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せっせと体をととのえる-流れの復旧作業に取り組む日々-
2012/09/02(Sun)
前の日までゆったり流れていた川がかれた原因を上流に求める。1キロ上流の土砂崩れで流れがふさがれているかもしれない。2キロ3キロ上流に巨大な岩石がどっかと腰をすえているのかもしれない。
腕が挙がらなくなる。指先に、足に、きちんと力が入らなくなる。動くべきところがきちんと動かないというとき、操体法では川の流れのようなものとして、力の流れるコースを見るという見方がある。
それが「連動」だ。
「階段をおりにくい」「歩くとひざが痛い」「ものを握ると、腕や手に痛みやしびれがある」。さまざまな訴えを一つにまとめると、「どこそこの動きがわるい」「動かすと違和感がある」つまり「動かしにくい」ということだ。

じっさいにその動きをやってみせてもらう。すると筋肉の流れにそって、力が水の流れのように伝わっていくのが見える。流れは一本とは限らないが、流れのどこかが途中でつまっていたり、よどんでいたり、本来のコースをはずれて妙な迂回をしていたり、いらぬ枝分かれをしていたりするところに大小の土砂崩れの場所=コリを見るのである。
コリは筋肉の硬くなったカタマリである。大きさも形状も手触りも、さまざま。ゴマ粒大や米粒大、はては握りこぶしの大きさなど。弾力のあるものや弾力を失ったもの、カチカチに固まった筋肉組織もある。

「連動」で処理をしていくことに慣れてくると、ヒザが痛いというからヒザをみる、肩がおかしいというから肩をみるというのは理解不能のナンセンスである。
なぜ川を、さかのぼってみないのだろう? さかのぼっていけば、必ず土砂や岩石が流れをふさいでしまっているというのに。
流れが改善されないままになれば、ヒザもこわれてくる。「ああこれはヒザを手術しましょう」となってくるが、それはもっと早期に適切な処置を怠ったツケなのだ。
「動かしたら違和感がある」という段階は「機能の異常」。「動かしにくい」「動かすのに無理が生じる」という段階で、組織の健全さはまだ失われてはいない。
そのまま問題解決にいたらず無理を続ければ、「器質破壊」へと進む。組織が悲鳴をあげて、こわれる。そこで「ああもうこのヒザはダメですね」というわけで、人工関節の手術などと言われるのである。

器質破壊の段階に進んだ状態であっても、「連動」で重い岩石が取り払われると、「あ、軽く動く」「ラクだ!」ということも少なくない。土砂や岩石を取り除いてやりさえすれば、海に向かう流れを取り戻してゆく。
だから自力の動き、操体法の動きで、土砂崩れの復旧作業を、毎日せっせとおやりなさいということだ。
こわれた組織が、どのくらい修復されるものなのか。それは本人の体の持つ力による。再生力、体力、自己修復力、治癒力などと呼ばれている。体の力をあらかじめ計測することは不可能なのだから、結果のことをあれこれ思い煩うのはまったく愚かなことだ。
黙ってせっせと、やるべきことに集中する。あとは神仏にでも祈ってご加護を願う。
基本的に人間にできることなどそのくらいではなかろうか。流れが復活して、枯れた大地がまた元の勢いを取り戻すのには時間も必要かもしれない。先に待っている結果は必ずしも百パーセントの回復ではないのかもしれない。しかし改善がよろこびであるのは間違いない。そのよろこびを千回、一万回、十万回と積み重ねて行った先に、不満があろうはずはないではないか。

どこに土砂崩れがあるのか。
それを見抜く目、見つける感覚を養う技術が、操体法の「連動」なのであると私は考える。
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