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子供でも大人でもなく男でも女でもない、もう一人の自分が私を見守ってくれている
2012/12/31(Mon)
除夜の鐘百八つは煩悩の数というが最大六万四千の数字もある。大日経には「人には六十の心が住むからお気をつけなさい」というアドバイスもあるようだ。

自分を見つめるもう一人の自分がいる。眺める一人の自分と、眺められているたくさんの自分とがいる。自分の中にあまりにたくさんの自分がいることに驚いて「あ、こういうところもあったのか」と他人のように眺めている。
自分は自分のはずだが「ほんとうの自分はどれ?」と不思議に思う。

みっともない自分。見栄っ張りでワガママでずるい自分。弱くて何にでも振り回される自分。愚かな自分ならいくらでもいる。「おい、そこにいるお前。お前がいけないんだ」と責めたり、「お前は消えろ」と見放したり。いつの間にか一人相撲が始まっている。万華鏡の筒をのぞくのと同じで、揺れたり動いたりするたびにぞろりぞろりといろんな顔が出てきてキリがない。
「あっはっは。目くそ鼻くそでしょう人間なんて。お互いね、お互いさまですよ」と笑い飛ばす豪快な知人。「それもそうだ。仕方ないよね~」と笑うことでかえって「目くそ鼻くそではない」という確かな実感も残る。

まあいい。どんなときに、どんな連中が顔を出すか、せめてきちんと把握しよう。どんな自分が出てきても、しっかり自分を見届けることのできるもう一人の自分がいる限り、あわてることも恐れることもない。気持ちを大きく持って、互いに飽き飽きするほどつきあって、どんなにたくさんの自分にも迎合しない自分が一人でもいることを確信できればじゅうぶんだ。しょうもないような自分がしょうもないようなことをささやいても、適当にあしらっていたら、いい。
いま、ひょっと、「じゃあこのブログを書いているのは、だあれ…?」などと思ったが、すぐには返事が見つからない。「ブログと、会ったときとで、感じがちがう」と言われることもあるから、自分の中にブログ担当者のようなのがいるのかもしれない。


※本年最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
この一年を振り返って、数えきれないほどの支えと学びをいただいていること、感謝の一言に尽きます。
未熟でいたらないところ、ご容赦いただければ幸いに存じます。お気づきの点がありましたらご指摘・ご指導のほど宜しくお願いいたします。
それではよいお年をお迎えください。また来年もお会いできることを心より願っております。
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見えない力を自在にあやつるということ-床の上のボールが動かずにじっとしている理由-
2012/12/29(Sat)
床を転がるボールもやがては止まる。「摩擦」という力の働きで止まるのである。
動きあるものが止まるのは、なんらかの「力」が作用したからだ。
では動かないボールはどうだろう。力など作用していないと思われがちであるが、地上のあらゆるものはつねに力の働きを受けている。ボールに重力が働くならば、地球の中心に向かって落ちていく。床のボールが地球の中心に向かって落ちていかない理由は、床の支えがあるからである。重力と床の抗力がつりあっているから、ボールは床の上でじっと止まって見える。

体の調整をするときの、操体法の動きには、じーっと止まっているところがある。
操体法の基本の動きは三段階に分けられる。①ゆっくり動き始める。②ほどよいところにきたら、じーっと止まって、しばしタメをつくり、③トンと瞬間脱力を、する。
二人一組になって、一人が補助にまわる場合、補助役は「ほどよいところ」で相手の動きが「じーっと」なるよう、せきとめなければならない。ちょうどよい角度、ちょうどよい位置からはみださないよう、相手の動きを支える。これを「抵抗」という。
AとBの両者が力を出し合って、動きがなく止まって見える場合、Aの出す力とBの出す力はつりあっている。AとBの力の向きは真逆であり、力の大きさは両者ともに等しい。
Aさんが右を振り向くのをBさんが止めたい場合、BさんはAさんに力を加えるとよい。Aさんの動く方向に対して真逆に力を加えると、最小の力で動きを止めることができる。
最小の力とは、Aさんの出す力と同じ大きさの力である。Aさんより小さな力では振り切られてしまうし、Aさんより大きな力では、Aさんを押し戻して左へと動いてしまう。

力は目に見えないので、ベクトルという矢印を利用すると便利である。
力の出どころは矢の根元であらわされ、力の向かう先、終点はとがった矢の先であらわされる。
矢の長さは力の大きさをあらわす。短い矢は小さい力、長い矢は大きい力である。
「抵抗」のじょうずな人に支えてもらっていると、「じーっと止まって、しばしタメをつくり」が、非常に気持ちよく、具合がいい。逆に「抵抗」がうまくいかない場合には、おさまりがわるい。「タメ」をつくることができず、脱力も不発に終わる。
操体法のワザがぴしっと決まるか、的がはずれてしまうかは、「抵抗」の段階に重要なカギがあるといえるだろう。
「抵抗」は外から見れば、ただ動く人と支える術者とがじーっと止まっているだけで、「ワザが決まっている」のか、「はずれている」のかは、映像には映らない。
自分の手のひらで受けとめている相手の力は、どこから出てどこを通過してどこへ向かっている力なのか。
相手の体の中に力のベクトルを描いてみる。そして自分から出ている力のベクトルをイメージする。自分の足腰からぐうんと伸びてゆく矢印と、相手のほうからやってくる矢印とがぶつかりあい、共同で「タメをつくっている」。それを実感する。その実感が、自分に心地よい実感であるのなら、相手も心地よいのである。そして自分でおさまりがつきにくい感じがしたら、相手にもまた、おさまりがつきにくく感じられている。それを「ヘタだな」と感じられることもあろうし、「これなら補助なしのほうが自由でいいな」と感じられることもあるだろう。

野球でもテニスでも、練習風景を眺めていると、ムリな動きをするのは初心者である。肘を張って脇があまくなる。肩をいからせ、体の力が抜けていない。少しうまくなってくると、「ハイヨ」「よしきたホイホイ」と、何をやるにもラクちんそうである。スポーツも操体法も、「ラクな動きを身につけたかどうか」が初心者と上級者とを分かつ。
目に見えない力のはたらきを、ムリ・ムダなくあやつる方法を身につける。
それが練習であり実習だ、ともいえるだろう。
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雪混じりの風が吹く中に行列のできるラーメン屋
2012/12/27(Thu)
震えながらじっと耐えている人をいつも見かけるラーメン屋。夏は夏で照りつける中を並んでいる。並ぶ人も並ばれる店の人もあっぱれだ。

たとえ火の中、水の中。人間、要は、やる気だ。
やる気は、こころ。心の充足のためには時間も手間もお金も惜しまない。それが人の行動の基本だ。ラーメン一杯のために早起きして車を飛ばして行列に並んで雪混じりの風にあたっていても、どうってことない。
「ぜひこれを見習おう。これが人間の基本。忘れてはならない」と通りすがりに思う。
何の行列に加わるか。それはまた別の話だ。
人間いつもラーメンばっかりというわけにもいかないだろう。ラーメン一杯にこれだけの行列をつくるのだ。操体法の前にだって行列できないこともないなどと思ったり。

持ちものを奪って逃げた女がいた。持ちものを奪われた男たちが必死に探しているところに世尊があらわれた。「女を見かけなかったか」と世尊に事情を説明すると、「逃げた女を探し求めるのと、自己を探し求めるのと、どちらがすぐれていると思われるか」と問いかけてくる。男たちはとっさに「それはもちろん自己を探し求めるほうでしょう」と返事をし、その場で教えを受けて受戒した。そんな話もある。
ラーメンと同列にしたらいけないこととは思うが、あり得ないことでもないように思われてくることがある。
いやまあ、あり得ないかな。
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今が旬の布団のぬくもりを、ストレスなしに離れる方法
2012/12/25(Tue)
布団のぬくもりは冬ならではの心地よさがある。そのぬくもりを一切くずさないまま寝床で体をゆるめ、毎朝ストレスなく寝床から離れることができる。
どんなに動きたくないときも、顔くらいなら動かせる。目や口の動きで首や肩、腰をゆるめることもできる。
がんばると体に力みが入る。布団を出るのに「イヤだ、おっくうだ、でもガンバらなきゃ」と思わずに済めば、首や肩や腰をやわらかく保つ工夫ともなる。一日に何千回何万回もの「イヤだ、おっくうだ、でもガンバらなきゃ」を繰返し、無意識にストレスを積み上げていくよりは、体をゆるめて気持ちよく動けるほうがいい。
布団もぬくもりもくずさない、顔の操体法。
目が覚めたら目玉をゆっくり動かしてみる。それだけのことである。上下にゆっくり動かす。横に動かす、ななめに動かす、時計回り・反時計回りに回転させるでもいい。
上の動きと、下の動き、どちらか動きやすいほうの動きだけを、数回ゆっくりと行なう。
右と、左と、どちらへ動かすのがラクか、やりやすいほうのみゆっくりと行う。

動きやすい動きをゆっくりとやりながら、体の力を抜いてゆく。目玉の動きを利用しながら、首や肩の力がどんどん抜けるのである。目の動きにともなって首がしぜんに動くなら、なおのこと望ましい。
さいごにもう一度、目玉を上下にゆっくり動かして動きの改善を確認する。
左右真横にゆっくり。左右ななめにゆっくり。そして最後に時計回り、反時計回り。いずれもラクな動きのみを行って、「やりやすい・やりにくい」の差を減らせたらいい。
動かすことにがんばりすぎると、何のためにやっているのだか、わからなくなる。目玉の動きそのものよりも、「目玉の動きをチューニングすることで、首や肩をどれだけゆるめられるか」ということが重要なのだ。
動かしやすいところに口がある。これもまた、「口の開閉をチューニングすることで、首や肩をゆるめる」というための動きである。
口の開け閉めは、あごの関節や、頚椎のほうのゆがみの解消を考えている。口だけ独立させて動かそうとするのではなくて、口の開け閉めで肩や首をゆるめているのだという意識。口の開け閉めにともなう肩や首の動きはしぜんにまかせるのがよい。

朝の時間は貴重なので、持ち時間にあわせて目玉や口の動きをチューニングする。
目玉とか口を動かしていると、肩や首も動くし、足首や腰のほうもむずむず動く。「あ~あ」と伸びが出てくる。動かしたい気持ちのままに、体をゆすったり、腰をゆすったり、肩をゆすったり、腕を軽くよじったりねじったり、する。
動かしたい、という気持ちが動いたら、もう布団などに用はない。じっさい気がつくと体は外へ飛び出している。ストレスなしである。
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冬は寒いか-鉛色の空のもと、動かない温度計・動かずにいられない心-
2012/12/23(Sun)
ネコが冷気をつれて布団にもぐりこんでくる。寝床から見た温度計は3、4℃あたりか。
「寒い」つぶやきながら寝床を離れる。

戸外に出ると風が吹きつけ、たちまち手足が冷たくなる。息が白い。「ああ冬だな、じつに寒い」と思う。
歩くうちにあたたまってくる。「着すぎちゃったかなあ、暑いくらいだ」
再び屋内に戻る頃には「今日はそう寒くもない。ちょうどよいくらいだ」などと思う。
鉛色の雲におおわれた無表情な空のもと、温度計は一日中ほとんど動きもしないが、私の心は少しもじっとしていない。

自然には暑いも寒いもない。人の感覚につくられた相対の世界の中にいて、寒いだの、さほどでもないなどと、朝から晩まで心を忙しくさせている私がある。それだけのことである。
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好き・嫌いがストレスのもと-一番嫌いなことが好きになれば恐いものはない-
2012/12/21(Fri)
「好き嫌いこそ個性」という一方で、「あれ好き!これ嫌い!」とうるさい人は周囲も不快だし本人も苦しそう。「好きなこと見つけろ」といわれる一方で、好きなことを追求する人はむしろ「苦手」や「嫌い」を減らす作業に熱心。スポーツなどその典型で、「苦手」や「嫌い」をどれだけ克服できるかが、好きなことを続けていけるかどうかのカギを握っている。

操体法で、体を右に倒すのと、左に倒すのと。「どっちが好きか、どっちがイヤか」とさんざんやらされてきた。
「どっちもそう変わらんじゃないか」と思われるようなことを、「鏡に映したように正確に同じ感じがするのか」と追求されれば、それはまずあり得ない。「そこまでいうなら、こっちかなあ」と、最初はしぶしぶやり出した。
体の弱い人や病気の治りにくい人ほど、操体法でできる動きのレパートリーが少ない。好き嫌いをハッキリ持ち、融通がきかず、「苦手です」「嫌いです」が山ほどあって、申し訳程度に「好き」がある。その強い偏りを「これが自分だ個性だ」と言って一切の変更を恐れ、拒絶する。生活の改善というより改変そのものができそうにない。
ガンコ・ワガママ傾向で自分自身をしばりつけ、身動きできずに苦しい思いをしている。そういう人ほど体の動きに「右も左もちっとも変わらない」と主張するから不思議である。
体の動きに伴う左右の違いがわかるようになってくると、言うこともガラリ変わってくる。「苦手」や「嫌い」が減って、数少ない「好き」にしがみつく必要もなくなってくる。食べ物の好き嫌いも減り、いろんなことが少しずつ平気になって無頓着の様相すら帯びていく。
あらゆる面で神経質だったのが図太くなっていく。それが健全ということなのか。

私自身のたどった姿である。「あれも苦手・これも嫌い」と「好き嫌い」を基準につくった自分の世界が、いつの間にか「あれ?好き嫌い減ってる」「イヤも好きもない。平気になってる」と気がつく一方、喜びや感動はむしろ増えている。
なるほど。感動するにも嬉しいと感じるにも、いちいち「好きだから」という理由は必要ないのだな、と思う。「好き嫌いなど気にすることもない。放っておこう」と思う。
好き嫌いあること。それはむしろ弱点かもしれない。「好き」にしがみつけば災いがもたらされ、「嫌い」は苦痛を伴わずにはいられない。「嫌い」をなくせば当然ながら「好き」と「嫌い」の差は縮み、どっちもまずまずという楽天となる。
以前に酒の席で、「自分の一番苦手なことを好きになったら世の中に恐いものはなくなるぞ」と師匠に指摘されたのは果たしてこういうわけだったかと思いあたる次第。
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それでも花は咲いている-水と大気と日光と-
2012/12/19(Wed)
川のほとりに野菜が育つ。「植えるのは法律違反です」の立札のそばで花が咲く、野菜も育つ。物心ついた頃からずっと変わらない風景。
川辺は誰のものというでもなく、育つ野菜も誰のものというでもないが、耕したり植えたりして手入れや世話をすることで、何とはなしに「その人たちの畑」のようなものができあがっている。
立札は定期的に新しくされる。花咲き、実りが収穫されるという営みの真っ只中で、「法に反する行為だ」と主張し続けている。私の知る限り、そんなことがもう50年以上続いている。100年以上続いているのかもしれない。同じ家の人がずっとやっているのか、主が交替していっているのかは、知らない。
そういう空間の、一時的な所有が続いて、現在に至っている。
野菜がなければないで野菜のない川辺の風景になるのだろうが、菜の花や、おナスや白菜やらが、季節の移り変わりを知らせながら、国の立札と共存して半世紀以上になるのが、自分の日常の現実を見るようで、おもしろい。

自分は野の花や虫と同じ、自然の生きもので、勝手に生まれて勝手に死ぬ。
しかし私が母の腹の中に宿ったことは速やかに届け出され、生まれる前から人間社会の秩序のもとに組み込まれた。それでも私が生きていられるのはまず第一に、ナスや大根と同じく、きれいな水と、きれいな空気と、日光のおかげだというのも事実。それなしにどんなケアをしようと生きられない。
新しい看板がなぜ作られ続けるか、住民たちは知っている。川はどんどんコンクリートで固められ、橋が渡され道路がつくられて、街全体が殺風景な工場のような風景に置きかえられてゆく。カワセミやカルガモたちの暮らしの場も失われ、水は決定的に汚くなる。周辺の住民はブルドーザーやらトラックやらが出入りを始めるたびに、「ああまたか、イヤだな」と感じている。花も畑も勝手につぶされるが文句を言う人はいない。「花や野菜を川辺に植えるのは法律に違反しているから」である。「そのこと忘れてないよね」というメッセージを感じ取っている。川のほとりは水害もあるが、土は肥えてうまい野菜が立派に育つ。育てられる間は育てるという現実的な態度が、立て札のある畑の風景だと私は思う。

行政に管理されていた山道が、数年前からふっつり放置されて荒れたところがある。もともとけもの道めいたところだったから歩く人もいなくなってしまった。ホームセンターで見かけた草刈鎌は一本五百円もしない。買った翌朝、早く目がさめ、久しぶりに出かけていくと、背丈を越えるススキや、笹やら何やらが行く手をふさぎ、道がどこにあるか見つけるのも苦労である。分岐点の入口と出口をそのままにしておいて奥のほうの整備を少しだけ、やった。久しぶりの鎌の感触が心地よい。最初はそっと、しかし途中からは大胆に、人の気配のない山中でささやかな自然破壊である。ほんとうは許可を取りたいが、煩雑な手続きになるだろう。許可を待った挙句、「立入禁止」の立て札が立つかもしれない。見つかって咎められたら「なぜこの道の整備は中止されたのですか」とすなおに聞いてみたい気もする。
間に合わせの鎌一本で90分。トゲの引っかき傷で薄赤くなった腕をひりひりさせながら、廃道寸前になったけもの道を最初から最後のところまでゆっくりとたどる。人の手が入ったとも思えない出来栄えで、枯れ草の乱れ加減がかえって落ち着く。「こういう脱線もときにはわるくない」と思われたり、「誰かに見つかったら、やめよう」などと思われたりもする。そして、「数百円でも鎌は鎌だな」とつくづく感心を、した。
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「病気や症状も排泄作用の一つ」という見方には根も葉もないのか
2012/12/17(Mon)
激しいセキが続く。一つの咳が次の咳を呼び、咳で呼吸し、咳に支配され、咳に従う。そんな発作が日に2回ときには3回、毎日休みなく続く。「それ咳じゃなくてゼンソク」と師匠は澄まし顔である。

夕方から夜の時間帯に、内臓まで吐き出すかと思えるほど激しい全身運動。咳以外、何もできず、何も考えられない徹底ぶりがむしろ心地よい。「出たいなら出たいだけ出ればいい」と開き直り、咳に身をまかせるうちに、ぴたりとやんで時計を見る。60分でもなく80分でもなく、いつも70分前後である。十月半ばから十一月いっぱい、そんな毎日が続いた。初めての体験である。なぜ咳が出るか?と考えていた。
発作の始まる少し前から食欲が落ちていた。発作が始まった頃にはものが食べられなくなり、発作が続くうちに体重が落ちていった。十二月に入ってから急にご飯がおいしく感じられるようになって、咳の発作は出なくなった。
70分間の咳に身をまかせるうちに声がかれたが、ハスキーボイスは「雰囲気がいい」とおおむね好評だった。

なぜ咳が出るか? 自然療法の見方をすれば、「咳をする条件が体にあった」ということであり、「咳をしないより咳をするほうが望ましかった」ということになる。
腸の動きがにぶくなったとき、その改善をはかるため、咳やゼンソクを出すことがあるという見方・考え方がある。身をよじり、ハラワタがひっくり返りそうになるくらい激しい咳をしているとき、確かにこれは消化管も相当な運動を強いられているなと感じた。発作が終わると疲れてはいるが、お腹は軽い。激しい空気の出し入れも行ったからかスッキリしている。

「咳も排泄作用の一つだ」と師匠は言い切る。「端的にいうと食べ過ぎなんだよ」
原因不明の咳の発作が長期にわたって発生し、病院でもわからない。半年一年と経つうちに、原因不明のまま解消というケースは家人や周囲でも目撃してきたが、「そういうこともあるのかなあ」とあいまいな知識の域を出ないのだった。「咳は腸をととのえる働きがある」といえば荒唐無稽と笑われるだけなのだろうが、食べ過ぎの行動と、全身運動の不足とが、消化管の不調をもたらし、その改善に咳の発作を起こすという体の対抗策ということが、実感を伴ったものとして感じられた貴重な体験だったと思う。
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痛すぎる痛み・苦しすぎる苦しみは自然ではない-生きる方向へ軌道修正を促す、必要最小限の痛み-
2012/12/15(Sat)
「人は『今』に悩んだり苦しんだりすることはできないんです」
そのような話を禅僧に伺う。
「過去や未来にとらわれるとき人は悩み苦しみますが、『今この瞬間』には過去も未来もない。一瞬一瞬過ぎ去ってゆく、この『今』に意識をおいている限り、悩み苦しみはないのです」
「とはいっても、私たちの意識はつねにあちこちに飛んでじっとしてはいませんから、そうカンタンではありませんけどね」

そうかしら? 今を苦しむということが、人間にはないのかしら…と疑問にも思うが、苦しみが相対的であるということなら体験がある。病気やケガも、「これが一生続くわけではない」と思えばけっこう平気で耐えられるし、「悪化するんじゃないか」「ずっと続くかも」と思えばこれ以上苦しいことはないのである。じっさい、どんな苦しみも断続はあれど永続しない。痛みのことは医学的・科学的にわからないことが多いといわれるが、じっさいほとんど何もわかっていないようだから勝手に想像させてもらっている。

生き死にのピンチをくぐり抜けた人の体験話を、直接に聞いたり読んだりしてみると、人が感じることのできる痛みの大きさには限界があるようだ。大事故で大ケガだとたくさん痛くて、小さなケガだと少ししか痛くないとは単純にいかない。野生のクマに生きながら手足を食べられた女性の話では、できるだけじっとして自分の腕がゴリゴリ噛み砕かれる音を聞いていたというのもある。身近な話では、交通事故で大腿骨を折った人や、屋根から落ちて両足首を複雑骨折した人などがいるが、どの人も「そのときにはさして何ともなかった」という話である。両足骨折した人などは、そのまま歩いて駐車場に行き、自分で車を運転して病院に行っている。「痛くなかったですか」と聞いたら、「そうでもなかったですよ」などと言う。
痛みは、かなりあとになって感じる。大きすぎる衝撃を受けると全身マヒ状態になり、かえって痛みなど感じないシステムになっているらしい。

痛みはダメージの大小に比例しない。不要な痛み、受容不可能の苦しみの部分はカットされ、限界が設けられている。あんなにひどいことになったら、きっとただじゃすまないな。痛いだろうな苦しいだろうなといろいろ恐ろしいことを考えて、不安や恐怖におそわれることもあるけれど、しぜんはそんな無駄なことはしないようだ。
死ぬときはきっと恐ろしいだろう、こわいだろう、痛いだろう、苦しいだろうなどと妄想すると、誰だって平穏な気分ではいられない。しかし自然の営みは無駄な痛みや苦しみを用意してはいない。痛すぎる痛み、苦しすぎる苦しみは、ほんらいではないのだ。自然は、「不自然ですよ」というメッセージが伝わる必要最小限のボリュームで痛みを与え、生きる方向へと軌道修正を導く。

生きる方向への道を閉ざされ、痛みや苦しみが必要なければ、痛み苦しみもなくなるとも考えられる。
じっさい禅宗の名僧たちは苦しまずに死んでいる。苦しみぬいて死んだら名僧とはいえないだろう。
よって名僧たちの生活などは大いに参考にしたらよいと私は思う。
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優秀であるという、おろかさ-有能だけど愚か。無能であるが賢い-
2012/12/13(Thu)
学校のテストで百点とると一瞬鼻息が荒くなる。テストは小さく限られた世界だが、百点をとり続ければ小さな子供でも「優秀だ・有能だ」ということになる。どれだけ小さな世界の中でも満点以上は望みようもなく、「自分はこの世界を制した」という制圧感と、「もう自分は何でもできる」という全能感にじゅうぶんひたることができるのである。

世界を制圧し、何でもできるというカン違いに子供のころから何度となく酔いしれた。週二ずつしか通わない不登校生活でもテストの影響は少なからずある。いや不登校だったからこそ自分の存在を集団にアピールする、効果的で手っ取り早い手段にしがみついたのかもしれない。
「ここ来週テストします」の一声で教室全体が「ええ~っ」という声をあげる。誰だってテストはイヤなのだが、ここで「チャンスだ」と感じる人間もいる。自分の有能さ、優秀さをはっきりと見せつけ、自分の存在を認めさせるのにこれ以上わかりやすい手段があるだろうか。
不安と恐怖にあおられながら、ヤマをはる。小手先の細工でテストをまんまと乗り切り、担任から学年一番の人と二点差くらいだったと告げられたこともある。

中学を卒業すると働きに出され、今度は売り上げを競わされた。「売れなかったらどうしよう…」。「毎日がテスト」の日々が始まり、学級に成績が知れ渡るのと同様に、両親や店の者、そして各地の店舗にまで成績が伝わっていく。大人たちを抜いて売上げ一位になり、「優秀な売り手だ」と持ち上げられ、朝礼で「見習ってがんばるように」とほめられもしたが、結局はストレスに耐えきれず三年後肝臓病でダウンした。
それを契機に「大学に進学する」ということで受験生活に入り、がむしゃらにやった。
一生懸命はわるいことじゃないけれど、「不安と恐怖でがむしゃらに一生懸命」がよいというのでは、ムチ打たれながら泡くって走る競馬馬が人間の生きるお手本だということになる。
小学校にあがってから大学を卒業する30歳までのあいだずっと、不安と恐怖にかられて数字を追い求める生活を送る中で、優秀だ有能だと持ち上げられるたびに傲慢な喜びを味わい、酔いしれた。それは一瞬の快楽と引きかえに心身を蝕む麻薬の煙に似ている。小さい頃からテストで優秀さを定期的に測定され続け、医学部に入った後に国家試験に合格し、白衣に袖を通す。それもまた私たちの想像を絶する不健全な煙がまん延してはいないかと思うことがある。

「有能」と「賢さ」とは、ちがう。あくまで別ものなのだ。
私はつねに自分にそう言い聞かせ続けている。「有能」と「賢さ」はよくごちゃまぜにされているが、優秀・有能な医者に勧められた手術で恐怖や苦しみを味わった挙句に命が失われるということは、よくあることなのだという指摘も聞く。
「優秀・有能さ」に目がくらまされて人間としての賢さや愚かさがよく見えないということもある。自分の命や体をあずけようとしている人間が、どのような生活を送ってどのような教育を受け、何を考え何を感じてきたのか、そういうことも考える必要があるのかもしれない。
「優秀な人間が、驚くべき愚かさ・未熟さをかかえている」というのは、ちょっと意外なようでもあるが、「有能」と「賢さ」を分けてみれば当然ながら、「有能」で愚かな人間もいる。「無能」でも賢い人間もある。有能・無能の区別はわかりやすいが、賢い・愚かという区別は微妙な世界である。もともと人間は愚かさを免れるのは至難の業といわれる。ならば愚かな人間はいくらでもいるが賢い人間というのは非常にまれということになる。しかし「有能ならば賢い」というカン違いが一般にはあるから、どれだけたくさんの「有能だけど愚かな人間」が、「有能かつ賢い人間」として処遇されているか、わからないというのが現実なのかもしれない。

世の中には「有能・優秀」のレッテルを貼られた人間がなんぼでもいて、上には上がいる。「優秀・有能」もピンキリだ。どこまでいっても狭い区間を切り取って、人間規模の小さな世界で王者の地位を競うのが相対の世界だ。相対の世界は比べっこの世界である。比べっこの世界は競争の世界で、敵対意識にみたされている。王者の地位は一つ。その一つをねらって新たな参加者が後を絶たない。転落の恐怖と不安に支配され、ストレスも大きい。どこまで行っても不安と恐怖できゅうきゅうと過ごすのが相対の世界。安心感や幸福感と無縁なのも当然なのだ。
「有能」と「賢さ」の両方あるにこしたことはないが、どちらか一方をとれと言われたら、今の自分は迷わず「賢さ」をとる。人間の幸福は必ずしも「優秀さ」にはないが、「賢さ」には人間の幸福が見える。「賢い」とはもともと、人間が不幸になる道を見通して、未然に防ぐ能力をいうのではないか。
有能な機械・優秀な機械の出現により、人間が機械と競わされる。人間がいまだに機械よりも優秀でいられるのはどういう点であるか。そんなことを確認しなければ落ち着かないまでに人間が自信を失わされ、無能感でみたされそうになる時代でもある。

「バカは死ななきゃ治らない」というが、愚かさから賢さへと向かう道は、無能から有能へと向かう道よりもはるかに困難でけわしい。ちっぽけで一時的な「優秀さ・有能さ」に目がくらみ、人としての愚かさに注意を払わないまま年を重ねてしまった自分の迂闊さを、私は悔やむ。
今、私の目の中に映っているのは「優秀な売り手」だった以前の自分の姿である。売上げにきゅうきゅうとして声をからし、売上げのためには「嘘も方便」。売上げに情熱を燃やさない他の売り手たちを「無能」と断じ、自分を追い込む、かたくなな人間。それは決して賢い人間の姿ではない。人として未熟というほかないのである。
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雰囲気に流されることを楽しみながら、からめとられない
2012/12/11(Tue)
「アイラブユー」という言葉で済ませられる愛は軽い。黙って死ぬまで忠誠を貫き、態度と行動で「まごころ」を示す日本式は重い。これでは時間もかかるし、「通じない相手には通じないまま」ということになってしまう。「それでもいい。それを耐えてゆくんだ。いつかは通じる」という根性も「まごころ」には必要なのだ。

日本のCMは感性に頼るものが多いと指摘される。いったい何が言いたいのか、最後までわからない。主張をわからなくしてあるものがほとんどだ。日本人は生活の中で具体的データを扱い、ものごとの白黒をハッキリさせることに慣れていない。場の雰囲気に流されやすい傾向があるといわれるのも納得がいく。日本人はその場の雰囲気にだまされることを楽しみながら、時にはその場の雰囲気にからめとられ、身動きできなくなってしまう。日本人はだまされながらだまされていることに気づいているのかもしれない。

事実を言葉でチョキチョキ切り取って、虫ピンでかたちを固定して約束を整えることはできても、生きてかたちを変えてゆく現実の中では、約束さえも流動してゆく。「もののあはれ」「はかなさ」といった万物流転の感覚を背景に持つ日本語の約束の感覚と、「言葉が全て」の契約社会の言語である英語の約束の感覚とはまるで一致しない。
人間関係はつねに流動するから、だまし・だまされのいい加減さがかえって現実に即して人の輪をくずさないところがある。「言わぬが花」「口はわざわいのもと」というように、沈黙もりっぱな武器となる。「言葉を使うのには慎重であれ」というメッセージを支えているのは「言葉は武器であり、武器は危険物だ」との理解でもある。
言葉が足りないくらいが丁度いいという社会の中で私たちは呼吸している。危険な刀を振り回すように言葉をやたらに振り回すのは、たとえ理屈で正しくとも人間ができていないとみなされる。

日本語は、はっきりくっきり伝えることよりも、ぼやけさせたり隠したりが得意なのだ。だから日本語を使うときと英語を使うときとでは気持ちも顔も切り替わる。日本語は忍者のように本音を隠すポーカーフェイスである。英語では目を大きく見開き、口も大きく開けて、笑い声のボリュームも大きくなる。外国語だから緊張するということもあるのかもしれないが、英語は「エイッ」と切りかかってきたのをサッとかわし、「トオッ」と来たら「オイサ」と返すような言葉上の闘いである。言葉つまればバッサリ切られて死ぬか、傷を負う。「攻撃は最大の防御」とばかりに、言葉による説明という爆弾をふだんから用意しておくのが英語である。
日本語と英語どちらがよいというのではない。自国語をよく使いこなす人は外国語習得も早いのだが、子供のころから言語活動そのものが活発でない環境で育った私のような者には、英語の習得作業は並々ならぬ苦労を伴った。

二十代後半を大学の外国語学部で過ごしたが、今振り返ってみるとそこは日本であって日本ではないようなところがあった。外国語の専門家集団に軍隊式の言語トレーニングを課せられていたあの日々を振り返ってみて、その影響というか後遺症というか、そういうものを自分は負っているのではないかと感じることがある。
「夢も外国語で見ることができるように」というのが私たち共有の目標だった。
「英語の単語を一つおぼえるごとに、日本語の脳細胞がプチッて音を立ててつぶれるの」
あるとき一人の研究者が、ぼうっと宙を眺めながらそんな話をしてくれたことがある。
「プチッ。プチッ…て。聞こえる…。イヤ~な音」
日本語を忘れはしないが、英語の影響を受けた日本語になる。少し気をつけて聞いていればわかるはずだ。ふだんの思考は英語で行われ、夢も英語で見る。外見は日本人でも中味は日本人とはちょっと違う。
言語生活の改変が人間改造にまで通じている。それが「外国語べらべら」の行き着くところだ。
英語習得の部隊で四年過ごした後、私は「英語べらべら」を人生の目標からはずしたが、脳細胞の破壊に回復していないところもあるようで、今も操体法のリハビリを続けている。
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青い鳥を見る視力と青い鳥の羽音を聞きとる聴力を養う方法
2012/12/09(Sun)
手紙を書いて方々に送り、快い返事を寄こしてくれたところに出かけていた。「素晴らしい人のいる、素晴らしい世界がこの世のどこかにある」という信念が燃料となり、私のエンジンをぶいぶいふかしていたのだろう。
学生時代に旅が何度も繰り返された理由を考えてみる。それは行く先々で「これが幸福の青い鳥だ!」と感激すると同時に、「これが青い鳥だろうか?」という疑問も感じていたから何度でもあちこちに足を運んでいたのではなかろうか。さんざんに旅を繰り返した結果、「青い鳥は自分の中にいたんだなあ」とか、「青い鳥なんかどこにだってそこいらじゅうにいる」と気づくのが幸せの青い鳥のストーリーの結末で、自分自身の歩みはそこからやっと始まるのである。

いったい私はどこで「青い鳥は、いま、ここではないどこか別のところにある」という考えを身につけたのだろう。
人文系の大学生活では「ピンチョンはもう読んだ?」とか、「チョムスキーをどう思う?」など、教授や学生の会話にはやたらと外国人名が飛び交っていた。「レビストロース」とか「エコロジー」とか不思議な呪文を唱えただけで、ビートルズのコンサート会場で絶叫する女性ファンのような熱狂的反応が引き起こされることも珍しくはなかった。
外国語大学なのだから海外の流行に敏感なのも当たり前かもしれない。「今、何が一番注目されているか」「今、誰が一番素晴らしいか」「いま何に注目すべきか」というようなことを求めるアンテナが張られ、「これからはこの時代だ」と誰かが叫ぶと、どどっとそちらになだれ込む流れがあった。
大学ではそれがふつうの行動なのだった。テレビでも「今一番注目される人」がどれだけ素晴らしい人物かを毎日熱狂的に宣伝しまくっている。だから自分もまた、自分が素晴らしいと思う「誰か」を求め、「自分がいま注目すべき誰かの考え」に飛びつきたくて飛びつきたくてうずうずしていたのだろう。

操体法の存在理由と目的を、病気治しや健康法に限定する考え方もあると思う。気休めや筋肉ほぐしや生活費を稼ぐ手段にしたりと、やり方も解釈も人の数だけいろんな操体法があっていい。自分は日常生活の中に青い鳥がたくさん飛びまわっているのが少しずつ見えるようになってきて、その羽音も聞き取れるようになりつつあり、もはやさまようことなく腰を据えて操体法の研究に集中しようという構えを整えている最中だ。旅回りをしていた頃のことを振り返ってみると、青い鳥を見る視力と、青い鳥の羽音を聞く聴力を養うのが私にとっての操体法だったのかもしれないと思う今日この頃だ。
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料金払ったお客を放送でたたき起こし掃除までさせる-旅という名の生活改善-
2012/12/07(Fri)
初めてユースホステルを利用したときの腹立たしさと不愉快を今もよくおぼえている。「二度と来るか!」と思った自分のごうまんさもしっかりおぼえている。
しかしその後も各地で利用するうちに、すっかりユースホステル式の行動が身についた。金を払おうと払うまいと、最低限の後始末もしたがらないような人間にはぜったいなりたくない。そう思うことさえあるくらいだから、人間どうなるかわからないものだ。
おかげで学生時代はどこに行っても評判よく受け入れてもらえた。ユースホステル式の私は「今どきめずらしいよくできた学生さん」とどこでも気持ちよく泊めてくれたのである。
自分が使わせてもらった場所は、使う前より断然きれい。トイレや風呂も使うたびに5分や10分くらいの掃除をする。寝場所のスペースや部屋も、まず先にお掃除。後にも、お掃除。体が勝手に動いてしまう。
「掃除しますので掃除道具ありますか」などという間抜けな質問はしない。滞在先の負担を増やせば掃除もワガママだ。これみよがしにやれば嫌味だから、掃除用の濡れタオルを持ち歩く。誰にも気づかれないようにさっさと掃除する。滞在日数が重なるうちに立ち入りするエリアも広がってどんどんきれいになる。

掃除はいまだに日本文化の重要な地位を占めていると思う。「掃除のできる人」は「人間ができている」として信用される。逆に「掃除しない人」はまったくもって相手にされないか、がっかりされてしまう。知人に世界を旅歩きしている人がいるが、この人は行く先々でまっ先に始めるのがトイレ掃除だ。見ていてこっけいなほど、どこのトイレも磨く。「よその土地から入って来た人間はまさに不審者そのものだ。旅人は短時間で一定の信用を得る技術を身につけるかつけないかで、旅先の待遇も決まるのだ」というのである。
しかし私の掃除行動は、恐らくきれい好きなためでないのはもちろんのこと、信用を得るためでもないと思う。
その場所を知りたいと思うと、私は掃除をしたくなるのである。
掃除は場についての重要な情報と手がかりをもたらしてくれる。
どんなものがどこに置いてあり、どのように置いてあるのか。なぜそのようでなければならないのか。
そこで生活を送る人の考えとか、考えなしとか。思いや好みやこだわり、もしくはこだわりなさなど。そういう目に見えない情報が随処に散りばめられているのである。家族関係や人間どうしの見えない関係なども、人のいない空間の中からだって、読み取ろうと思えば読み取れるはずである。

掃除をすれば生活空間を構成する一つ一つの要素に意識が集中する。空間を読み解くお掃除には、ほこりとか、油の汚れや机のしみ、ペンのラクガキとか、どうでもいいものも非常に重要だったりする。目に見えないあらゆる情報が手にとるように感じられ、掃除をするたびにその空間の読み解きが進む。
大企業の大量生産のものばかりで生活空間が充たされているのか、それとも人間どうしのつながりを感じさせる物があるか。台所の汚れを見れば油ものや肉を多く食べるかどうかもわかる。菓子のたぐいが散乱していれば、その部屋の主が体の不調をどの程度持っているかどうかもわかる。
「一宿一飯の恩は、一日二、三時間ていどの掃除・洗濯・料理」という形式で、私はどこにいてもお客さまではなく、そこの一員となれる。どこに何がどのように、どんな理由で置いてあるということを把握するお掃除は、基本的には遺跡の発掘調査と変わらないのだが、発掘調査と違う点は、読み解きを進めると同時に、他所者である私の手によって、そこに何年もあった人の生活の痕跡が拭い去られるということだ。そしてさらに他所者である私がより喜ばれ、受け入れられる秩序を考えるということである。私は二日三日もあれば、そこの空間のメンバーの一員の顔になっている。ひょっとすると、厚かましく空間を制するヌシのような顔になっているかもしれないから気をつけないといけない。

空間を読み解くことで空間は自分のものとなる。それが私なりの、空間を所有するということになるのかもしれない。お客様あつかいされる空間では、ふわふわの座布団をいくつも重ねたてっぺんに座らされているようで、どうにも居心地わるくなる。私はどこにいてもお客様ではいたくない。どこででも場を共有し、大切に思う一員でありたいと願うのである。
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体熱のうち、筋肉でつくられるのが六割、肝臓では二割といわれるが
2012/12/04(Tue)
汗をだらだら流すエキサイティングな運動は気分も高まるからカンタンだ。
日常のシーンの中で運動の要素を増やすというのはやりがいが感じられず、楽しくもなんともない。今日は頂上をいくつ踏んだというような達成感もなく、誰も「すごいですね」などとはほめてくれない。
「だからどうするんだ?投げ出すのか?」と自問する。
山歩きできなくなって五年。筋肉がごっそりおちた。すらりとした足には太ももや尻がどこにあるかわからないくらいだ。「その年齢で筋肉落とすとなかなか回復せんぞ」という一言も痛かった。「足踏みだろうとスクワットだろうと何でもいいからとにかく一日中、こまめに、やれよっ」

体熱のうち、筋肉でつくられるのが六割、肝臓では二割といわれるが、筋肉が落ちると体温が下がりやすいのを実感する。厚着するのがいいというような冷え方ではない。つくられる熱そのものが足りず、厚着をしたからといって体の中はちっともあたたまらない。対症療法的には遠赤外線治療機や温灸、それに温泉や風呂などが効果的だろう。しかし体の働きからいうと「あたためればあたためるほど、冷やそうとする」のだから、めったやたらにあたためればよいということでは済まない。
体が冷えると気持ちのほうもなえる。
まったくもって厄介である。

運動といえば息も荒く、汗をだらだら流すイメージがある。しかし運動というのはそれだけじゃない。
汗をだらだら流すエキサイティングな運動は、気分も高まるからある意味ではカンタン。取り組みやすい。
しかし健康に必要な筋肉は、むしろ地味にこまめに日常のシーンの中で運動の要素を増やすというところからつくられる。すごくない運動がむしろ必要であるが、これは励みになる要素がぐっと減る。
「だからどうするんだ?投げ出すのか?」と自問する。
やりたくない理由をいくら山積みしても、筋肉が落ち、筋肉が落ちたことで損失をこうむるのは私自身である。筋肉を落としていいことなんか、一つだって、ない。

取り組まない理由なんか、いくらでも出せる。やりたくない理由をそうやって、がんがん山積みする。どれだけ困難なことかをどんどん強調する。そして、さいごに、言う。
「見ろ。この困難なこと。これに比べたら山の頂上を目指すなんていうのは子供のお遊びのようなもんだ」
「だからこそ、お前の勇気と智恵が試されているのだ。年をとるっていうのはそういうことじゃないのか」
「困難であればあるほど喜びも大きい。ほんとうの達成感も、そこにある」
「さあ、生きろ。そして、ねばれ」

気がつくと、へこたれている自分である。どれだけ困難なことに直面しているかを、きちんと自分自身でわからなければならない。朝出かけて汗ダラダラして、夕方帰ってきたら「いい汗かいて気持ちよかった」というような単純なことでは済まない。じいっと息をひそめて少しずつ少しずつ積み上げていく地味な作業のどこに喜びを見つけられるのか。
まさに智恵と勇気が試されている日常である。
誰だってそうじゃないのかと思う。

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野生の王国に放りこまれたら治って元気になる-病気という誘惑-
2012/12/03(Mon)
子供のころは病気で周囲をだましていた。だまそうとしてでなく、自分の都合で不思議に発熱や腹痛になった。精密な検査をされると何らかの項目で「異常の疑い」がかかり、何らかの診断名がついて薬まで出されるのも不思議だった。病院も検査も嫌い。「虚弱な子」呼ばわりされるのも嫌い。しかし「病気」というところには日常からの脱出があったし、自分なりの安心もあったのだと思う。

意図的ではなく無意識的に、いろんな病気を出せる。人にはそんな能力も備わっているかもしれない。
人だけではない。炎症で足を引きずっていたペットの犬が、すっかり治ったあともおかしな歩き方をする。医者がピンときて、「病人あつかいしないように。同情せず特別あつかいもせず、素知らぬふりをしているように」と飼い主さんに指示したら、数日でふつうに歩けるようになったという。
半信半疑だったが、自分も後年に同じことを目撃した。
若いネコたち七匹を一ヶ月の間ワケありで預かった。事故で腰がつぶれて半身不随のが一匹いたので、特別待遇でエサも別にした。すると残りのネコたちが次々と足を引きずりだした。どの足かを地面につけるたび、ギャッといって身を縮こませるが、私が足を押してもつまんでもけろりとしている。
異常を訴えたのを特別待遇に切替えてゆくと、足を引きずるのが増え、奇病の伝染かと驚いたが、全員が何らかの不調を表現するに至ったとき、彼らはおそらく愛情に飢えている、かまってほしいのだと感じた。
手に負えなくなったので特別待遇を完全にやめた。すると数日のうちに全員の異常が見られなくなった。
他人に納得いくような証明はできないが、親ネコに引き離され、見知らぬ人間に預けられたという状況から、愛情の飢えがもたらした現象という解釈はじゅうぶん成り立つと私はみている。

治療にたずさわる人間のあいだでは口にこそされないものの、「そんなの常識」と思われている。
病人の置かれた状況を見て、「治るよりも、治らないほうが、この人にはいいことなのかもなあ」と思われる場合が少なからずあるのだ。「周囲の愛情やいたわりに飢えていないか」ということは目安になりやすい。
「もしここが野生の王国だったなら」とは、ある治療家さんの話。
「野生の動物たちは具合がわるければ死を意味する。捕食者につかまって食べられるか、狩りで獲物をしとめることができずに飢え死にするかのどちらかでしょう。それが野生のおきてなんです。野生の王国に病人はいない。のんびり病気なんかしていられないんですよ。うちに来ている患者さんの九割以上は野生の王国に放り出されたらすぐに治って元気になると思いますね」

病気は自己表現だったり、自己主張だったりすることもある。どこからどう見ても、どこをどう検査しても、病気にまちがいないというケースの中にも、「あんまり積極的に治したくない」「治ったら治ったで困る」と無意識に思われる病気が少なくないかもしれない。
難病を長くわずらっている方が、「治したくない気持ちもないことはない」と話して下さったことがある。
家にいたくない。いたくなるような家ではない。過ごしたくなるような日常ではない。入院にはむしろ日常から解放される安心がある。病院スタッフはみな親切で、何かと世話をやいてくれる。「病気でたいへんなのだから」という、目に見えないいたわりに包まれて、自分でも自分を許すことができる。そこからわざわざつらい努力までして積極的に脱け出そうという気持ちを、持つことは今のところできそうにない。

何がなんでもほんとうに治したいと思ってちゃっちゃと取り組み、さっさと病気を卒業してしまう。生活改善のがまんなど一時的なこと。元気になれば復帰できる。卒業後は一日も早く人生の戦場へと復帰を果たしたい。そういう人は病気のほうから逃げて行くのかもしれない。
元気になったら戦場に戻されるとなると、ほんとうに誰もが病気から卒業したいと望むだろうか。戻りたいと思える日常を自分の心に描き、自身の安心を病気に求めるという誘惑に打ち勝つ自信はあるだろうか。
戦場に戻るも戻らぬも、各自の判断と選択。病気はたしかに不幸で不健全な状況だしベストな選択とも思えないが、「こういうやり方も有効例が多い」という話だけで拒絶にあうことも少なくない。「そんなことするくらいなら病気でいたほうがまし。死んだほうがましだ」。そういう場合はムリに治すことはないし、恐らく結果は期待できない。本能的・潜在意識的な部分では病気も本人の生きる戦略の一つとして立派に成立しているのかもしれないからである。
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