野生の王国に放りこまれたら治って元気になる-病気という誘惑-
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2012/12/03(Mon)
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子供のころは病気で周囲をだましていた。だまそうとしてでなく、自分の都合で不思議に発熱や腹痛になった。精密な検査をされると何らかの項目で「異常の疑い」がかかり、何らかの診断名がついて薬まで出されるのも不思議だった。病院も検査も嫌い。「虚弱な子」呼ばわりされるのも嫌い。しかし「病気」というところには日常からの脱出があったし、自分なりの安心もあったのだと思う。
意図的ではなく無意識的に、いろんな病気を出せる。人にはそんな能力も備わっているかもしれない。 人だけではない。炎症で足を引きずっていたペットの犬が、すっかり治ったあともおかしな歩き方をする。医者がピンときて、「病人あつかいしないように。同情せず特別あつかいもせず、素知らぬふりをしているように」と飼い主さんに指示したら、数日でふつうに歩けるようになったという。 半信半疑だったが、自分も後年に同じことを目撃した。 若いネコたち七匹を一ヶ月の間ワケありで預かった。事故で腰がつぶれて半身不随のが一匹いたので、特別待遇でエサも別にした。すると残りのネコたちが次々と足を引きずりだした。どの足かを地面につけるたび、ギャッといって身を縮こませるが、私が足を押してもつまんでもけろりとしている。 異常を訴えたのを特別待遇に切替えてゆくと、足を引きずるのが増え、奇病の伝染かと驚いたが、全員が何らかの不調を表現するに至ったとき、彼らはおそらく愛情に飢えている、かまってほしいのだと感じた。 手に負えなくなったので特別待遇を完全にやめた。すると数日のうちに全員の異常が見られなくなった。 他人に納得いくような証明はできないが、親ネコに引き離され、見知らぬ人間に預けられたという状況から、愛情の飢えがもたらした現象という解釈はじゅうぶん成り立つと私はみている。 治療にたずさわる人間のあいだでは口にこそされないものの、「そんなの常識」と思われている。 病人の置かれた状況を見て、「治るよりも、治らないほうが、この人にはいいことなのかもなあ」と思われる場合が少なからずあるのだ。「周囲の愛情やいたわりに飢えていないか」ということは目安になりやすい。 「もしここが野生の王国だったなら」とは、ある治療家さんの話。 「野生の動物たちは具合がわるければ死を意味する。捕食者につかまって食べられるか、狩りで獲物をしとめることができずに飢え死にするかのどちらかでしょう。それが野生のおきてなんです。野生の王国に病人はいない。のんびり病気なんかしていられないんですよ。うちに来ている患者さんの九割以上は野生の王国に放り出されたらすぐに治って元気になると思いますね」 病気は自己表現だったり、自己主張だったりすることもある。どこからどう見ても、どこをどう検査しても、病気にまちがいないというケースの中にも、「あんまり積極的に治したくない」「治ったら治ったで困る」と無意識に思われる病気が少なくないかもしれない。 難病を長くわずらっている方が、「治したくない気持ちもないことはない」と話して下さったことがある。 家にいたくない。いたくなるような家ではない。過ごしたくなるような日常ではない。入院にはむしろ日常から解放される安心がある。病院スタッフはみな親切で、何かと世話をやいてくれる。「病気でたいへんなのだから」という、目に見えないいたわりに包まれて、自分でも自分を許すことができる。そこからわざわざつらい努力までして積極的に脱け出そうという気持ちを、持つことは今のところできそうにない。 何がなんでもほんとうに治したいと思ってちゃっちゃと取り組み、さっさと病気を卒業してしまう。生活改善のがまんなど一時的なこと。元気になれば復帰できる。卒業後は一日も早く人生の戦場へと復帰を果たしたい。そういう人は病気のほうから逃げて行くのかもしれない。 元気になったら戦場に戻されるとなると、ほんとうに誰もが病気から卒業したいと望むだろうか。戻りたいと思える日常を自分の心に描き、自身の安心を病気に求めるという誘惑に打ち勝つ自信はあるだろうか。 戦場に戻るも戻らぬも、各自の判断と選択。病気はたしかに不幸で不健全な状況だしベストな選択とも思えないが、「こういうやり方も有効例が多い」という話だけで拒絶にあうことも少なくない。「そんなことするくらいなら病気でいたほうがまし。死んだほうがましだ」。そういう場合はムリに治すことはないし、恐らく結果は期待できない。本能的・潜在意識的な部分では病気も本人の生きる戦略の一つとして立派に成立しているのかもしれないからである。 スポンサーサイト
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