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人はいくつの声を持っているか?―かわいい裏声の檻から一歩出る―
2012/09/28(Fri)
地声。お坊さんのろうろうとしたお経の声をイメージするとはやい。腹式呼吸の発声だとああなる。
あの発声ができるようになった途端、人が変わったようになるケースもある。裏声でとりつくろっていた自分が急にバカバカしくなって人との対応から態度までがガラリと変わってしまう。変わったというよりむしろ、たくさんあった引き出しの鍵が一つ開いたということなのだろう。

舌は二枚舌三枚舌というが、発声もさまざまだ。人のふだんの話しかたはふだんの呼吸のやり方と大いに関連し、ふだんの心のあり方を大いに反映してもいる。キャーキャー上っ面ではしゃぐのは裏声に限る。地声であそこまでのテンションにはなりにくい。
テレビから聞こえてくるのはほとんどが裏声。男性ボーカリストの歌さえ裏声をうまく操るものが多い。文化全体、社会的傾向ともいえるかもしれない。

学生時代に知る人ぞ知る発声教室に高い受講料を払って通っていた時期がある。
受講生に美しい女性OLが一人いて、地声がいつまでも出せなかった。何ヶ月か指導を受けていろんな方法を試すうち、濡れタオルを振り回したはずみで「ええ~い」ととんでもない声が飛び出した。ドスのきいた男性的な声に一同驚いたが、一番びっくりしたのは本人。口を押さえてぽかんとしていた。
後に話を聞いたところによると、その後、彼女は私生活で均衡を失ったという。
「これが、わたし?」「これも、わたし?」「どっちがほんとうの、わたし?」
自分の中に隠されていた声。自分自身でも隠していた声。何と言ってよいのかはわからないが、それまで自分がとりつくろっていたのとはちがう、地の自分とはじめて向き合った瞬間。それがあの「ええ~い」だったという。
「これまでの自分はいったい何だったのだろう」
裏声でとりつくろっていた自分が急にバカバカしくなった。職場でも少しずつ地声を出すようになり、人との対応から態度までがガラリと変わってしまった。その変化に自分自身も周囲にもとまどいがあり、混乱の時期があったのだという。
「でもそこそこ落ち着いてきました。使い分ければよかっただけのことでした」と笑っていた。

自分の地声を知らないまま過ごしている女性は私の身のまわりでも非常に多い。
裏声はつくった声である。心の底から「わっはっは」と豪快に笑うこともできないし、「なんだ、こんにゃろ~」と心の底から怒りを発することもできない。韓国の泣き女のように心の底から悲しみを吐き出すこともできやしない。裏声は、いうならば猿ぐつわであり、お化粧した声である。化粧された心を表す、実感の伴わない声といっていい。
地声にもまた、いろんな段階があり、裏声にもまたいろんな段階がある。
呼吸法や瞑想を繰り返していくことで、また引き出しの鍵が開き、中からいろんな「わたし」が飛び出してくる。地声ばかりを使っていては本人はよくても周囲に多少の迷惑になることもあろうし、裏声ばかりではほんとうの自分の心のありかがようとして知れない。ここは自分の地声も裏声も幅広く、いろんな場面に応じられる自在さを持つのがいいに決まっている。

本音とはほんとうの、音色。声は心。心は、音だ。
かわいいだけの裏声の檻から一歩踏み出して、自分のほんとうの音を聞いてもらう。そういうこともあっていい。腹の奥底を吐きだす声を使えるようになったら、本音を出しあい、本音に耳を傾けるものたちがおのずと集まって、力強いハーモニーをかもし出す。肩の力もおのずと抜け、腹もすわってくる。発声とは本来そういうものだとわたしは思う。
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「筋肉をゆるめろコリをとれ」と訳もわからずやっていたら宗教みたいだから
2012/09/25(Tue)
筋肉がゆるめば血流が復活する。血液があっさり流れてくれたら血圧も下がる。流れてくれないから力づくで流すのが高血圧。筋肉をゆるめずに降圧剤を使うと脳への血液の供給が低下。脳がやられてボケがくるという専門家の意見もこれで合点がいく。血圧の高い人は血流が落ちている。血流の落ちる理由は筋肉が固いからなのだ。

筋肉がゆるめば自律神経の働きも回復する。そう橋本敬三医師は言うのである。自律神経の働きが回復すると五臓六腑の機能も回復する。つまりは全身の機能が回復するということだ。
病気の名前がどんどん増えて、家庭の医学書もものすごい厚さになっている。その万病の症状を一つ一つ調べていくと「体調がわるい」の一言につきる。日常を気持ちよく送れない。快食・快便・快眠がそこなわれていない病気などは一つもない。
病気とは、五臓六腑の働きが本来ではない。体の機能が混乱し、じゅうぶんではないということだ。その働きをつかさどっているのは何か。自律神経である。だから「自律神経の働きが正常になることで病気から解放されます」「自律神経の働きを保っておれば未病も防げます」というのが橋本敬三医師の意見である。そういう医学的な説明と意見が『万病を治せる妙療法-操体法-』(農文協)というタイトルになっている。精神的混乱・精神機能の不順というのも、もとをたどればここに帰結する。「筋肉をゆるめろコリをとれ」というのは万病に共通の処方箋ともいえる。

現代医学には万の病気に万の治療法がある。製薬会社は万どころか二十万種以上もの化学物質を私たちに提供してくれているが、病気でない人には副作用しかもたらさない。多少なりとも危険と害悪を伴う治療なので、その責任を一手に引き受ける責任者を必要とする。だから医者はたいへんな仕事なのだ。そのお医者さんが操体法で決まりだと言っている。東洋医学、とくに手技療法の場合、万の病気すべてに共通したやり方である。病人と病人でない人とを区別しない。とくに健康に問題ないという人も取り組めば健康増進をはかれるというやり方である。
病気で弱った体にも安全で、病気でない体にも有益だというやり方。たしかにわるいことは何一つない。
「失うものは何もありません。やってみてください」と橋本敬三先生が胸を張って言われたゆえんでもある。

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化粧しない女の顔ははだかと一緒だと言われた-恥じることも誇ることもなくはだかで勝負しようか-
2012/09/23(Sun)
十八のときは化粧で遊んだが、その後は二十代で一度だけやってみた。
鏡には年増の女の顔が映りこんでおり、化粧がかえってみっともなく思われた。もう自分は化粧はしないと、はっきり思ったのを憶えている。

インディアンの老人たちの日に焼けた顔の写真。なめし皮のような肌に、くっきりと刻まれた力強いシワ。生きた証だとでもいうような、その堂々とした美しさに私は打ちのめされる。十代の化粧した自分の、商業ベースにのっかった顔の美しさなどは足許にも及ばない。
彼らの顔から理解されるのは、化粧で競う段階よりも、はだかの顔で競う段階のほうが、人間にとってはるかに重要なのだということ。
はだかの顔を恥じることも誇ることもなく、白日のもとにさらすこと。
それも自分の顔に責任を持つ一つの方法、やり方だろうとわたしは思う。

はだかの顔に色を塗らなければ、みっともないと思うその心は何なんだろうか。
仮面をかぶせた顔に安心し、さらに誇りたがりさえする心とは、いったい何なんだろうか。
隠したり、仮面をかぶせることもまた、自分の顔に責任を持つ、一つの方法、やり方なのだろう。お金をためて、顔の造作(鼻の高さ、まぶたのつくりなど)をつくろったり肌のなめらかさをつくろったりするために、メスを入れてもらったり樹脂を注入してもらったりするのもまた、自分の顔の責任のとり方の一つなのだろうと思う。
しかしインディアンの老人たちの、あの飾らない表情の美しさはどうだろう。
表情が顔をつくっている。そしてその表情は、人の心が、精神が、つくる。顔など目鼻がついていればいい。変えられない生まれつきの造作のことなどはどうでもよい。しかし長年の表情の積み重なりが、顔をつくり、育てていく。長年の心の積み重ね、精神の積み重なりが、顔をつくりあげていく。
こっちのほうは、おおいに自分自身で責任をとらなければならない。
たとえどんな境遇にあろうとも、こっちの方面ならば誰もがいくらでも自分自身で取り組むことができるのである。

つくろいようもない、隠しようもない、自分の顔というのがある。
自分の顔をより完成へと近づけてゆくという歩みの中に、顔の美しさを見る。
そういうことがもっとあっていい。
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感謝の心で体をととのえる-症状におびえず、慢心もせず-
2012/09/21(Fri)
「症状が出たからといって騒ぐんじゃない。症状がないからといって慢心するんじゃない」
私たちが先生から二十年がかりで教わってきたこと。
「症状は、関係ない。症状に振りまわされるな。症状が出ようと出まいと筋肉をゆるめてコリをとれ」
先生は徹底している。この二十年ぜんぜんブレない。

私たちは、それでも騒ぐ。ちょっとしたことで不安にかられ、痛いのつらいのと毎度の騒ぎである。
予約日まで自力でしのぐか。家族や心当たりで予約日をゆずりあうか。ふだんの自分たちが、どのていどほんもので、どのていどいい加減か。じっさいの症状にどれだけ応じられるかで明らかになってしまう。
何か症状が出るたび病院に駆け込む人も少なくない。いや、それがほとんどかもしれない。家人もその一人だが、それは本人の自由だからわるいことでも何でもない。主人公は患者自身。自分の人生だ。何をどうしようと堂々と判断し堂々と実行すればいい。

症状が出たからといって騒がず、症状がないからといって慢心することもなく、日々筋肉をゆるめてコリをとる。実行しようとしまいと基本は基本。基本は根っこだから、ぐらついてちゃいけない。症状が出ても、「あ、近ごろ少々怠けてたかな」くらいのことで、慌ててみてもしょうがない。
症状もそう長くは続かない。おさまれば、自分の回復力に感謝して、日常に戻るだけのこと。

操体法で体をととのえるのは、雨の日も風の日も晴れの日も、一日一日を過ごせることへの感謝の心だと私は考える。
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ふだんの何気ない動きの中に、体のかたさがひそんでいる。
2012/09/17(Mon)
弱れば寝返りがうてなくなる。寝た姿勢からスムーズに起き上がれない人などはいくらでもいる。エイヤと声を出したり勢いで起きるのでは、すでに体がじゅうぶん固い。

仰向けでもうつ伏せでも、力を用いるのではなく、ゆったりしぜんに起き上がるともなれば、できる人は案外と少ない。
右を支えとして起き上がれはするが、同じように左を支えで起き上がれるというのもむずかしい。右か左か、どちらか一方ならできるが、逆の側で同じように起き上がれる人など、まずないだろう。

上半身に力をこめることなしに、手足にじょうずに体重をのせかえてゆきながら、無理なく体重移動で起き上がるには、どうすればよいのか。
自分の体と相談しながらやってみる。
すると、やりにくい理由もわかってくる。自分の体がかかえる課題が、より具体的に把握できる。

仰向けから起き上がるほうがやりやすいか、うつ伏せからのほうがやりやすいかは、体のどこに固さが分布しているかによって異なる。
仰向けに寝た状態から無理なく起きるやり方の一つ。体を左右どちらかに寄せてゆき、身を縮め、手足を支えとして身を起こす。そのさいに腰がねじれ、腰から首筋にいたるまで左右のどちらかの半身が引き伸ばされ、どちらかは縮まらなければならない。
このとき大抵の場合はどこかにツッパリを感じたり、痛みを感じたりするのである。

じゅうぶんに伸びない筋肉の固さがツッパリとして感じられたり、痛みとなって感じられることもあろう。じゅうぶんに縮まってくれない筋肉の固さが圧迫と感じられたり、痛みに感じられたりすることもあろう。
①一番やりやすい起き上がり方を、自分の体と相談しながら見つけていくのに、そう時間はかからない。誰に習わなくても誰にでもできる。本来ならカンタンな動作である。
②やりやすい起き上がり方を見つけたら、次はまったく左右逆の動きを体と相談しながら見つけていく。これは少々勝手がちがうから、高度テクニックである。
一番やりやすい起き上がり方を、いくつかの段階に分ける。まず、体をどちらに倒しているか。どこで支えているか。段階別に、鏡で映したように、左右逆の動作を忠実にやってみるのである。

非常にやりにくい。自分の体なのに勝手がわからない。
しかしこれもまた、やればできないこともない。
やりにくいほうと、やりやすいほうと、勝手がわかったら、自分の体の動きにかなり詳しくなっている。
なぜやりにくいほうはやりにくいのか。なぜやりやすいほうはやりやすいのか。
どのあたりが伸びにくく、どのあたりが縮みにくい。どのあたりがねじりにくい。
そんなこともおのずと知れる。
わかってどうするのか? 体の不正を少なくしていくのである。

③やりにくいほう、やりやすいほうがわかったら、やりやすいほうの動作を三回、繰り返してやってみる。
一回やるごとに、全身を脱力してじゅうぶんに休むことが大切である。
④三回やり終えたら、やりにくいほうの動作をやってみると…あら不思議!できるわ!となったら成功である。
成功したら、それで終了。やりすぎるとせっかくの成果が水の泡となる。またやりたいのなら一時間や二時間の間をとって、やるのならいい。朝晩布団の中でやるのもいい。
「ぜんぜん変化なし」と思ったら、やり直す。やり直しは雑になりがちだが、やり直しほどていねいに行う。
やり直したあと、やりにくいほうの動作をやってみて、「あ、最初よりやりやすくなった」と思ったら、そこでやめておく。

起き上がり方は、仰向けとうつ伏せと合わせると計4種類ある。
4つのうち一番やりやすいほうからやっていくと、さいごはどれもまあまあ勝手がわかるようになる。
力をどこまで使わずにスムーズに起き上がれるか。
体に無理のない動きを身につけるための、一つの遊びである。
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サマになる・サマにならない。どこがどう違う?-腰を入れる・腰をすえる-
2012/09/14(Fri)
すでに正座のできなくなっている体もあろうが、正座ができるといっても足を重ねず、足の裏全体が左右対称の状態で座るとなると、足首の柔軟の問題により、正座できない人の数はぐっと増える。

何をやるにせよ、上半身から余分な力が抜け、下半身が充実しているのはものごとの基本。何がちがうといって構えに差が出る。肘が開いていかり肩。ぺたんと尻もちをついていたり、へっぴり腰でアゴが上がっていたり。これじゃサマにならない。
力が抜ければおのずと脇はとじ、肩はいからず、腰が伸び、アゴも上がりはしない。効率のよい動きが実現し、疲れもしなくなる。

基本の姿勢を身につけるのに、正座の姿勢が役に立つ。日々数分からの坐禅である。
①左右対称に開いた足の、土踏まずのところに、尻をどっかりと据える。
ヒザはこぶし一つ~二つぶん開いておく。

②腰を、入れる。
尻の上のあたりを、後ろからそっと手をそえてもらうイメージがよいようだ。
腰を入れると同時に、下腹を前にやや突き出す。ヘソの奥に重りを吊り下げるイメージで、下腹に力を充実させる。骨盤の角度が変わるのがわかるはず。これで上半身の力が降りてきて、下半身が落ち着く。

ここに上半身のバランスをつけ加えていくのだが、すでにここまででもじゅうぶん役に立つ。ふだん椅子に座っているときも、立っているとき歩いているときなども、四六時中、仙骨あたりを後ろで支えてもらって、下腹を突き出し、ヘソの裏に重石をきかせる。そのようなイメージを繰り返しておく。
さいしょのうちは「拷問」にかけられているかのようにつらい苦しいばかりかもしれない。
正座は正しい座り方と書く。正しい姿勢とは、ラクな姿勢のことに他ならない。それがつらい苦しいというのはなぜなのだろうか。

体に不正のある人間は、正しいラクな姿勢こそが苦しく感じられるのだという。
日々三分からでも正座を実行し、操体法で体を調えれば、なるほどと実感する。体の不正が減るにつれ、不調も消えてゆくのもおのずと納得されてくるだろう。

(注)下腹を充実させているつもりが胃のあたりを緊張させてしまうことが多いという。胃の付近で力まないよう気をつけないといけない。
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モビールの中を風が通り抜けてゆく-心と体のバランスを見る-
2012/09/12(Wed)
体のバランスをととのえる、心のバランスをととのえるとはいわれるが、あいまいである。「そのバランスとやらをここに出してみろ」と問われたらどうするか。

目に見えないバランスを見やすくした装置。
いろんな形や重さのちがうものを、いろんな長さの糸で吊り下げ、自由に動けるようにした「動く彫刻」。それがモビールだ。
一つの棒の左右に重さのちがうものを吊り下げると、重いほうに傾いて無理が生じるところ、別のつりあいを持つものを連結していけば、どちらにも傾くことなくつりあいがとれてゆく。
それ一つではつりあいがとれなくとも、連結を繰り返すことによって、どの部分もすべてつりあいがとれるようにする。そしてさらに全体で大きな一つのつりあいがとれるようにする。
つりあうはずのないものが、つながることでつりあう。

モビールの先にぶらさがったものを一つつまんで軽く引く。すると、水面に波が広がってゆくように、一本の糸から動きが伝わり、あらゆる部分の棒が傾いてゆく。まさに操体法でいう連動といっていい。
つまんだものを、ぱっと離す。全体がゆらゆら揺れる。つりあいが、右へ左へとこわれては、回復する。連結した部分から次の連結へ、さらに次の連結へ、新しいバランスを互いに伝えあい、全体で元のつりあいを回復してゆく。

からだに無理のないよう、全身まんべんなく使う。そのために、重心移動の法則を身につけよう。
そのような提案が操体法の橋本敬三医師からあったのだ。
これが長い間ピンとこなかった。
「重心移動の法則」と、「連動」というのは、わけて考えるものではない。同じことなのだ。
重心移動は重力に適応した体の動きに注目したものであり、連動は、体の内部の構造に注目したものなのだ。
人体を、精巧なつくりの、大きな一つのモビールとして考えれば、そこに重心移動の動きと連動とが同時に見てとれる。
動きとは、モビールのあらゆる部分のつりあいをこわしては、新たなつりあいを回復させる、風のようなもの。
モビールの中を、たえず風が通り抜けてゆく。
一瞬たりともやまない風の中で、一つのバランスに安住することなく、一瞬一瞬の中に新しいつりあいを更新してゆく。重心移動と連動は、理論ではない。日々の日常で当たり前におこなわれている事実である。
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適度に踏まれれば強くなり極度に守られれば強さを失ってゆく-自然の法則-
2012/09/10(Mon)
温室生活である。
食べものも着るものも住むところもある。雨風をしのぐどころか、温度調節システムで暑さ寒さをしのげさえする。いっそ町全体を閉鎖空間にすれば、夏バテも冬の寒さも知らずに快適に過ごせそうだ。

適度なお金と衣食住の足りた先に、人は何を望めばいい?

水族館の大水槽の中を、日がな一日泳ぎ回るおさかなたち。動物園でお世話されているライオンやパンダたち。彼らを眺めているうちに、けっこうなご身分だと感じたことはないだろうか。
しかし彼らに備わった力を発揮する舞台は、果てしない大海原、きびしい自然環境以外のどこに求められるか。天に与えられた力をほとんど発揮することなく、自分に備わった力を知ることのないままに、過ごす彼ら自身の、気力体力の充実はどのようになっていることだろうか。

人間の気力体力の充実と、さかなや動物たちの気力体力の充実は、一致するところもあれば一致しないところもあるだろう。
何が一致をして、何が一致をしないのか。
そこが人間とその他の生きもののちがいともいえよう。彼らと自分とはちがうのか。それともまるでちがわないのか。
さいわい少々は自由になる足もあり心もあるようだから、温室をちょくちょく出たり入ったりしながら、ときには考えたりも、する。
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お金ができて生活はラクになったか-気力体力の充実こそがカギ-
2012/09/08(Sat)
お金があればあるほど将来がほんとうに安心になるのか。
お金があると、いろんなことができるようになるのだろうか。

人の生活ベースはお金の額で変えることはできない。もともと好奇心の強い人は、お金があろうとなかろうと好奇心が強い。お金がなければないなりに、勉強好きは何とか勉強しようとし、遊びの好きな人はお金のかからない遊びを工夫する。
「お金がなければなんにもできない」とよくいわれるけれども、そのようなことは決してない。
その逆ならば、ある。
目の前に山ほど黄金が積んであっても、なんにもやる気が起こらなければゴミの山とかわりはない。
体が弱ってしまえば、おいしいものを食べても感動がないだろう。
気力体力の充実は、事ほど左様にたいせつなものなのだ。
お金しだいではない。その人しだい。人間の側しだいであると、思う。

身も心もけずってお金のために仕事をしている人がある。家人もその一人だ。
「定年」という与えられた目標。そして「老後の資金」という、これまたどこかで叩きこまれた目標が、家人の「いま」をずっと支配してきた。その目標の達成に日々身をけずり、心をけずっている。操体法で体をととのえるのも、そのきゅうきゅうとした生活を一日も長く続けるためである。
「いくらまで稼がないと自由の身にはなれない」。そう言うのだったら、借金のかたに身を売られでもしたかと問いたくもなる。生活も何だかすさんでしまって、「だってこうするよりほかにないんだもの」「こうして生きていくほか道はないんだもの」などと言っている。思考が檻に閉じ込められて、一歩も外に出られない様子だ。

体がまずまずじょうぶで、こころざしもしっかりしていさえすれば、人は自分の頭を使い、手足を使い、何ほどかのことはできそうなものだ。お金の収支バランスは立派でも、心や体のバランスまではとってくれない。
まだ元気もそこなわれていないうちから「将来への不安」を人生の中心に置いて、べつにやりたくもない勉強をし、べつに行きたいとも思わない大学へ行き、会社で苦痛な作業をさせられ、いやいや生きているほかに、生きる道がほんとうにないとでもいうのだろうか。
そういつまでもいつまでも「将来の不安」に生活をのっとられてしまって、よいものだろうか。
顔色が妙なふうになってゆく家人に、「きっと幸せにしてあげる。将来のことはこっちにまかせな」などと声をかける。そのたびに、「何言ってんの、わけわかんない、アハハハハ」と笑い飛ばされる。しかし半分くらいわたしは本気なのだ。お金持ちにはしてあげられないだろうけれど、いっしょに力を合わせて幸せになろうよと思う。

過去にも未来にもおかされることのない、いま目の前にあるもの。いま自分の手にしているもの。
それが、私たちの掛け値ない財産すべてだ。
「いま」を充実させ、「いま」をほんとうに輝かせること。そこに力を注いでいればいい。充実した輝きを持つ一瞬一瞬の「いま」を積み重ねていく先に、何のわるいことがあろう。

二度とはない、貴重な自分たちの、「いま」。過去にも未来にも、決してそこなわせてはならない、大切な「いま」を見つめて。
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貯金の額で勝ち負けは決まらない-人生の勝者は顔でみる-
2012/09/06(Thu)
のどが渇く。小銭があればコンビニに入ってジュースを買うだけのことだが、金がなければどうするか。頭も体も使うしかない。どこかに金は落ちてないか。事情を説明してお金を借りるか。水道でも飲める場所をさがすか。いずれにせよ渇きもしばらくガマンする他は、ない。
コンビニでジュースを買うのと比べれば、はるかに高等テクニックが要求されるだろう。

お金には妙な落とし穴が待ち受けている。
お金で済ませるのは便利だが、便利の中身は、自分の努力を省き、モノや他人に頼るということである。
「お金にタマシイを売り渡す」というのは、じっさいは「他人にタマシイを売り渡す」ということに他ならない。
お金の不足が自分自身の工夫と努力を促す。時には暴力や盗みといった悪知恵も浮かぶ。コップ一杯の水の不足でさえ、人間性が問われることもあるのだ。

お金がない分どう切り抜けるか。お金以外の方法を模索する。モノや人にできるだけ頼らないやり方をイメージすることで、自分の才覚と体の機能が磨かれることになる。それなら貧乏からは多くの才覚ある人物と行動力のある人が出てきそうなものだが、そう単純でもなかろう。
「貧乏に負ける」とか「貧すれば鈍す」とかいう言葉がある。お金がなくて困ると、かえって容易に「お金にタマシイを売り渡す」ことを身につける機会も多い。貧乏にだって妙な落とし穴が待ち受けているのである。
私は子供のころ、幸いにしてディオゲネスのことを知った。金がない金がないと嘆いて暮らす母に、この哲人の存在を知らせようとしたが、うまく伝わらなかった。マイホームなんかなくても、自分の体が入るだけの大きなタルの中に住んで、読書と思索三昧で乞食生活を送る人が、アレキサンダー大王の時代にいたのだ。お金にも社会的地位にも妥協せず、周囲からも尊敬されていたというのが、なんともかっこよかった。「これだ!」と子供心に思った。ディオゲネスという人の生き方が、自分たち家族の困窮の、一つの解決を指し示している。そう思われてならなかった。

お金がないことそのものが問題の中心ではない。お金がないことをどう受け止めるかが問題である。たとえ食べ物が粗末で少なかろうとも、それをまったく苦にしないのだったら、どんなにか心強いことだろう。
ディオゲネスの生活は、はたから見れば狂人もしくは負け犬とさえ見えるのかもしれない。人生に勝ち負けをいうのもなんだが、笑って生きている人は間違いなく勝者に見えるし、暗い顔して生きているのはどこから見ても敗者にしか見えない。
貯金の額で人生の勝ち負けを見るのより、顔のほうがよっぽど正確ではなかろうか。
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毎日がオリンピック-生活の舞台で満足のゆくパフォーマンス-
2012/09/04(Tue)
患者の立場で生きていたころは、黙っていても勝手に治してくれるものだと信じていた。
病院の診療に慣れるとそういうことになってしまう。
病院は患者さん一人につき3分程度でけりをつけなければ回っていかない仕組みを持つ(保険外診療の病院やクリニックは別である)。

「治してほしいのなら、どこを、いつまでに、どのようになるくらいまで治したいと、きちんと要求を出せばいい」と、ある人が言っていた。そうでないと、あいまいになってしまうと言う。
うちの師匠はべつになんにも言わない。しかし二十年も毎週足を運んでいれば、およそどういう方針か見えてくるものはある。十年以上通ってくる患者さんたちは、さすがに心得たもので、注文があれば手短に、ぱっぱと必要なことを伝えていく。要求を出しさえすれば、要求に忠実なフォーカスをしてくる。要求がはずされることは、まずない。そこに信用と信頼が築かれている。
要求のあいまいな患者さんは要領もわるく、痛いのつらいのと言ううちに施術の時間が終わってしまう。治りたいということに集中できず、むしろぐちを聞いてもらって安心したいという要求のほうが強いのかもわからない。

いつまでに、どのくらい治れば、患者として納得できるのか。
そういう基準も目安もないままに、どうして「治療がうまくいっている」とか「うまくいっていない」とか評価できるのだろうか。自分が患者さんの立場にいたころのことを振り返ると、不思議でならない。
熱心な患者さんにも二通りある。「治してもらうこと」に熱心な患者さんは、治ることを人一倍望んではいるように見えるが、治すのは「どこかの立派な専門家がやること」と思いこんでいるふしがあり、熱心なわりには真剣に取り組む姿勢が見られない。
「とにもかくにも治るということ」に熱心な患者さんというのはオリンピックの選手のようなものだ。じっさいに走ったり飛んだり、生活の舞台でパフォーマンスするのは自分自身に他ならない。自分の取り組みがうまく運ぶよう、客観的に見てもらって的確なアドバイスをもらうため、監督さんである医者や治療師さんのもとに足を運ぶ。
監督えらびは結果を左右する重要なことだ。しかし監督さんも毎日そばでつきっきり面倒みてくれるわけでもない。ましてや自分にかわって記録を出してもらうこともできない。

24時間体と向き合っているのは自分自身。「自力療法」である操体法の強みはまさにそこにある。
日常生活で納得と確信のパフォーマンスを実現する。そこに意識を集中することが、満足のいく結果につながるカギであるだろう。
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せっせと体をととのえる-流れの復旧作業に取り組む日々-
2012/09/02(Sun)
前の日までゆったり流れていた川がかれた原因を上流に求める。1キロ上流の土砂崩れで流れがふさがれているかもしれない。2キロ3キロ上流に巨大な岩石がどっかと腰をすえているのかもしれない。
腕が挙がらなくなる。指先に、足に、きちんと力が入らなくなる。動くべきところがきちんと動かないというとき、操体法では川の流れのようなものとして、力の流れるコースを見るという見方がある。
それが「連動」だ。
「階段をおりにくい」「歩くとひざが痛い」「ものを握ると、腕や手に痛みやしびれがある」。さまざまな訴えを一つにまとめると、「どこそこの動きがわるい」「動かすと違和感がある」つまり「動かしにくい」ということだ。

じっさいにその動きをやってみせてもらう。すると筋肉の流れにそって、力が水の流れのように伝わっていくのが見える。流れは一本とは限らないが、流れのどこかが途中でつまっていたり、よどんでいたり、本来のコースをはずれて妙な迂回をしていたり、いらぬ枝分かれをしていたりするところに大小の土砂崩れの場所=コリを見るのである。
コリは筋肉の硬くなったカタマリである。大きさも形状も手触りも、さまざま。ゴマ粒大や米粒大、はては握りこぶしの大きさなど。弾力のあるものや弾力を失ったもの、カチカチに固まった筋肉組織もある。

「連動」で処理をしていくことに慣れてくると、ヒザが痛いというからヒザをみる、肩がおかしいというから肩をみるというのは理解不能のナンセンスである。
なぜ川を、さかのぼってみないのだろう? さかのぼっていけば、必ず土砂や岩石が流れをふさいでしまっているというのに。
流れが改善されないままになれば、ヒザもこわれてくる。「ああこれはヒザを手術しましょう」となってくるが、それはもっと早期に適切な処置を怠ったツケなのだ。
「動かしたら違和感がある」という段階は「機能の異常」。「動かしにくい」「動かすのに無理が生じる」という段階で、組織の健全さはまだ失われてはいない。
そのまま問題解決にいたらず無理を続ければ、「器質破壊」へと進む。組織が悲鳴をあげて、こわれる。そこで「ああもうこのヒザはダメですね」というわけで、人工関節の手術などと言われるのである。

器質破壊の段階に進んだ状態であっても、「連動」で重い岩石が取り払われると、「あ、軽く動く」「ラクだ!」ということも少なくない。土砂や岩石を取り除いてやりさえすれば、海に向かう流れを取り戻してゆく。
だから自力の動き、操体法の動きで、土砂崩れの復旧作業を、毎日せっせとおやりなさいということだ。
こわれた組織が、どのくらい修復されるものなのか。それは本人の体の持つ力による。再生力、体力、自己修復力、治癒力などと呼ばれている。体の力をあらかじめ計測することは不可能なのだから、結果のことをあれこれ思い煩うのはまったく愚かなことだ。
黙ってせっせと、やるべきことに集中する。あとは神仏にでも祈ってご加護を願う。
基本的に人間にできることなどそのくらいではなかろうか。流れが復活して、枯れた大地がまた元の勢いを取り戻すのには時間も必要かもしれない。先に待っている結果は必ずしも百パーセントの回復ではないのかもしれない。しかし改善がよろこびであるのは間違いない。そのよろこびを千回、一万回、十万回と積み重ねて行った先に、不満があろうはずはないではないか。

どこに土砂崩れがあるのか。
それを見抜く目、見つける感覚を養う技術が、操体法の「連動」なのであると私は考える。
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