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自然に法則はあるか。宇宙に法則はあるのか。
2012/08/31(Fri)
草むらに虫取りあみを突っこんで何度かすくってみる。こんないい加減なことでも、じっと目をこらしてみると、あみの中に何やら入っているものがある。
日常という草むらには何も住んでいないように思われるが、アンテナを張って虫取りあみを振り回してさえいれば、目に見えない自然の法則や宇宙の法則がいくつか引っかかってくるように思われる。
アンテナというのは身体に張りめぐらされた神経とその感覚。そして虫取りあみの一つが操体法。そのように私は考える。

「運命の偶然」という言葉がある。偶然というのはデタラメということ。公式も法則もない。つかみどころがなく、どう智恵をしぼったところでムダ。しょせん人間は偶然に振り回されるしかない。そういう世界観が「運命の偶然」という言葉から広がってくる。
「自然法則」とか「宇宙法則」という言葉はその逆である。
この世の中で起こることはデタラメではないということ。公式もあり法則もあり、人の智恵しだいではコントロールできる部分もあるということ。そういう世界観が「自然法則」とか「宇宙法則」という言葉から広がってくる。

日常を偶然で片付けてしまう楽観主義がわたしには強い。その一方で、日常の、偶然のように見えるものの中に、法則性を見出そうと、操体法でささやかな努力を重ねている自分もいる。
身にふりかかってくる火の粉を「一切は偶然だ運命だ」と全身で受けとめられればいっそせいせいする。しかし火は偶然に燃えるのではない。もともと燃料となるものがあり、いくつかの条件も加わわった結果、炎が上がり、火の粉が舞う。その一連の出来事の仕組みを、せめてわかりたいものだとも思う。

「もう全ては偶然だよ、運命のイタズラだよ」と片付けたほうが、いっそ早いのかもしれない。
法則がわかってきたからといって、ふりかかる火の粉の量は減らせないのかもしれない。
それでも、この偶然としか思えない自然や宇宙が、何らかの法則をもって運行しているというのは、おどろくべきことではないかとわたしには思われる。
私たちの暮らしの舞台そのものが、自然であり宇宙である。自然は海や川や山や、南極の氷のことではない。宇宙は高度なテクノロジーを駆使したロケットで行く、どこか遠いところではない。
他のどこでもない、ここが自然であり宇宙である。自然も宇宙も自分自身のことだ。
そこに法則があるということを、自分自身の体で実感をともなって感じられるということ。
それが感動以外のなにものでもないことを、操体法は教えてくれている。
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「しのぎ食」「ばっかり食」は人類を救う-その逆をゆけばどうなるか-
2012/08/29(Wed)
ご飯のお伴にぬか漬けばかり。どんなにおいしいものでもさすがに入らなくなる。「これ食べるくらいなら何も食べないほうがマシ」。見るのもイヤになるのが「ばっかり食」。
食べ飽きた定番なら少々の空腹では手が伸びない。だから食べ過ぎる心配もない。
ここで食べものの種類を増やすとどうなるか。
ぬか漬けは入らないが、冷ややっこにオクラとかつおぶしでもかけたら、イケる。
で、そのまま冷やっこを続ければ、それもだんだんとイヤになる。ところがそこにカレーなんか来ると、「まだ入る」。
なんのことはない。食べもののバラエティーこそが「大量に食べるための工夫」に他ならない。さらにジュースやビールなど飲み物を食卓にのせれば効果的。大量に食べられること請け合いだ。

地域の風土にあった昔からの調理法で、旬のものだけをいただく。
これを忠実に実行すれば、おのずと「ばっかり食」に近づいてゆく。それが「自然食」の原点でもあるだろう。
飢えをしのぐために食べる。それが「しのぎ食」のコンセプトである。空腹で動けないのも困るが、満腹で動けないというのもそれ以上の厄介を引きおこす。だから困らないていどに食べ、空腹は少しとっておく。
この「空腹を残す」というのがコツである。
空腹は敵だ。そう思いこんでいる人がいる。「あ空腹だ!」思ったとたんソワソワしだして、「さあこの空腹をやっつけなければ」とばかりに詰めこみ始める。若い人ならそれも頼もしい光景といえようが、ガツガツしなくてよい人までが苦しくなるまで大量に食べてしまう。飢餓はもちろんよくない。しかし適度な空腹こそが健康の友。むしろ味方である。
週に何回かの満腹なら、わるかろうはずもない。自分も少食とかいってるが、食べるときは周囲もかなわない。余力があるのだ。大切なのはメリハリと思う。昔は「ハレ」と「ケ」が暦の上でハッキリしていた。日本の昔からの生活文化がこわれてハレとケの区別もなくなって、もう毎日がごちそうだ。日本中世界中から手をかえ品をかえ、ごちそうが運ばれてくる。しかもテレビや新聞などで大々的に宣伝され、刺激もじゅうぶんに増幅されている。天井知らずの欲望には体がついていけなくなる。

お金さえあればまわりにある食べものが何でも好きに食べられる世の中。
見ようによっては残酷な世の中だ。
自制できなければ自滅。自分自身をコントロールできないということは、自分の周りの何一つコントロールできないということでもあろう。
何の備えもなく丸腰で街中を歩きまわり、看板や呼び声やにおいのするほうに気をとられ、足の向くまま店に入って食べ歩きする習慣だけは身につけたいと私は思わない。画面いっぱいに映し出される料理に目を釘づけにさせられながら、金で雇われたレポーターたちの歓声に耳をかし、「まわりにある食べものをいつ何どきでも好きに食べてよろしい!」と自分に向かって号令をかけたら、一体どういうことになるか。
何気ないこの日常にどれだけ危うい行為が隠れているか、身をもって教えてくれる教師たちに不足はない。まさに「君子危うきに近寄らず」だと思う。
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「しのぎ食」と「ばっかり食」で聞き分けのよい体を育てる
2012/08/27(Mon)
無理なく少食の感覚が身についたのは、歩くのを楽しみたいという欲求からだっただろう。
足ののろいわたしが日帰りの山歩きをすると、食事どころではなかった。登山口まで車をとばすだけでも二時間余り。そこから歩き始めて頂上行って帰るとなると、もう晩方。ほとんど夜になる。
「頂上まで気力体力をどうもたせるか」しか頭になく、ひたすら体をととのえながら歩く。どこをのぼるにも少々余裕が足りなかった。腹が減れば飢えをしのぐていど。一口入れてはもぐもぐもぐもぐもぐひたすら噛みながら歩く。もしくは休む。腹がふくれてしまってはわたしは歩けない。足も強くはなかったが、胃腸も強いほうではないのだろう。できるだけ飲まず食わずで体が動くほうが都合がよい。荷物も軽くなるし、胃腸の負担も軽くなる。

子供の頃からもともと外出先で飲み食いすることに慣れていない。どこに出かけるときも山歩きと同じように、小さいペットボトルに水を詰め、飢えをしのぐ「しのぎ食」として干し芋やドライフルーツを持ち歩く。三日や四日持ち歩いてもちゃんと食べられる。
旅先でもキャンプでも、ちょろっと持っていく。お守りのようなものだから、帰宅すると残していたりする。干し芋とプルーンはもう食べ飽きた定番。しかし空腹のときの安心を得られる。「しのぎ食」と「ばっかり食」とを兼ね、三日くらいならこれで楽しくしのげる自信がある。
べつに毎日毎日繰り返し、腰をかけて食べる必要もないんじゃないの。
いつの間にか、そういうことに自分の中ではなっていた。
週に一度の山歩きで「しのぎ食」のプチ断食のような状態をつくっていくうちに、ゆっくり腰をすえて食べるのこそ、週に一度か二度くらいでじゅうぶんという感覚が育っていった。
いちいち数時間ごとに食卓についていなきゃならないなんて、まったく不自由この上ない。食卓に縄をつけられて生きているようなものだ。

かえって不活発で体の動かない日にけっこう食べてしまう。
ムチウチで体調がととのわず、外に出られなくなった時期は、定期的な山歩きの習慣もくずれて食べる量が増量。それでまた体が動かなくなるという悪循環だった。
家から出られるようになると、だらだら食べるということが少なくなって体調もととのってくる。
だらだら食べるクセが出てきたら、とにかく外に出る。読書や書くことなら、どこでやろうと同じだから、もう歩かないでも外に出る。
「食べもの持って来なかったよ」と知らせると、体は「合点承知」。「食糧は干し芋とプルーンがこれだけだよ」と見せると「合点承知」。
しばらくむずかることもあるが、そのうちあきらめてくれる。

なんと聞き分けのよい子だろうか、とほめてあげている。
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言われるがまま手術台にのるか、手術台から勝手に降りてくるか
2012/08/24(Fri)
鼻がつまる子は手術しましょうと勧められた父は私を手術台にのせた。
扁桃腺がはれやすい子だから切除しましょうと勧められた母は、迷ったうえ、私を二度目の手術台にのせるのを断った。数年後にふたたび、この子の鼻の調子が改善しないから、ここも切るしあそこも切ると言われたが、さすがに少し考えたとみえて、食事療法の世界へと大きく舵をきった。

あのまま病院につきあっていたら五回や六回の手術台送りでは済まなかったはずだ。
その後も、たんのう切ります、盲腸切ります、子宮を切りますと機会あるごとに家族に何かしらお誘いがかかるわけである。足が痛いと言えば、これも「切ります」。「一週間後もまだ痛みが消えないんだったら切らなきゃ」と言われ、病院から足が遠のいた。

大学で文化人類学をかじったときに、切除の文化を知った。男性性器や女性性器を切除する文化的処置は昔から当然のように行われてきた。儀式的な抜歯や、身内の死のたびに指関節を一つずつ切断するなど、人間の文化にはとかく「切除」がつきまとう。
切除にともなう痛みも障害も、時には出る死者さえも、切除をとりやめる理由にはならない。
外部の人間から見れば「なんという忌わしい。愚かなことを」と痛々しい思いがすることも、内部の人々には何一つ疑いも迷いもない。内部の人間にはそうするだけの内部事情があり、合理性があると考えられている。ほかの選択肢に変更も可能だが、それは本人たちに決定権がある。文化とはそういう恐ろしさがあるということを、つくづく考えさせられた。

生まれて半世紀。六歳のときに一度メスが入った以外は、何とかまぬがれたが、その一度のメスの後遺症の名残を今もかかえている。日本の切除の文化の中を、手術なしで切り抜けていくというのはそれなりにたいへんなのである。
それとも、メスを入れられた数だけ自分の命が救われたのだと、心から感謝しなければならないのだろうか。
日本ほど手術が好まれる国もない。
自分の身のまわりにも、平均すると二度や三度はメスが入っている。何度メスが入ったかわからないような人も少なくない。五十代で臓器がぜんぶ揃っている人など、まれなのかもしれない。

「さすがに途中でおかしいと思いまして」と、手術台にのるのをやめ、「切らない医学」のほうに舵をきられた話をうかがう機会も多い。
こんなに手術台にのらないと、日本人は命をまっとうできないのだろうか。
いったい、一生のうち何回くらい手術台にのせようと思われている文化なのだろうか。
手術でそこなわれるもの、失われるものは、本当にないのか。
よいことづくめ、なのだろうか。
そういうこと、いちいち考えずに、言われるがままに手術台にのるのが、ものわかりのよい日本人で、手術台から勝手に降りてしまう患者などは、非国民か不良くらいにしか思われないだろうか。
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体という深い海へ向かって素潜りをする-海の底から聞こえてくる不思議な音-
2012/08/22(Wed)
自分の腰骨のふちをたどるようにして指で押さえてゆく。ピアノの鍵盤を初めて触れる人が、その音色に驚きをおぼえるのと同様に、いろんな感覚が味わえて不思議に思われるだろう。
指先から伝わってくる手ごたえも際限がなくいろいろだ。柔らかいところあり固いところあり、気持ちいいところもあれば痛いところもある。
ピアノの鍵盤を順々に押し、音の高低を楽しみ、押し方を変えてみて音の変化を発見しながら、いつまでも愉しむ。そんな楽器のようなところが、体にはある。
その中に鍼灸でいう「ツボ」もあるだろうし、操体法でいう「圧痛点」もあるだろう。
操体法の「圧痛点」とは鍼灸の「ツボ」のような場所のこと。必ずしも固定された場所ではないが、自分の所有する橋本敬三医師の指導テキストには重要箇所が詳しく伝えてあり、まったく重宝する。

「押す」というのはじつに楽しく、また際限がない。
鍼灸の専門の方や、ものの本によると、ツボも経絡も固定したものではないという。時代によって季節によって、各人によって時と場合によって、変動するものととらえられている。圧痛点もまた、テキストには重要ポイントが図示されているものの、「ここらあたりです」という目安でしかない。目安がなければないで困るが、たとえ目安があったとしても、圧をかける指先の操作によって感じられる感覚もちがう。
「圧痛点の中でも最大圧痛点を見つける」「最大圧痛点の痛みの感覚から逃れる動きをすればよい」などといわれるが、ここは経験にもとづく感覚がものをいう。
名人・達人というのは、圧痛点の場所も、圧のかけかたも、ちがう。
どんな場合に、どこをさぐって、どのような動きを誘導するのか。目を皿のようにして学ぶ。

「腕が挙がらない」というときに、圧をかけて痛みを感じてもらいながら、「腕を挙げてみてください」と声をかける。いくつかの圧痛点で試してゆくと、「あ?さっきは動かなかったのに。動きます動きます!」というポイントが見つかる。圧をはずすと、「あれれ?また挙がらなくなった」。
そういうのが重要な「圧痛ポイント」である。
そのような決め手となる「圧痛ポイント」をゆるめる。痛みや不快感覚が感じられなくなるような、姿勢なり動きなりを誘導する。それが操体法の匠の技である。
ツボや経絡と、圧痛点との関係は、必ずしもイコールではなさそうだが、橋本敬三医師によって何らかの関連が存在すると指摘されている。操体法の習熟には、ツボや経絡のことも少しは身につけておく必要がある。

「気持ちいい動き」くらいなら、べつに体操やストレッチの延長でやっていける。しかし「圧痛点」ともなると、先人の経験と教えを受けずしてその扱いを身につけるのは非常に困難なように私には思われる。
とりあえず乱暴にいうと、圧痛点とは「軽く押したときに痛みが強く感じられるところ」。強く押せばどこだって多少は痛みを感じるが、それは圧痛点ではない。ただ押された痛みである。
圧痛点はストレートにコリの場所を示すと思われがちであるが、そうではない。
体のゆがみや筋肉のコリの影響を受けて、さまざまな感覚を伴う痛みをもたらす場所である。
痛みや不快感覚は、鏡に映った姿のようなもので、「そのもの」ではない。
光の反射の仕方によって、見える映像がゆらめいていたり、映像の見える場所が変わってくるのと同じで、症状にとらわれていてはその痛みを発する光源(=コリ)を見つけることはできない。
「圧痛点の痛みから逃れる動き」で、体は修復される。圧痛点の痛みが半減もしくは皆無になったところでじっと動きを止め、一気に脱力をすると、さまざまな症状が瞬時に消える。そういうデモンストレーションを橋本敬三医師はやってみせている。

操体法は「筋肉のコリが万病のもと」という仮説をベースに成り立っている。「気持ちよい動き」も、「圧痛点」も、すべては外からは見えない。直接さわることもできない。そのようなコリを扱うための、方法であり技術である。
体の深部の感覚を探るのは、深い海の中へ向かって素潜りをするような体験である。暗い海の底から聞こえてくる不思議な音に耳を傾け、かすかなあやしい光に目を見張るような、ぞくぞくする愉しさがある。
症状や動きの制限に、表面もしくは深部のコリの存在を見る。圧に対する痛みの感覚に、表面および深部にあるコリの存在を聞いて、その解消をはかる。
圧痛点なしの操体法は、骨抜きというほかは、ない。
痛みの感覚は患者本人が感じ取るほかはなく、圧痛点を押したときの指先の感覚や手応えは術者自身が感じ取るほかはない。そこに「快方向の動き」が組み合わせられるとき、操体法の威力が発揮されてくる。
もちろん、「気持ちいい、ラクな動き」だけでも喜ばれはするだろう。しかしそれでは片手落ちというもので、限界も見えてくる。まるで歯が立たないケースもたくさん出てくるだろう。

指先で圧をかけると、いろんな光景が目に浮かぶ。いろんな音色が聞こえてくる。まさに体は楽器である。
キャンプで寝つけないときなどは、時間つぶしに自分の全身をくまなく押してみる。背中だろうとどこだろうと、好きなところに指先が届き、好きに圧をかけられるようになる。
じつに愉快である。

次回は「連動」について述べる。
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ほんとうの「気持ちいい」とは何かを知る-感覚をにぶらせることは生きる力の低下につながる-
2012/08/20(Mon)
気持ちいい・わるいという感覚がサッパリわからない人も多い。気持ちいいとか不快だとか、そんなの健康にも病気にも関係ないと思う人も少なくない。
しかし感覚器官は命を守るためになくてはならない大切なものだ。
一早く異常を感じ取ることが、生死を分ける。
危険はありとあらゆる不快な感覚で伝わってくる。逆に、気持ちよいという感覚は安心安全という合図である。

生きものは、快か不快かの感覚で安全と危険を知る。それ以外に安全と危険を知る方法はない。目の前に大きなヘビがあらわれても、不快な胸騒ぎがしなければ逃げるという行動は出てこない。ヘビを扱いなれた人なら、かえって喜びを感じるかもしれない。何がどのくらい危険なのかは、本人の感じかた次第だ。感覚を狂わせていれば、もちろん危険に追いまれることもある。
気持ちいい・わるいという感覚がわからないというのは、感覚がにぶいということ。生きる力が低下しているということをも意味すると考えてよい。

操体法の入門は「気持ちよい動きをラクに行う」。それだけである。右を向くのと左を向くのと、どちらがラクかといった比較で動きを決めることは多いが、気持ちよければ感覚に従って好きに動いてよい。
一応、①動診という確認を行い、②「ゆっくりとなめらかに動いて」③「一番気持ちいいところで数秒間のタメをつくり、」④「ストンと瞬間脱力で全身をゆるめる」⑤ちょっと一呼吸おいて再び動診し、動きが改善されたことを確認する。それが操体法のやり方ではある。

気持ちいいという感覚は信号機の青ランプ。安全という体からの合図である。気持ちよくない感覚は信号機の赤ランプ。危険という合図で、そのまま行くと体の組織がこわれるという合図でもある。
ふだんから自分の感覚を大切にして、体とのコミュニケーションをはかっている人なら、最初から何となくわかるはずだ。体が固い傾向で、体の都合より自分の都合で生きてきた人には多少むずかしく思われるかもしれないが、まあやっていくうちにだんだんとわかってくる。

気持ちよく動くっていうだけなら体操でもヨガでもストレッチでも、何でもいい、そうなりがちである。
最初から感覚のいい人は何をやっても効果の実感をまあまあ持てるので、かえってそこに安住するという落とし穴が待っている。
しかし操体法にはそこから先がある。むしろその先こそが、操体法としての威力を発揮する場である。
「気持ちいい・わるいという感覚で体を動かす」というのは、ほんの入り口にすぎない。
操体法のキーワードは「快・不快の感覚」のほかに、「連動」「圧痛点」「癒動」がある。
少なくともこの四つの要素がそろわなければ「操体法やってます」などとはいえない。
この四つの要素をそろえながら、ほんとうの「気持ちいい」というのはどういう感覚のことをいうのか、より正確に、精密に、感覚を吟味する技術を身につけてゆく。

感覚の吟味がわかってきたかどうかは、一目でわかる。
自分の体のことが的確にわかってくるというのは、自分に対する信頼と自信を深めていくことにもなる。だから目つき顔つきまで違ってくる。言うことも違ってくる。
きのうと同じ今日の自分。あしたも同じ今日の自分。そのようなマンネリズムの感覚は、操体法とは無縁のものだ。新しい感覚を更新してゆける日々というのは、心からのよろこびに満ちあふれている。
花火のように消えてしまう一時的なよろこびもあるが、そうでないよろこびもある。後者のよろこびのほうを追求しようという人には、操体法はまちがいなく宝だろう。

次回は「連動」「圧痛点」「癒動」について述べる。
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白馬にまたがって現れるブラックジャック先生を求めて
2012/08/18(Sat)
家人が手術を強く希望している。積もり積もった長年の不摂生のツケを、医者のメス一本で清算するという壮大な試みだ。果たして成功するだろうか。

医者の腕前には歴然とした差がある。医者により病院により治療結果も異なるが、メディアに出回る「名医リスト」「病院ランキング」は信用に値するだろうか。こうしたランキングがほとんど失敗に終わっていることを、その原因とともに指摘する医療専門家もいる。
医療ミスのない病院はない。死ぬはずのなかった手術で死に至らしめた例を持たない医者も、一人としていない。医療行為で患者さんが死んでも、一般には過失とはみなされないことが多い。
手術では麻酔をはじめ、たくさんの薬が使用される。医者の処方した薬が正しく処方されても、死ぬはずのなかった人が死ぬのはめずらしくない。なぜだろうか。
どんなありふれた薬にも、一定の確率で死亡を含む副作用が生じる。その事実は社会的に認められている。だからきまりが守られている限り、いかなる結果も過失とはならない。
内視鏡は安全といわれるが、どんなに上手な人が使っても、内視鏡の先は固く、内臓の壁を突き破ることはあり得る。よって、一定の注意事項が守られてさえいれば、重大な事故が生じても医者の過失はないものとされる。
どんな手術でも人が死ぬことはある。一定の注意事項が守られていたのであれば、手術が原因で死人が出ても過失ではない。かりに遺族が訴えて裁判になっても、裁判官もそう判断する。
たとえ「ミスをおかした」と自分でわかっていても、わざわざそんなことを言う人はいない。医療行為を実行した当事者にしかわからない過失は見逃されてきたし、今も見逃されている。だから過失を原因として死亡している人は相当数にのぼるはずだ。

以上は、講談社出版の『よくない治療、ダメな医者から逃れるヒント』(近藤誠著)の25~26ページおよび88ページの内容である。自ら実績のある医師で慶応大学医学部で教鞭をとっている先生の立場から書かれた本だから、無視するわけにもいかないだろう。
「どんな薬も死ぬことはあるよ」「どんな軽い手術でも死ぬことはあるよ」というのが社会常識であり、それがあって医療が成立しているということ。そして患者の世界で想像される以上の頻度で死亡者が出ているらしいということ。58~65ページには「医療消費者ネットワークMECON」に寄せられた相談のごくごく一部が掲載されている。病院の日常で何が起きているのか、少しは知っておいてもいい。
医療現場を日常として過ごしてある方に少しでも話を聞けば、この本に書かれたことは実感を伴った事実。じっさいの生きた人間の体では、何が起こるかわからないのである。医療行為で救済される数が、医療行為の犠牲になる数よりも多いならばという、多数決の理論で自分を納得させながら、いくつもの保険に加入して日々緊張を強いられているのが、医療従事者の現実だ。
もちろん患者の側からすれば、貧乏くじは引きたくない。ある一定の割合で必ず出てくるジョーカーを、自分だけは引かないだろうという根拠のない安心で、病院に、医者に身をゆだねているようなぐあいだ。副作用についてこれだけ情報が出回っていても、自分だけは副作用を免れていると信じて飲まれている。自分の飲む薬の副作用をきちんと調べようともしない。それが薬の現実である。
手術もまた同じ。医療従事者の目には「患者さま」は病気で苦しむ一方、現実を知らない気楽な稼業のように見えてしまうこともあるのではないだろうか。

新潮文庫『がんは切れば治るのか』p.199から以下引用する。
「手術でからだにメスが入れば、程度の差こそあれ、必ずなんらかの合併症や後遺症が生じる…第一には人間のからだが脆いからで、第二には、人間のからだがメスに慣れていないからでしょう…ありきたりの手術で死亡してしまうのは、人間のからだが脆くて、メスに慣れていないからだと思われます…人は手術をうけるようにはつくられてきませんでした。それなのに、胸やお腹という、空気にふれることを予定していない部位を切りひらいてしまうから、細菌が取りつきやすくなり…致命的な感染症に移行してしまうのです。また繊細な腹部に手をふれるから、目に見えない傷ができ、あとで腹膜どうしがベタベタくっついて腸管を細め、腸閉塞を引きおこすことにもなります…合併症や後遺症という言葉からは、なにか例外のような印象をうけますが、むしろ必然の事態と考えるのが正しいのではないでしょうか…手術は本来不自然なもの…合併症やそれに起因する死亡は、どんな名手がおこなっても、一定程度、不可避なのです…患者さんはみな、あまりにやすやすと臓器切除に同意しているように思えてなりません…あとの状態を想像することができないのが、理由のひとつでしょう。」

『よくない治療、ダメな医者から逃れるヒント』には、医者の行った手術の傷あとを比較する写真がいくつか掲載されている。家人は黙ってそれに見入っていた。
同じ手術を行っても、手術の傷あとは大きく違う。外から見てこれほどまでに違うとしたら、腹の中のできばえの違いはいかほどか。「料理屋の板前さんでも呼んできて切除させたほうが、よほどきれいに仕上がる」と言われるほどひどいものもある。それが世間では「名医」で通っており、ランキング本の常連だという。以前はお腹の手術をしていた「名医」が、術後の患者があまりに死んでしまうため、自発的に転向したという噂もあるというから驚きだ。しかも、そんなのはとてつもなくでっかい氷山の一角だというのである。
そのうえ、どんな名人が切ったとしても、「切る」ということそのものが、患者の世界で思われるほどカンタンなことではないというのだ。
これでは家人の手術でどんなことが起こっても、おどろく気持ちにもなれない。
ただ願わくば、手術の結果を記録くらいしてほしい。それは死者への礼儀でもあるのではなかろうか。医療過誤や医療ミスや、薬の副作用で起きたことも、せめて記録し、公開してほしい。それが患者の側に立ったときのしぜんな気持ちである。
どんなことも覚悟したうえで手術台にのるのなら、死んでもうらみっこなしだ。
人は完全じゃない。ミスしようとしてするのではないし、死なせようとして死なせるのでもない。
完全を要求されたら手術を引き受ける人など一人もいなくなるだろう。
ただし、外科医の資格は、今までの野放し状態を一日も早くあらためてほしい。アメリカの基準で試験をしたら、一体どれだけの日本人医師が外科医として残れるだろうかと思う。

自分のミスで死んでゆくのか。それとも他人のミスで死んでゆくのか。結局はどちらかを選ぶしかないのだろう。
私はあまり他人を巻き込みたくはない。ミスをしたとわかった医療従事者は、人にも言えない悩みをかかえるかもしれない。少なくともストレスにはなるはずで、それは私はイヤである。他人に頼るのならうらみっこなしが原則だが、人間はすぐに他人をうらむようにできているから、最初からできるだけ頼らない、他人に難問を押しつけないで生きるほうがよほど気がラクだ。
手術を受けるにせよ受けないにせよ、家人ももうこのままではやっていけないと感じているだろう。しかし白馬にまたがったブラックジャック先生は、何とも魅力的。現代のキリストさまは片手にメスを握っている。難問を一気に片付けてくれる、永遠に捨てがたい、夢のような存在。それが名医なのだと思われる。
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何を考え、どんなことを感じて過ごしている自分なのか。
2012/08/16(Thu)
出てきた結果がすべてである。結果が出なきゃ意味はない。惰性で毎日を生きて過ごす。それが私はイヤなのだ。
生きる姿勢を改善し、人としてのあり方を改善していくために、健康法があり生活改善がある。それが自分の原点だろうと思う。
鼻づまりを治すだけのために六歳で全身麻酔の手術をされて、そこから十年近く病院通いで検査や薬漬けの生活を送った。呼吸するところからつまずいて、食う飲む寝る出すといった、犬猫さえできる当たり前のこともまともにできず、小学生の私はすでに生きることに疲れていたのである。
「なぜこうまでして生きていなきゃならないか」。だるい心とだるい体を引きずるようにして過ごした。首につけられた鎖で引きずられる犬の気分で、イヤイヤ生きていたのである。
「もう死ぬか」どうしてもそちらのほうに流れてゆく。十二歳のときこっそり台所で包丁を取り出して手首にあててみたが、刃物を握る手にまったく力が入らない。無理に死ぬというのは、やはり相当な無理があると感じた。

どう考えても自分は健全な小学生ではなかった。そんなところから脱出するために、最初にやったのが食の節制だった。菓子類をぜったい口に入れない。これなら自分一人ですぐに実行できる。
きっかけは桜沢如一の書いた文章である。「毎日がうれしくて楽しくて仕方がない」と書いてあった。そんなことあるのだろうかと驚いた。惰性以外の生き方があるのならと、大いに期待した。
子供の一途というのは恐ろしいもので、たちまち呼吸が改善し、食う飲む出すのほうもめきめきと改善をみた。病院も検査も薬もこれでおさらばだった。「毎日がうれしくって楽しくってしょうがない」というのが現実味を帯び、「食の節制さえ続ければいつかは到達する」と単純に思い込んだ。
しかし食の節制を継続するのはむずかしい。振り返ってみると拒食と過食を交互に繰り返しただけである。何度か集まりにも参加してみたが、食を無理に制限しようとするため、かえって食べることへの執着が強化され、頭は食べ物のことでいっぱい。これはむしろ不気味であり、健全とはほど遠い。
「そろそろここらあたりが限界か」
ほどほどに菜食し、ほどほどにヨガをやる。そこから出てきた結果以上の改善は、あきらめたほうが賢明かもしれない。そういう結論が出ていた。大検を取る意欲を出し、小学校の分数計算から取り組んで東京外大に進学したのは一定の成果だった。そして大学生活を楽しんだのも事実である。
しかし「毎日が心の底からうれしくて楽しくて」というのは自分には全くわからない世界だった。

大学を卒業したのは三十歳。その年に今の師匠にめぐりあった。しかし自分が操体法に向き合うのには、そこからさらに十年以上の月日が必要だった。師匠を通じた操体法とのつきあいは二十年に及ぶが、自分が操体法に向き合うには山歩きが必要で、さらにその後の交通事故で障害を負うということも必要だった。
何かの健康法をマスターすることが目的ではなかった。自分の体が自由になり、心が自由になるという結果こそが私の一番の関心事である。筋肉の質が老人のそれではなく、新生児のそれに近づくということ、弾力を失わない肉体と弾力を失わない精神ということが関心事である。表情や行動が円満で、おだやかな喜びに包まれ、安心と充足の中に生きるということにも関心がある。そのような自分の理想の感覚を長い年月にわたって導いてくれたのは操体法の実践であった。
ただ生きているというのではイヤだ。ただ食べて飲んで寝て、欲という鎖に引きずられて生きていくのは自分はイヤなのだ。頭痛や腰痛や疲労や、食う飲む出すといった消化器系の不振が解消されるというだけでは、自分としては全くの不足である。

結果がすべてだ。いま自分が何を考え、どんなことを日々感じているか。自分自身の成長が、自分の操体法への理解と習熟レベルを示すものであると私は考える。
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自分の目の奥にしまってある、はるか遠くの、うつくしい場所
2012/08/14(Tue)
べつに金にもならず、人のためにも社会のためにもならない。行かなければ行かないで済む。生活に何の役にも立たないし、むしろ生活のじゃまになる。
山は、そんな場所。
行こうと思えば行けないこともないが、いつまでも行けるとは限らない。時間も気力も体力も一定レベルをクリアしない限り、いつか遠のいて行けなくなってしまう。
自分の一番行きたがる場所というのはそういう場所だった。

そんな場所のことにかまけて時間さえあれば出かけて行った。
死に場所としてもいいと思われるほどに美しい光景を宿している山は、生き場所としてももちろん素晴らしい場所だった。山の美しさを知るとキリがない。美しさを追って山に入り浸っていた頃は、あたりまえのように思っていた。どれだけめぐまれていることか、どれだけ幸せなことか、ほんとうは自分自身よくわかっていなかったように思う。
ただ自分の身をそこに置くということだけのために多くの時間と体力とを捧げたが、自分が差し出した以上のものを必ずよこしてくれた。それが自分にとっての山だったのだと思う。

街で埃にまみれて這いずりまわる日常の中で、ふと気がつけば自分がまるでべつの場所にいる心地で過ごしているように思われることがある。
今の自分では行けなくなってしまった、はるか遠い場所が、実はいつでもすぐ手の届くところにある。
自分の目の奥にしまってある、たくさんの、うつくしい場所。
ほんとうは、自分の心の中以外には、どこにもない場所。
それぞれが、一回こっきりだった、あのころの自分の目にしか映らなかった、二度と行けないであろう、あの、うつくしい場所。
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生命の不思議によりかかって成り立っている日々
2012/08/12(Sun)
家は住み心地が一番だいじ。住み心地がわるければ生きるのさえつらくなる。
体は魂の宿る家だから、これも住み心地をわるくすると生きるのがつらくなるだろう。

一生のうちに何軒も建てられないし、日々の生活に関わるだいじなことだから、家をひとまかせにすることなど滅多にない。ところが案外と自分の体は病院まかせ、薬まかせ、手術まかせにするようだ。
体だって一生のうちに一つ。命も一つだろうに。

家も本来は建築士さんと相談を重ね、自分の生活スタイルや考えを伝えなければ、居心地のよさを得ることはできまい。住み方はいろいろだし、家に求めるものもみんな違う。たとえ建売りでも、日当たりのこととか、周囲の環境など、調べない人はいないだろう。
生活の送り方もさまざま。考え方もさまざま。だから体に求めるものも実は一人一人ちがう。
体は家より密接で、修理やリフォームもきかない。毎日の日々の生活に密接に関わるだいじなことだのに、相談が重ねられることなど滅多にないのはむしろ不思議なことだ。

建築士さんは専門家だが、住む人の求めるものは分からない。クライアントさんの話をじっくり聞きとり、計画案をいくつか出す。その中から一つを選んでもらい、さらに修正を重ねていく。
建てて終わりじゃない。建てたあとのことがあるから、お互い一生懸命に検討を重ねる。
医者や治療師さんも専門家であるが、患者さん一人一人の人生の専門家ではない。患者さんがどうなりたいのか、どうしたいのか、それは本人がきちんと話して伝えない限り、分かるはずもない。
治療して終わりじゃない。治療したあとのことが一生続く。雨漏りもなく倒れずにいればいいというような、その場しのぎではダメだ。そのくらい誰にでも分かりそうなものなのだが、実際には人の体は家よりもずさんな扱われ方をされたりもする。

よくぞこれで生きていられる。じっさい生きているほうが不思議に思われることもある。
少々の痛みやだるさや出っ張りがあっても、文句を言えないくらいのことは日々じゅうぶんにやらかしている。
一人一人の体に宿った生命の不思議によっかかって成り立っている。そのように思われてならないこともある。
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本番で威力を発揮する心と体づくり-病気もけがもないときにこそ取り組む-
2012/08/10(Fri)
どんな困難に直面しようと変わらないものが私たちの中にはある。けがや病気には誰もが泣かされ、判断も鈍るが、心の底には平常心も控えている。
アリとキリギリスの物語でいうと、操体法はアリの道、平常心の道である。

病気もけがもしてないくせに毎日コツコツ体を調える。肝心の病気やけがのときには別段騒ぎもしない。
いつでも平常心で体を調える。調えて調えて、体の治癒力の助っ人になる。それが時に周囲の誤解を招くこともあるが、じっさいには過去に病気もけがもなかったという人はいない。生きていれば課題はそれぞれに、ある。
病気もけがもないときにはのんびりと体を調え、肝心のときには真剣に体を調えるのであるが、いくら必死になっても逆らえない流れというのは、ある。やっているうちにそんなこともだんだんとわかってきて、平常の調整にきちんと取り組むようになる。
すると本番で思わぬ威力を発揮する心や体ができてゆく。
それが自信ともなり、安心のよりどころともなる。

他人を見て、「あの人は元気だ」「この人はすごい」とうらやましがることはない。生きている限り誰しも課題をかかえているのだが、外から見ているだけではなかなかわからないものなのだ。
本人の自己申告どおりでもないし、周囲の評判どおりでもない。
いずれ衰えないという人もなく、死なない人もない。
それが事実だろうと、私は考える。
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痛い経験もゆたかに重ねて加減を身につけたい-いつでも枕を高くしていられるために-
2012/08/08(Wed)
ただのケンカで命を奪うところまで、長期にわたる後遺症が残るところまで叩きのめす。
手加減を知らない一例とされる。
危険にさまざまなレベルがあることを知り、レベルに応じて対処する。「加減を知る」ということで、無益な労力や被害を最小限におさえることができる。
加減を知らないと過剰防衛に走る傾向がある。
自身の生活や生命に影響の小さいレベルから、影響の大きなレベルまで、さまざまな危険があるのに対し、最大の力を出す。
それは「加減を知らない」ということになる。
くしゃみ一つ、頭痛一つでも病院に走るほうがよいとされる世の中。いや、くしゃみの前に予防接種もある。健康診断もある。あらゆる検診がひかえている。
あらゆるいざこざが起こる前に叩きのめす。
これは手加減を知る一例となるだろうか。それとも…。

手加減を知らない人間ほどこわいものはないという。最近の子供たちが手加減を知らない第一の理由は、ケンカの経験を持たないからとも聞く。
人はたくさんの経験を通じて「手加減」を身につけていく。
ではその「経験」とは何か。
くしゃみの前に予防接種ならびにあらゆる検診を受ける。それでもくしゃみが出たら病院に走る。もらった薬を指示されたとおりに飲む。これも確かに経験だが、こんな経験を積み重ねた先には一体どんな手加減が身についてゆくだろうか。

子供たちがケンカの経験を持たない第一の理由は、大人が止めるからだという。
「ケンカなんかしちゃいけません!」「ケンカはあぶない!」「ケガするでしょう」「うらみをかうでしょう」
ケンカが起こる前に親や教師が制止する。もしくは早い段階で大人が間に入って解決させる。大人たちの干渉により、子供たちは貴重な経験の場を失い、健全な成長ができない。
これは過保護のもたらす害悪だという。
成長のためには、時には痛い目にあう必要もある。少々の危険も損失も、また貴重な体験と引き換えである。しかし最近の子供は、親のまちがった溺愛や保護主義により、苦痛の経験はさせてもらえないから、心身ともにひ弱になって、かえってかわいそうだという。過保護でひ弱な人間ほど手加減を知らないからこわいものだという。
手加減を知らないというのは、一つの感覚にたよって生きる。幅のせまい感覚で生きてゆくということだ。
感覚の幅がせまいということは、「ちょうどいい」感覚を味わえる条件が限られてくる。交通機関は苦手。あの人もこの人も苦手。暑いのも寒いのもイヤだし、体がだるいのもイヤ。長時間の山歩きどころかふつうの生活さえ耐えられない。
生活条件の圧倒的多数はイヤなことばかり。大海のように広がる「イヤだ」という感覚の中に、小さな島のような「ちょうどいい」がぽつぽつと浮かんでおり、そこにしがみついて生きていかなければ溺れてしまう。
これではもちろん苦しい。エアコンのきいた部屋に閉じこもって生きるほうがむしろラクだろう。

加減を身につけるとは、あらゆる状況の中に「ちょうどいい」感覚を見出せるということだ。
満員電車の中ですら、自分の「ちょうどいい」感覚を持つならば快適に過ごせる。真夏の暑いときにも自分の「ちょうどいい」は見つかる。苦しい山歩きの中にも「ちょうどいい」は見つけられる。
そうなればストレス知らずで自信も持てるだろう。
胃腸が丈夫なときには腹十分でも「ちょうどいい」だろうが、体の具合に応じて「ちょうどいい」は変化する。一食や二食抜いたほうが「ちょうどいい」感じになることもある。空腹にさえ「ちょうどいい」がある。それを知るには体験が不可欠だ。

どんな危機に直面しても、場合に応じた「ちょうどいい」は何かということをいち早く感じ取り、行動にうつせる。手加減を知る人間は、たくましいのである。
ちょっとやそっと気温や体温が上がったり下がったりしたくらいへっちゃら。脅されたくらいでナイフや爆弾を取り出すような不器用なこともしない。
そういうたくましさと懐の深さを身につけるための経験が必要とされる。
他人の判断にさいしょから身をゆだねてしまうのは、加減を身につける経験にはならない。
便利でサービスのゆきとどいた過保護な社会の中で、いろんなものに頼る経験を積み重ねていくと、知らぬ間に体験の幅がどんどんとせばめられてゆく。

過保護と、過剰防衛。それは一枚のコインの表と裏であるのかもしれない。
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はずむ心。はずむ体。やわらかな弾力が元気のもと。
2012/08/06(Mon)
うるさい赤ちゃんの耳にイヤホンで音楽を流し、ピタリ泣きやませる。そんなテレビ広告が以前、大きな批判を受けた。赤ちゃんをだますように強引に泣きやませる態度がけしからん、というわけで「子育て経験のない人たちがつくったのか。それとも子育て経験からつくられたのか」などという議論まで飛び交った。

泣き続ける赤ちゃんをふだんから長時間放っておくと、泣かない赤ちゃんになる。昔はお寺の子供によく見られたという。お寺は広くて気づかれにくく、親の知らぬ間にサイレントベビーの状態になることがある。
大学の認知発達心理学の授業で教わった。
表情に乏しい。視線を合わせてくれない。反応が不活発で笑うことも少ない。そんな特徴が共通してみられるそうだ。

不自然に硬い背中や筋肉。ここまでの状態になるまでには、たくさん泣いてきた体のはずである。
「ずっと以前に痛いこともありましたが、そのうち何ともなくなって治った」
「固いのはもう自分には当たり前ですから」
もうそこまで固くなってしまうと、右を向いても「べつに何ともない」。左を向いても「べつに何ともない」。上げようと下ろそうと「だいじょうぶ。どこも何ともないです」
じっさいには、左を向くときには強引な力が加わって背中に奇妙な盛り上がりができる。時には全身の骨格をゆがませて、実に苦しい様子。右を向くときと左を向くときでは体の事情はまったく違う。
肩は左右盛り上がり、筋肉というより骨か岩かという感触。
これで痛くも何ともない。本人がそれでよいというのがかえっていたましい。

縮こまって固まってしまった筋肉は、まさにサイレントベビー。
押してもさほど痛みの感覚をよこさない。本来の弾力を失って、押し返してくることもない。こちらの語りかけになかなか応じてくれない体なのである。
鎮痛剤や睡眠導入剤や心療内科で処方される薬などを入れられてきた体からは、そういう感じが伝わってくる。たずねてみると、まさしくその通りで、返事をきくたびに複雑な気分である。
体の持ち主の側にも生きていく事情があり、体の側にも生きていく事情がある。親の側の事情と、子の側の事情とのあいだで板ばさみな気分である。

朝と晩に、五分だけでよいから、操体法をやってくださいと、橋本敬三医師が書き遺された文章。
そのとおりに実行するうちに、その言わんとする意味が、解きほぐされてくるような気がする。
私たちには、生きていくため、生活のために、切り捨てられてきた感覚が実にたくさんあるのではなかろうか。
三分でも五分でもよいから、切り捨てられてきた感覚を、拾い上げてみる。
毎日繰り返し拾い上げて行くうちに、捨ててきた感覚の中から、生きていくのに失ってはならない、ほんとうに大切な感覚がよみがえってくる心地がするはずである。

はずむ心。はずむ体。やわらかな弾力を取り戻すために、一日五分からの操体法が、ある。
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体運びの原理。心運びの原理。その根本から切替える-心と体のクセをとる運動療法-
2012/08/05(Sun)
同じ教室で同じことをやっているのに成功例と失敗例が混在する。個人差があるという事実。
その個人差がどこからくるのか、わからないまま、ただまんぜんとやっていても、体の変調を防ぐことも改善することも具体的にはままならない。

「個人差」は人を黙らせるには便利な言葉だ。弱っていた人・衰えていた人が、みちがえるように元気になるケースもある一方で、とりたてて効果もみえないケースや、時間の経過とともにかえって内臓機能や関節機能に変調をきたすケースもある。それを「個人差ですから」と言って済ませてばかりもいられないだろう。
坐禅では、病気や何らかの体調不良をかかえたままでいるようでは、やりかたが正しいとはいえないという。
坐禅の実践により、死の淵からみちがえるように生還した先人の例が多くあるが、死に至ったケースもある。
成功例にも失敗例にも、その要因は必ずある。両方の例から学ぶことも大きいのである。
成功例を見習うか。失敗例を見習うか。その答えは明らかだ。

心も体もあらたまり、精神面でも体力面でも改善の方向へ向かっていくのが、正しい生活実践が行われている唯一の証明である。
問題の発生と継続があるようなら、自分自身の取り組みを見直すか、それとも「個人差」とか「老化」とか、「自分のだけは特別だから治らない」などと都合のよい説明であきらめるかが、分かれ道。
あれがいけない、これがいけないと、頭の中で忙しく考えているだけでは何一つ進展はない。「あれがいけない」と思うなら、自分で改めてみて、どの程度効果があったか、確かめるほかに証明しようがないだろう。
しかし一千万円の借金を返済するのに、五円玉や十円玉でなんとかしようとあくせくしても間に合わない。

体操でもヨガでもウォーキングでも、やりかた次第では体に変調をきたす。
どんな健康法に取り組もうと、体運びの原理という根本が正しくなければ、やればやるだけおかしくなってしまう。
体の運びかた次第で体は変調をきたすということ。
それが操体法でいう動きのクセ・体のクセということだ。
年をとるほど、動きのクセも長期にわたって強化されやすいから、固定しているケースも多く見られる。
それを「老化」と呼ぶのなら、クセの強化と固定をはずせば老化の呪いから解放されるだろう。
思考回路にもまた同様の傾向が見られ、がんこな症状を長くかかえているケースにもまた、体の運び方・心の運び方に強いクセが固定されているのが散見される。
クセの強化と固定をはずせば、「個人差」で足踏みしていた効果も期待できるかもしれない。

体運びの原理、心運びの原理、その根本から取り組むことで、「老化」や「個人差」の壁をどれだけ取っ払えるか。自分の一生をかけての実験である。
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足るを知り、いつでもどこでも平常心。愉快愉快で生き抜いていく智恵。
2012/08/04(Sat)
釣り糸を垂れた一日の終わりに「ぼうずですワ」と穏やかに笑う。0点には0点の愉しみ方があるのだろう。100点に100点の愉しみがあるように。

いつでもどこでもどんなことが起こっても、愉快愉快で生きてゆくこと。
知足。足るを知るというこの言葉は、敗者の負け惜しみか、怠けものの言いわけめいて聞こえるかもしれない。
ちょいとハシゴでもかければ手が届きそうなブドウの実を、「あれは酸っぱくて不味いブドウだろうから」とか、「自分はちっとも食べたいとは思わないから」などと言い、あきらめ上手でいる。そんなイメージが思われて、好きな言葉ではなかったし、ほとんど理解もできなかった。
しかし不幸や災難にあってみれば、そのたびに嘆き悲しみ、心を乱すようでは自分自身非常に困ることになるのである。思いがけない幸運に狂喜する自分でも、それはそれでまた困る。人生のジェットコースターでアップダウンを繰り返しながらも、心は平らかな大海原のようでありたいと思う。

「こうであればよかったのに」「ああなればいいのに」
目の前を流れてゆく現状を「ダメだダメだ、このままではダメなんだ」と不満をためこんで、その鬱屈したエネルギーを爆発させながら破壊的に行動する。知足という言葉に立って振り返ってみると、自分にはそのようなことが多々あったのではないかと思われる。
「足るを知ってはダメだ。いつもいつも足らないということで、飢えたオオカミのようにうろついて、不平不満なまま不幸なまま生きてゆきなさい」。そう教わっていたような気もする。
そしてそれは経済の発展と、なんらかの関わりがなきにしもあらずという感じもする。

人は病気になれば笑ってはいけないのか。けがを負えば泣いていなければならないのか。不運にあったら思いも暗く、心乱れているしかないのか。
否。
どんなときも大丈夫。
どんな結果にも足るを知り、いつでもどこでも平常心。
愉快愉快で乗り越えてゆくには、智恵がいる。
「知足知足」と唱えていると、果てしない大海原がすぐ目の前に横たわっている心持ちがしてくる。


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不思議と疲れなくなってきた-六割主義の感覚で力を抜くことを知る-
2012/08/03(Fri)
100m世界記録は10秒足らず。10秒の必死である。マラソンの世界記録は2時間余り。短距離の420倍をカバーし、720倍のあいだを耐えている。

オリンピック競技はさておき、力まかせに走って、すぐに疲れ果てる生活か。半分の力で長く走り続け、いっこうに疲れないという生活か。いずれかを人は自分で選ぶことができる。
発車間近のバスを追うと1分走るも死ぬ思い。休み休み歩けば5時間や10時間歩いて遠くに行くこともできる。
あくせく働き、ストレスできゅうきゅうとした思いの連続の挙句に若死にする人でも、力を抜いて生きれば長く楽しく疲れを知らずに人生を送ることができる。
力を抜くことをおぼえたら、二倍三倍長持ちでいつまでも活動量でき、疲れはまったくない。

気持ちよさの加減が、事の成否を決める。
操体法は六割主義。六十点が理想の最高得点なのだから、腹八分よりもさらに手前のほうに基準を持つ。
食べたあと腹が張って苦しくなるのは腹十分。しかし食べている最中はそれで気持ちよい加減だったのである。
その気持ちよさは腹十分の加減の気持ちよさであり、腹八分の加減ではない。
腹十分の日常を送っていると、腹六分と言われてもどういう感覚か、想像さえむずかしい。恐らくは「さあこれから本腰入れて食べるぞ」となったときがそろそろ終わりの合図なのだ。

操体法の力加減は、腹六分の感じ。
前菜でじゅうぶん満足でき、メインディッシュもデザートも不要な感じだろう。
体操やストレッチをしてきた人には、とうぜんもの足りない。あんまやマッサージに慣れている人も同様だろう。ヨガ生活の長かった私は、「ヨガのちょうどいい」が、「操体法のちょうどいい」の加減を大きく通り超していることに、なかなか気づくことができない。
操体法を十年やり続けても「ヨガのクセで動いている」と指摘されていた。「言いがかりだ」「私のどこがヨガなんだ」と心穏やかではなかったが、さすがにここ数年は自分でハッキリと気がつく。「あ、これがヨガのクセだ」と。
「これがヨガで身につけた感覚だ」と分かるようになってから、やっと操体法になってきた。
それまでやってきた操体法は、体操やストレッチやヨガでやしなった感覚で、操体法というかたちをなぞるにすぎなかった。そうわかってきたときに、やっと操体法がわかってきた。
「これで気持ちいい」というときには、実はすでにやりすぎの感がある。こめられた余分な力が大きければ大きいほど操体法から遠ざかっている。
「さあこれから本腰入れて食べるぞ」を繰り返して当たり前になった日常の中で、六十点を理想の最高とする操体法をやろうとする場合、「何かもの足りないな」「こんなんで効くのだろうか」と思うくらいがちょうどいい。
操体法の六十点主義がだんだん当たり前になってきたら、生活のあらゆる部分を六十点で支障なく送るようにもできる。

力で動くのではなく、力を抜いて動くことをおぼえる。それで今のちょうど半分くらいの加減で生きていくということになる。「操体法をやって不思議と疲れなくなりました」「最近たのしいです」というのは力が抜けてきたということだろうと思う。
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安心して取り組んでよい-「なぜ自分の体はこうなのか?」という疑心暗鬼-
2012/08/02(Thu)
「払いすぎた借金を取戻す」という過払いの広告をよく目にするが、病気やケガについては一円たりとも過払いはない。
どうして動かない。どうして痛い。なんでこんなにつらい。「一体なんでこんなことになったのか!」
しかし不当な仕打ちではない。だまされてもいないし、いじめられているのでもない。
自然法則の公式に、生まれた時から今日までの、あらゆる行動が書き込まれてゆく。見落としもなく、お目こぼしもなく、公式に入れられた全てからはじき出された結果が、今の自分。
寸分の狂いも誤差もない。文句のつけようもなく、みごととしか言いようがない。

「わたしはこんな目にあうようなこと何一つやってやしない」と私は頑張った。頑張れるうちは頑張ったが、そんなことでは一向に治りゃしない。すべては自然法則のなせるわざ。安心会計だから少しもソンはしていない。
体で返す借金には一円たりともごまかしがなく過払いがない。
「痛い・つらい・苦しい」がイヤになったら、自然法則の計算式に当てはめる行動を変えれば済む。呼吸のしかた、食のありかた、動きかた、ものごとのとらえかた・考えかたといった、息食動想の四分野。そして環境(社会環境・人間環境・自然環境など)について、可能なことから取り組むことができる。
ぜったいに狂いのない自然法則の計算式から、ぜったいに狂いのない結果が出てくるのだから、安心して取り組めということ。
自分しだいというのがまた気楽である。
やろうとやるまいとテメエの勝手。自分のやったことを全部自分が引き受ければいいだけなんだから、安心して生きていける。そう橋本敬三先生は書き遺されている。

自分の思惑とは違う結果ももちろん出る。自分の目算が間違っていたのだ。そこに修正を好きなだけ加えていって、満足のいく結果にたどりつく。もうその頃には自然法則のことがずいぶんよく分かるようになっている。
疑心と不安が一番よくない。
安心して取り組めばよかったのである。
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「動く」よりも動いたあとの脱力や弛緩を重視する
2012/08/01(Wed)
車と合体し、車と一体化する。自分が車体の大きさとかたちをしている感覚で運転する。そのとき体のバランスや重心の置きどころは切り替わり、おのずと正確な運転が実現する。
赤ちゃんを身に宿している女性も、一人のときとはバランスや重心の置きどころが違う。生んだあとも、抱いたり背負ったりで、母子で上手にバランスをとらなければ互いに快適ではない。二人で一人の体なのだ。
操体法の施術をしているとき、施術してもらう人と、補助・誘導にまわる術者とは、互いにバラバラの意識ではうまくいかない。体を動かす本人と、補助で支える人とが一つの全体となって、ゆっくり動いてタメをつくり、脱力をする。
互いにどうもうまくいかないという感じが抜けないときには意識を切り替える。
「体を動かすこと」そのものがメインではない。動くのはむしろ脱力のための手段。「動いた結果もたらされる脱力や弛緩」のほうを重視したい。
「施術がうまい」というのは、筋肉をほぐし、ゆるませるのがうまい、脱力を成功させるのがうまいということである。「この人に支えてもらっていると、脱力や弛緩がずい分やりやすくなる」と感じてもらえるならば、操体法の施術がうまいのである。逆に、「脱力しにくい、ゆるみにくい」と思われてしまうようなら、それは施術がヘタなのである。
ヘタな施術は、相手と協調した動きがつくれていない。相手と協調した脱力ができていない。
「ハイ脱力して下さい」と声をかけている術者自身が、体によぶんな力を込めているようでは、相手も存分に力を抜くわけにもいかないのである。

協調した動きと脱力は、どうすればできるようになるのか。
車の操作と同じである。身ごもっている女性や、赤ちゃんを抱いたり背負ったりするのと同じである。
一人一人バラバラで動くという頭では、うまくいきっこない。
じっさい、どちらの人間も同時に動き、同時にタメをつくり、同時に脱力をするのである。
患者さんの動きがよくないとか、脱力がうまくいかない場合、それをコントロールするのは術者の技術にかかっている。二人を組み合わせた全体の中に、適切で安定なバランスと重心移動を見出しながら、協調した動きと脱力が実現される。

互いの協調の動きの中で、腰を中心に、左右の足のウラで体重の移動がなめらかに行われるようになったとき、施術の腕はバツグンに上達している。体も軽々と動き、相手のどんな動きにも難なく協調できるようになっている。
まずは術者自身にどのていど、「水中の水草のように、なめらかにゆっくりした動き」があるのか。どのていど、「じわ~っとタメをつくったのち、全身脱力」があるのか。
そこが問われるわけである。
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