま何に注目すべきか」というようなことを求めるアンテナが張られ、「これからはこの時代だ」と誰かが叫ぶと、どどっとそちらになだれ込む流れがあった。
大学ではそれがふつうの行動なのだった。テレビでも「今一番注目される人」がどれだけ素晴らしい人物かを毎日熱狂的に宣伝しまくっている。だから自分もまた、自分が素晴らしいと思う「誰か」を求め、「自分がいま注目すべき誰かの考え」に飛びつきたくて飛びつきたくてうずうずしていたのだろう。

操体法の存在理由と目的を、病気治しや健康法に限定する考え方もあると思う。気休めや筋肉ほぐしや生活費を稼ぐ手段にしたりと、やり方も解釈も人の数だけいろんな操体法があっていい。自分は日常生活の中に青い鳥がたくさん飛びまわっているのが少しずつ見えるようになってきて、その羽音も聞き取れるようになりつつあり、もはやさまようことなく腰を据えて操体法の研究に集中しようという構えを整えている最中だ。旅回りをしていた頃のことを振り返ってみると、青い鳥を見る視力と、青い鳥の羽音を聞く聴力を養うのが私にとっての操体法だったのかもしれないと思う今日この頃だ。
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