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何を考え、どんなことを感じて過ごしている自分なのか。
2012/08/16(Thu)
出てきた結果がすべてである。結果が出なきゃ意味はない。惰性で毎日を生きて過ごす。それが私はイヤなのだ。
生きる姿勢を改善し、人としてのあり方を改善していくために、健康法があり生活改善がある。それが自分の原点だろうと思う。
鼻づまりを治すだけのために六歳で全身麻酔の手術をされて、そこから十年近く病院通いで検査や薬漬けの生活を送った。呼吸するところからつまずいて、食う飲む寝る出すといった、犬猫さえできる当たり前のこともまともにできず、小学生の私はすでに生きることに疲れていたのである。
「なぜこうまでして生きていなきゃならないか」。だるい心とだるい体を引きずるようにして過ごした。首につけられた鎖で引きずられる犬の気分で、イヤイヤ生きていたのである。
「もう死ぬか」どうしてもそちらのほうに流れてゆく。十二歳のときこっそり台所で包丁を取り出して手首にあててみたが、刃物を握る手にまったく力が入らない。無理に死ぬというのは、やはり相当な無理があると感じた。

どう考えても自分は健全な小学生ではなかった。そんなところから脱出するために、最初にやったのが食の節制だった。菓子類をぜったい口に入れない。これなら自分一人ですぐに実行できる。
きっかけは桜沢如一の書いた文章である。「毎日がうれしくて楽しくて仕方がない」と書いてあった。そんなことあるのだろうかと驚いた。惰性以外の生き方があるのならと、大いに期待した。
子供の一途というのは恐ろしいもので、たちまち呼吸が改善し、食う飲む出すのほうもめきめきと改善をみた。病院も検査も薬もこれでおさらばだった。「毎日がうれしくって楽しくってしょうがない」というのが現実味を帯び、「食の節制さえ続ければいつかは到達する」と単純に思い込んだ。
しかし食の節制を継続するのはむずかしい。振り返ってみると拒食と過食を交互に繰り返しただけである。何度か集まりにも参加してみたが、食を無理に制限しようとするため、かえって食べることへの執着が強化され、頭は食べ物のことでいっぱい。これはむしろ不気味であり、健全とはほど遠い。
「そろそろここらあたりが限界か」
ほどほどに菜食し、ほどほどにヨガをやる。そこから出てきた結果以上の改善は、あきらめたほうが賢明かもしれない。そういう結論が出ていた。大検を取る意欲を出し、小学校の分数計算から取り組んで東京外大に進学したのは一定の成果だった。そして大学生活を楽しんだのも事実である。
しかし「毎日が心の底からうれしくて楽しくて」というのは自分には全くわからない世界だった。

大学を卒業したのは三十歳。その年に今の師匠にめぐりあった。しかし自分が操体法に向き合うのには、そこからさらに十年以上の月日が必要だった。師匠を通じた操体法とのつきあいは二十年に及ぶが、自分が操体法に向き合うには山歩きが必要で、さらにその後の交通事故で障害を負うということも必要だった。
何かの健康法をマスターすることが目的ではなかった。自分の体が自由になり、心が自由になるという結果こそが私の一番の関心事である。筋肉の質が老人のそれではなく、新生児のそれに近づくということ、弾力を失わない肉体と弾力を失わない精神ということが関心事である。表情や行動が円満で、おだやかな喜びに包まれ、安心と充足の中に生きるということにも関心がある。そのような自分の理想の感覚を長い年月にわたって導いてくれたのは操体法の実践であった。
ただ生きているというのではイヤだ。ただ食べて飲んで寝て、欲という鎖に引きずられて生きていくのは自分はイヤなのだ。頭痛や腰痛や疲労や、食う飲む出すといった消化器系の不振が解消されるというだけでは、自分としては全くの不足である。

結果がすべてだ。いま自分が何を考え、どんなことを日々感じているか。自分自身の成長が、自分の操体法への理解と習熟レベルを示すものであると私は考える。
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