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時間グスリを効かせよう-そのままをそのままに、受ける-
2012/07/30(Mon)
時間は、クスリ。
「どんな症状に、どのくらいの量で効いてくるか、きちんと確かめるのがプロだ」
との一言を受けた。
連日の川遊びで冷えの症状が出たのを、遠赤の温熱と腰風呂の効用でさっさと難を逃れた。うまくいったと思っていたら、「なんにもするな」と斬られたのだった。

せっかく出た症状だ。何も手出ししないでも同じとき同じように回復したのかもしれない。余計な手出しをしたから時間薬の効き目もわからなかった。治癒力を発揮させる機会を失ったんだ。
と、そういう話だった。
「せっかく備わった治癒力も、発揮させなければ失われていくんだよ」
「時間はだいじだ。時間グスリを活用することをおぼえなきゃ」

ついつい治すことだけ考えてしまう。少々心得があると「こうすれば、こうなる」と手っ取り早い方法に走り、症状がなくなれば、もう何も考えない。これでは臆病すぎて得るところはないということなのだと思った。
「死ぬことはない」「まあ治りはする」そうわかってはいても、一分一秒でも難を逃れたいのが人情。しかし人情に流されてばかりでは学びのチャンスが台無しになる。
苦労は買ってでもせよともいう。少々の苦労もイヤとばかりに逃げの一手では、鎮痛剤に頼るのとかわらない。

よし。次の波はもっと時間グスリを効かせてみよう。
自分の心と体に、そう誓ったことだった。
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痛いほど強いほど体にいいのか?-筋肉をゆるめ、ほぐす-
2012/07/28(Sat)
もっと強く。もっと痛く。体をもんでもらうことに人は抵抗がないようだ。
強くなければ痛くなければ効かない。そう思われているふしもある。
力わざの世界は、施術を受けるほうも、やるほうも、体格のよい頑丈な人が集まる傾向だ。

体に触れるか触れないか、分からないくらいで体を調えるというやり方もある。気功や三軸修正法は、それにあたる。操体法も力まかせとは無縁のもの。橋本敬三先生は、やたらとぎゅうぎゅう力で痛い目にあわせるようなのは疑問だと書き遺されている。

人の体は生きている。刺激を受け、刺激に対して反応をする。
粘土をもんだり叩いたりして柔らかくするのとは違う。ヘタに揉んだり叩いたりすれば細胞はダメージを受け、傷つく。それでもぎゅうぎゅう痛いことをしていくと、体もそれで生きて行くほかはないので適応する。
体によいとか、わるいとかいうのではなく、刺激に適応するだけのことである。
強い刺激に適応した体は、強い刺激がないと調子がわるくなる。
ラグビーの選手や、土木でハツリの仕事をしていくと、ふつうならムチウチでも起こしそうな強い衝撃に耐えられるだけでなく、強い衝撃を受ける生活でなければ体がうまく機能しなくなる。
それがよいことか、よくないことか、それは当人がどういう生活を送るかにある。体は生活に順応し、適応してゆく。もっと強く、もっと痛く、もんだり叩いたりをやっていれば、やめられなくなる。
効果の問題ではない。

力わざの世界には私は最初から縁がない。めったやたらに触られると、翌日は一人でつらい思いをするハメになる。だからよほど信用できる相手でない限り、触らせない。
施術をする側に立つときも、相手が気に入ろうと気に入るまいと、結果さえ出せば問題ないと考える。
力を出せば作用・反作用の法則どおり、出した力は自分の体にはねかえってくる。これは避けようがない。仕事で力わざを続けていたら、向こうは嬉しくてもこちらは身を削らなければならない。操体法を身につけたいという方にプロが少なくないのも当然である。

どのていどの圧力をかけるのが適当なのか。
一期一会。そのときどきの相手の体の状態によるだろう。相手の体の状態に対し、オートマチックに自分の体が反応し、これ以上でもこれ以下でもいけない、まさにぴったりの力加減で施術しなければ、組織細胞に不要なダメージを与え、それが後遺症や習慣化をもたらすことも考えられる。
操体法は、確認作業のさいに圧痛を与えることがある。
橋本敬三先生の著述によれば、軽く押すと強い痛みを感じる「圧痛点」を見つけ、その痛みが消える動きを探しつつ施術を行うということだ。
圧痛点は、あくまで「軽く押す」のである。強く押せばどこでも痛く感じるわけで、それは圧痛ではなくて、ただ力まかせに押して痛いというだけなのである。

少ない力で大きい効果を得るにこしたことはない。
それが施術を受ける側にも施術を行う側にも無理がなく、望ましい結果となるだろう。
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ミラクルボディー-理論上「ありえない」ところで生きている私たちの日常-
2012/07/26(Thu)
奇跡の体と奇蹟でない体という区別があろうはずもない。天才的アスリートの体を取材した番組「ミラクルボディー」が彼らの体をミラクルと呼ぶのなら、私たちの「ふつうの体」もまたミラクルなのに違いない。
体を調べる現場では「あり得ない」が何度も研究者たちの口から発せられる。
そんな専門家たちの姿を見ていると、生きた体は研究者たちの想像を超えているのだと感じる。
私たち全員をこのように調べてゆけば、一人一人が「あり得ない」生き方をしているのではなかろうか。老若男女、健康人も半病人も、病人もけが人も、あらゆる人間が、説明のつかないところ、理論的にあり得ないところで生きているといえるのではないかと思えてくる。

じつは家人も専門家の頭を悩ませるミラクルを平気でやってのけている。
極度の貧血。「こんな数値で生きられるはずがない」「ふつうに動いて生活できるわけがない」と言われながら十年生きてふつうに仕事をして生活をしている。
ふつうに脱線生活を積み重ね、一向にあらためるふうもなく、「きつい、だるい、死ぬ」と文句を言いながら、ふつうの生活をしている。
生きているはずのない人々が、いくらでもいるのに違いない。
医学常識では生きてもらっていては困る人々が、この世にはわんさかいる。
みんな、よく生きてる。
これは、ミラクルではないのか。

肩や腕が何らかの理由で動かなくなるのはめずらしくも何ともないと思われている。しかしもともとが自由に動くようにつくられているものなんだから、むしろ動かないほうが不思議だ。
その理由が分からないから、リハビリもうまくいかない。
「なぜ離れ業ができるのか」もミラクルならば、「なぜ離れ業ができないのか」もミラクルだ。
肩や腰、ヒザも、痛みが出るようにつくられてはいない。胃腸ももともと何不自由なくできている。
理論上「あり得ない」事実が世の中にはあふれている。
それを「あり得る」事実として認めるために、「じゃあこの場合はこういうことにしときましょう」とつじつまをあわせている。
説明や理論はあとづけなのである。

ケニアの高地で子供たちははだしで駆け回っている。数キロから十キロ近く走って通学する。その生活が彼らには「ふつう」である。ふつうの生活を通じて、腰や背中に負担のかからない足の運びを身につけ、
赤血球が小粒になり、毛細血管の中を速く流れるようになった。
これもまた、生命のふつうである。
生きものの体は生活でこれほどまでに変化する。
変化するのはもちろんアスリートたちの体だけではない。私たちも、繰り返される日常の行動によって、何らかのミラクル的変化をとげている。それが好ましい方向か、好ましくない方向かは別だが、日常繰り返される行動は、私たちがまるで気がつかないうちに驚くべき変化を確実にもたらしている。
運動不足で食べすぎの私たちの日常。特筆すべきことでもなんでもないことのように思われるが、ふつうに当たり前にできるはずのことも、できなくなってゆく。
腕や肩が動かない。うつぶせができない。できないできないが増えてゆく。
そんな体のほうが、むしろ不思議。ミステリーである。
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むしろ目に見えない結果のほうが大きな意味を持つ
2012/07/24(Tue)
オリンピック間近だが、人の最高速度は時速四十数キロ。どれだけ頑張っても時速百キロにはならない。それでも時速百キロを望みたくなるようなところが人間にはある。四十数キロより五十キロ、六十キロのほうがいいとカンタンに思うところがある。
だから操体法の六十点主義は分かりにくい。負け惜しみではなく、ぜったいに百点満点を求めない。それが生命にとって最善であり最高の道というのだ。
それはなぜなのか。「目指せ百点満点」で受験生活の長かった私には難問だ。時速百キロを望む自分と、百点満点を求めないことこそが最高の理想だと思う自分。その二つが私の中で同居している。

なぜか生命は私たちが百点満点で生きることを設定してはいない。生命は周期を持つ。そしていつかは衰え、死を迎える。そんな生命のあり方を生命の欠点と見る見方もある。
検査の世界で基準値をはずれるのが「あってはならない異常」とみなされ、少しの病気も許してはもらえない。
この世は百点主義。むしろ百一点主義。
経済成長は前年度を1パーセントたりとも減らしてはならないという考え。売り上げ目標はつねに前年を上回って設定される。
百点満点を望み、百点をとればとったで、それを維持しようとする。百一点、百二点を追求する現場はゆとりがなくてきゅうきゅうとしている。

操体法は確実に筋肉をゆるめるが、実感するまでには個人差もある。
タネをまくだけで芽が出る地面もあるが、干からびた大地から始めなければならない人もある。
最初から条件のそろっている人はうらやましがられるが、条件がそろっているだけに百点主義に陥りやすい。最初からカンタンに芽が出れば、さしたる感動もおきず、喜びを実感することも難しい。「たったこれっぽっち、改善でも何でもないや」と折角出てきた芽も無造作に引っこ抜いて捨ててしまう。欲がにじみ出て、知らぬ間に改善を見逃し、帳消しにすることもある。
干からびたところを耕すのはもちろんたいへんだが、雑草一本生えるだけでも感動もの。
一本の雑草がまた雑草をよび、ついには植物に適した土地にして、自分の将来の収穫の心強い助けになってくれる。生えてきた雑草一本でも見逃さず、何の役にも立たないようなその一本に、「ありがたい」と感じることのできる心の目を養っていかなければ、干からびた大地を耕し続けることは無理だ。

人間のあらゆる不幸は、自然法則の設定にないことを望むところに根ざしている。
収穫というゴールもだいじだろうが、むしろ心の目を養っていくことのほうが、生きるという営みには重要な意味を持つのではなかろうか。
それがまだ私には本当の意味で分かっていない。
気がつけば自分の心は不平や不満の煙でもうもうとたちこめている。
テストで百点をとらなければ成果と認めないというのでは不幸だ。
百点を持続したいというのが本音であり理想となるのなら、さらに不幸は続く。
ほんとうに百点主義でよいのか。
自問は続く。
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殺さないという生活改善-殺すしかないのだろうか-
2012/07/22(Sun)
ビルの外階段で出くわすと、私もハッとするが、あちらのほうもビックリしている。気の毒なほどのあわてぶりだが身を隠すところもなく、観念したように這いつくばってジッと息をひそめている。
ごきぶりといえども「殺されたくはない。死にたくはない」と真剣な姿である。

迷わず踏み殺していた以前の自分。人間なら誰もがそうすることだといつの間にか思っていた。
「虫を殺しなさい」とテレビは勧めるし、「殺すのは当たり前」と毎日教えられてきた。
「みんなで虫を殺さないと人間が楽しく生きていけなくなる」という意見もある。「虫一匹殺す殺さないでうだうだしているなんて情けない」「弱虫だ」「病的だ」という意見もある。
「殺す」と「殺さない」の間には、大きなギャップが私にはあった。

ハエ一匹を殺そうとしても周囲がいろいろとうるさい国もあると知った。殺虫剤の宣伝なんかできない。殺す人もいると思うが、社会全体の風潮は「殺さない」「いじめない」。殺すなら人に見られぬようコッソリやらなければならないだろう。
そんな国で人がバタバタと死んでいるか。虫を殺さないぶん不幸になっているだろうか。
私なりに長く真剣に考えたのである。

「虫を殺さないなどキレイゴトにすぎない」「気味がわるいから殺してよい」という意見が多いように思うが、文化的な意見の一つとして成立しても、それが必ずしも科学的な事実に基づくわけではない。
「虫が気持ちわるい」という生理も、社会の風潮でガラリと変わる。
わたしは人間だからごきぶり一匹に生命を脅かされることはない。あちらさんがあわてるのは分かるが、人間の私があわてることはない。虫などに動揺させられる自分でありたくもない。
この一匹を殺そうと殺すまいと、世の中にたいした違いはない。気味がわるいからというのがそのまま殺すという行為につながっていくのは、むしろ殺伐としている。

夏は虫が増え、ほんとうに虫を殺してよいのか逡巡する機会も増える。
虫一匹を殺すにしても、身心には確実に不協和音が流れている。家人がホイホイを置くこともあるが、捨てる段階で誰もが嫌がるのである。ごきぶりが嫌というより、何となく嫌。虫などにそこまで関わりたくはないというのが正直なところ。
人間ほうでは虫が入ってこない工夫もできるし、入られても実害をこうむらない対策もとれる。
出くわしても、お互い一切干渉しあわなければ、恐くも何ともなくなる。ちょっとびっくりすることはあるが、あちらさんはあちらさん。わたしらの知ったことではない。

家人は「一匹殺せば百万匹の子孫を殺せる」という使命感に燃えている。「わたしがこの一匹のごきぶりを殺すことで、世の中のごきぶりの生息数は減る。この一匹を殺さなければ生息数に歯止めがかからなくなる」と、あくまで「世界の害虫撲滅運動」に積極的な姿勢で参加し続けている。
人間は他の生きものをいろいろ絶滅に追いやったとされるが、いかに家人が殺し続けても、虫全体にそれほどの影響が出るとも思えない。

虫を殺さなくても、べつに人は不幸にもならないし、死にもしない。むしろ殺すほうについては何らかの身体面・精神面に損失が出るかもしれない。虫一匹を殺すにしても、人は何らかの抵抗を心や体で受けとめずにはいられないからだ。
虫を殺さないというのも立派な生活改善の一つとなりうる。
生命がおびやかされない限り、殺す必要ないのではないか。それが今の自分の結論である。
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いま・ここに没頭して自我を忘れ、集中力を高める
2012/07/20(Fri)
数学をやるたびに腹が立ち、身が持たなかった。
答えに逆らい、「参考書のほうが間違っている」と騒ぎたて、疲れ果てたあげく調べてみると、ほとんどの場合において自分が至らない。
カン違いを修正するのにいちいち「自分は間違っちゃいない」と頑張る。それが私の心のクセである。我を折るということが大変にむずかしく、私の受験勉強の大半は、「私が間違うはずがない」と頑張る自分と争うことに労力を費やしたようなものだ。
だから大学に合格したときは、うれしさよりも悔しさが先立った。
ほんとに合格すると分かっていたら、もっと勉強は進んでいた。勉強そのものよりも、心理面・精神面での苦労のほうが、よほど大きかった。

かけたエネルギーがストレートにそのまま伝わるのがベストであるのは分かっている。しかし気がついてみると「私は間違っていない」というカン違いと、「うまくいかないのではないか」という不安との戦いがすでに始まっている。
カン違いと不安はどこまで行っても尽きない。ほんとうに集中して取り組んだ時間などは、迷妄の大海にぽつりぽつりと浮かぶ、離れ小島のようなものだ。

我などさっさと捨ててカン違いをどんどん修正するということ。いま・ここに集中して過去や未来を思いわずらわないということ。
これだけは、はずせない。そう自戒している。
この二点は、はからずも禅の主張と一致していることを知り、心強く思った次第だ。
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医者がほんとのことを告げるとき-シャーマンにもスケープゴートにもなりたくはない-
2012/07/18(Wed)
「医者はシャーマンなんだ。そして私は疲れたシャーマンなんだ」
院長先生がきっぱり言われたので少々驚いた。
大きすぎる期待。カンタンなあきらめ。そして深い絶望。
それらの間を行ったり来たりする三角形が患者の心理だと私は思う。
自分さえ自分の思い通りに治りさえすればと思う患者の心理は、他のケースがどのような経過をたどっているのか考えさせようとはしない。
期待。あきらめ。絶望。その全てが事実にもとづく根拠を欠いて、薄弱なのだ。

院長先生の立場上、たくさんの患者さんから寄せられる身勝手な期待を裏切りたくはない。
プロとして見てきたこと・考えてきたことを正直に説明しようにも、あまりに時間が足りない。
どれだけ説明しても、そうそうカンタンに分かりっこない。妙に誤解されるよりは、根拠もない期待にじっと身を寄せてもらっているほうがよい。
だからシャーマンを演じる。
ハッキリしたことは自分からは言わない。謎めいた雰囲気を身にまとい、細かいことは受けつけない。もうそれで、ほとんど患者さんは突っ込んでこない。きっと患者さんだって本能的に分かっている。てきとうなあきらめのところで落ち着いて、治療を続けてくれる。
「治りますか」と平気で斬りこみをかけてくる患者さんには本当のことを告げればいい。
「完全に治ったのを見たことがない」「治ってもぶり返すケースが多い」「なかなか時間がかかる」「治らないと思う」
めったにないことだが、「どうすれば治ると思うか」とさらに突っこんでくる患者もいる。これも本当のことを告げるしかない。
「治療メニューは厚生労働省の役人と医師会や学界が決める。医者は保険治療とガイドラインを忠実に守る。その限りにおいて、完全に治ったケースは見たことがない」
「自分はこの世界しか知らない。しかし外の世界にはあるかもしれないから、べつのところで探してじっさいに自分で試してみて、ご自分にあったものを見つけたらどうですか」

医者はスケープゴートであると私は思う。医者にかぶせておけば何かと丸くおさまるのである。本気で治りたい人は、貴重な時間をムダにせず、ぐるぐる回りの丸い迷路を自分自身で断ち切っている。「自分のようなケース、先生は何件扱ったことありますか」「経過と実績はどのようなものでしたか」「治るまでにどのくらいの期間が必要でしたか」「治った人の年齢はいくつくらいで、女性でしたか男性でしたか」。順を追い、きちんと具体的な聞き取りを始める。自分の命、自分の体、自分の人生だ。自分の他に誰もその輪を断ち切ることはできない。

医者だって人間。こちらが人としてきちんと質問すれば、人としてきちんと答える。答えないようなら、ただ医者としての決まりを守る人なのだ。それが明るみに出るだけだ。
「病院が期待にこたえてくれない」「一体なにを考えているんだろう、あの医者は」
どんな病院も医者たちも、このような患者の心理をほとんどまぬがれることはない。
すこしは過剰な期待もないと、患者さんは来なくなる。それは経営の面で致命的だし、治療をずるずる引き延ばすうちに、ひょっと「治りました~」なんてことが百に一つ起きないとも限らない。

『万病を治せる妙療法-操体法-』『からだの設計にミスはない』を開くたびに、「医者の仕事は何をすることなのか」を考えさせられる。
「患者ってこんなに治らないのか!」
医療の現場に出たことのある者なら、誰だって一度は思うことなのだ。
現場で頭をかかえる一人の医者が、自力療法という突破口を見つけ、シャーマンにもスケープゴートにもならずに済む道を見出した。医者という苦しい立場・苦しい現場の中から、操体法の医学を築き上げていった。
それが橋本敬三という医師だったのだと、私は思う。
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じい~っと見ているうちに、あたりまえにできるようになっている-目のチカラ-
2012/07/16(Mon)
じい~っとじい~っと見るうちに、やったことない離れワザも一発でできる。まぐれではない。体操選手の取材番組「ミラクルボディ」では奇跡の能力の扱いだったが、「じい~っと見る」は東洋のお家芸だ。弟子は下積みの段階を経て、ある日いきなり「おい、こっち来い」と声をかけられる。やってみると、すでに初心者レベルではなくなっている。

学習指導の現場では「たくさん勉強させました」というアリバイ・証拠づくりに、ドリルのページをびっしりうめさせるタイプの教材が多い。「何度も繰り返し練習させないとできるようにならない」「長時間やらせたい」などの大人の要求をもとにした手法。頭を使わず手を動かすだけの、形式的なドリル練習を大量にやらされる子供たちはウンザリだが、保護者や周囲の大人たちにはそれが最大にウケる。
しかしやはりダメなのだ。そんな中身のないことでは。

同じ「じい~っと見る」でも、中身はまったく違う。
ふつうの「見る」は他人事。「ああ何かやってるな」という見方。
よりアクティブな見方では、他人のやることがそのまま「自分事」。他人の行動にすっぽり自分が入り込み、じっさいに体験するのである。
二人の人間の脳の活動量を、赤い色で染めてみる。
一人の脳は「見る」部分こそ赤いが全体的には白っぽい。これは野次馬の脳。少々白けて退屈そうだ。
もう一人の脳は、ほとんど全体が赤く染まり、劇的な集中力を示している。見ている自分を忘れ、見る・見られるという区別のない世界に入り込んでいる。まさに禅でいわれる「私は花である。花は私である」。
「見る」という人間の行動は、こんなにも中味が違う。
「ぼさ~っと見てるんじゃないよっ!」遠い子供の頃に、どやされたのがふとよみがえる。「頭つかわんかっ!頭をー!」。

お手本を集中して見るようになれたら、それだけでも実はたいへんなことなのだろう。
目の色が変わる。目がすわっている。その熱い視線でじりじりと、お手本に穴をあけてしまうのではないか。
そのくらい迫力ある視線。まさに瞑想の状態。たいへんな集中力だ。
月一の、師匠の講習では、師匠が何かやり始めると、会場全体がぴたりと静止して、師匠の手もとに視線がぴーっと音をたてて集まるのが分かる。飲み会でも、師匠が何か言い始めたりやり始めると、流れはピタと止まり、耳目を集めるとでもいうか、師匠の口元めがけて耳が開かれ、目は一生懸命に師匠の姿を追いかける。必死でメモがとられたり、する。
想像すると笑いたくもなるが、自分自身また率先して、そのようなことになっている。
切実なのである。
切実でなければ何一つ目に入らず、何一つとして身につかない。そう自戒する。

操体法の補佐役にまわって、支えてあげたり、動きを指示する声をかけたりするときも、相手の動きから目を離さずに、じい~っと見ているうちに、いろんなことが伝わってくる。相手の動きが自分の動きのように、手に取るようにわかるようになるまでは、おざなりにしてはいけない。
無心になって、じい~っと眺めていれば、そのうちわかる。
一気にわかろうという横着さを捨て、「もう、わからん!」と投げ出すこともなく、無になって、ただひたすらに目を見開き、視線を離さずやっていくと、見ることが苦痛でもなくなって、見ることが持続できるようになる。そのようにしてふと気がつくと、超能力のようにわかるようになっているのである。

一人にやれたことならば、程度の差こそあれ誰にだってできる。
奇跡だとか超能力だとか、白けた他人ごとで済ませない限り、やればかならずできる。
なぜできなかったのかがわからなくなるくらい当たり前に、できるようになるものなのである。
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人間が立派になるような勉強をしたかった
2012/07/15(Sun)
中学を卒業するとテキヤとして働きに出され、二十歳になると飲み屋街でホステスのバイトをした。
若いころの自分はダメだったと切り捨てることもできるが、若さゆえの無知で阿呆だったからこそ、今の自分では考えもつかないような、だいじなことを考えていることもあるように思う。阿呆のうちの半分は、切り捨てるわけにもいかないと思われるのである。

テキヤで西日本各地を売り歩いて数年後、無理がたたったか肝炎を発症した。これ以上は無理という大人たちの判断で、家業のテキヤから解放され、大学に進学するという新しい目標を持ったのがちょうど二十歳の頃だった。「よし自分は生まれ変わるんだ」という気分の真っ只中である。
中卒だった私は進学の前に大検を取得する必要があった。
一日中勉強するわけにもいかず、時間を持て余していたところ、遠い親戚の娘が飲み屋街で働いているという話を耳にした。そしてなぜかたまたま、その娘と鉢合わせしたので、私はメンバーズクラブのホステスを体験することになったわけである。
昼間は勉強。夜は仕事。金を稼ぎながら大検を取得するというのは理想の生活ではないか。
しかしじっさいには深夜に活動すると、寝床に入っても頭はオフにならない。昼夜逆転の生活になって勉強も手につかなくなったため、ほんの数か月でやめてしまった。(次回につづく)
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生きものは、ちりまみれ、ホコリまみれで生きていくものだから
2012/07/13(Fri)
調べれば調べるほどはみだすものが出てくる。出たり引っ込んだりして生きる姿が見えてくる。
検査はつるつるに磨き上げられた真っ平らな床。ちり一つ、ホコリ一つでも神経が参る。
「ちりがあります」「ホコリが出ました」と言われれば、床板を引っぺがしてでもどうにかしたい気持ちがおさまらない。
検査技術が進むにつれ、横道にそれることを許せなくなる感覚が強化される。
疲れやすいからホルモン剤。そんな女性も増えている。生きるとは骨折りで疲れることだ。疲れれば休む。負担を減らして回復を待つ。疲れなくなるまでホルモン剤を飲み続けるというのなら一生だ。
眠りにくいから眠り薬。眠りにくさがとれるまで飲み続けるという。
それがどういうことを意味しているか、分からないままずるずる飲み続けて戻れない道。どんな危険と取引した安心か。情報にうといのか。事実を正視する度胸も足りないのか。

腹に何かできている、取り除きましょうという。
見つかるたびに切れば、もちろん財布も命ももたない。
もともと見つけるのがよくない。調べるのがよくない。専門家の立場から、近藤誠さんや安保徹さんをはじめとする専門医師たちは結論なさる。シロウトの我々からすればオドロキの発言。
見つけたところで、ほんものの悪性なら切ろうと切るまいと同じだ。データはそう語っているという。切ったら切ったで切られる恐怖と、体への負担とで、苦しみは大きい。
「結果は同じ」なら、同じではない。苦しんだ分だけソンをして生活のクオリティを失う。
「だから自分たちは検査を受けない」。それが専門家の結論。
あらゆる検査そのものに、発ガン性があり、体に毒だ。
そう言い切る専門家の存在は、何を意味しているのか。それとも無意味、なのか。

知らないうちは、とてつもない期待と夢を持っていられる。「1パーセントの成功率」と言われれば、ゼロよりいい。飛びつく。しかしデータ上の1パーセントは誤差であるという。専門家の間では0パーセント。意味ない数字とわかっているのだそうだ。
危険をおかして助かった人が100人に一人いたとしても、治療によるものではないと思われる。
本人が「いや自分はこの治療に賭ける」と信じ、「これで自分は救われた」と信じている。
信念。それで回復するのも人間である。こればかりは数字に出ない。データもまた、ちりだらけホコリまみれである。
どこの宗教にも、そのような話はごろごろしている。医者に見離された人間が、外見上ただふつうの生活で回復する。内面の違いなら副作用も何もなく、むしろストレートである。
頭からバカにする人は信仰による回復はのぞめないが、事実を事実として科学的に見ることで、助かる道も開ける。信仰は科学ではない。しかし信仰を科学的に見ることはできる。事実を否定すれば自分で道を閉ざすことになる。
「医療信仰」という新手の新興宗教が幅をきかせている世の中か。年間医療費30兆という大金を身ぐるみはがしていくところなどソックリではないかなどと、ふと思う。

生活のクオリティがどれだけ下がる可能性があるのか。命が危険にさらされる可能性はどのくらいあるのか。どんなミスや手違いが発生することが考えられるか。デメリットはいつ、どのような条件によって、もたらされがちなのか。
まずそれをたずねるのが、患者の側の、科学的な姿勢ではないのか。
確たる信念はあやふやでは得られない。
何もかもあいまいなままで、副作用と交換に安心を得るというのなら、インチキくさい宗教に引っかかっているのかもしれない。
これは私の言葉ではない。アメリカでロングセラーを続けている『医者が患者をだますとき』という本を執筆した医者の受け売りだ。
「自分にはコレがある…」といつまでも検査結果を気にかけている。切らないと気がおさまらないし、切るのもこわいしで、真剣に悩まれている。
はみ出たり引っ込んだり、飛び出たりして生きるのが健康かもしれない。痛かったり痒かったりして生きるのが健康なのかもしれない。
生きものは、ちりまみれ、ホコリまみれで生きていくものだ。それを化学フキンや重曹や、いろんなものでごしごしとこすってため息をついて生きていくのは、もう私はたくさんである。
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健康と命は自分で値踏みして自分で値を決める-お金と手間と時間と。-
2012/07/11(Wed)
失われる時に全てを投げ出しても遅い。命や体はタダでもらっているものだから、そこそこの関心はあっても、実は二の次、三の次である。きぜわしくて時間もないということで、生命宇宙とのコンタクトなどという遊びは世間にはどうでもよい。「ここが壊れたから、さっさと修理してくれ」っていうのが正直なところ。

自然食を始めたころ、安全とお金を天秤にかけっぱなしだった。安全安心なものは自分でつくるのが確実だが、手間も時間もかかる。そこまでできないと思って大抵はぽんとお金を出して済ませてきた。
操体法はお金もかかるが時間も手間もかかるから、さらにハードルが高い。
「このお金、この時間、この手間を、かけるだけの価値はあるのか?」

操体法にそれだけの価値があるのか? この施術にそれだけの価値があるのか? 自分の健康に、命に、そこまでの価値があるのか?
いろいろな問いを、毎度毎度突きつけられてきた。
結局は、自分の命と健康を、自分で値踏みしてきたようなものだ。
「じゃあこのお金、この時間、この手間が浮いたら、何が手に入るか?」
それを天秤にかけるわけである。
財布を開くたびに、天秤が持ち出される。天秤作業を五年十年二十年、と続けてきたのだから、私もそうとうにしつこい。
操体法も、健康も、命も、値がつけられないほどこの上ないものだ。そんな単純で分かり切ったことを納得するのに気の遠くなるほどの値踏みの作業を続けてきた自分は、一体何だったのだろう。
最近は年もとり、健康と命が惜しくなってきたということもあるかもしれないが、やっと天秤を持ちだすまでもなく、結論が出せるようになってきたと思う。
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家族への自然な気持ちは、家族制度がつくる感情とは少し違う
2012/07/09(Mon)
子供のころ、拾った野良犬が同級生の家に飼われていた犬だと分かり、返したことがある。返した途端に、よその犬の顔になり、こんなだったろうかと目を疑った。同級生が引越しするさいに引き取ったら、急に「うちの犬」の顔に戻り、「うちの犬」らしい様子になった。
これがひいき目というものだろう。

不登校相談の現場でふと、「自分も子を持てば、よその子と自分の子というように、子供たちが二つに見えるのかもしれないな」と思うことがあった。子供といえばみな同じ子供にしか見えなかったが、自分の腹を痛めた子ができてしまえば、そういうわけにもいかない。
うちの子か。よその子か。
子供のころ、よその家に遊びに行くたびに、大人たちの厳しい目にさらされた。
人間以外の動物でもあることだ。
声や臭いでかぎわけるなどして、よその子と分かった途端に突ついたり噛みついたり、時には殺すこともする。
その一方で、どこの子にも平気で乳をやる動物もある。
うちの子とよその子を区別するのも本能なら、乳児・幼児を無条件に世話をするという本能もある。

ややこしい家庭で生まれ育ったが、文化人類学者のたまり場のようなところで学生生活を送ったことが自分には幸いした。地上にさまざまな親子制度、家族制度があり、どの制度のもとでも同じくらいの満足と幸福が得られるという現実を目にするのは、私には救いだった。
親子の自然な感情と、親子の制度によってつくられる感情とでは、少しちがう。
家族に対する自然な感情もあるが、家族制度によってつくられる感情はまた、それとはまた少しちがうのである。
制度は、便宜。都合にあわせて調整するのが制度である。
都合にあわず、犠牲者も増えれば、制度のために不幸を増やすことになる。本末転倒である。

どんなにすぐれた制度でも、必ず犠牲者は出る。副作用も免れない。
どこからどこまでが、制度によってつくられた感情なのか。どこからどこまでが、自然な感情なのか。
線引きなどできないが、いろんな文化・制度を眺めていくうちに、「人間の感情は、思っていたより自由だ」と感心させられることが多い。
文化や制度によるしばりは人間社会には必ずある。しかし感情までがそこにしばられてしまうと、副作用にやられてしまう。ごくごく私的な行動さえも、方向づけられ、いいようにあやつられてしまうのだ。

人間の満足というのは、案外いい加減なものである。人間の幸せもまた、同じ。
そんなことを感じていたのだなあと、ふと思い出した次第。
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健康という二文字をスッカリ忘れていられるゼイタクな元気
2012/07/07(Sat)
山にいると人はみな、いい顔している。山に来たら地上のことなど、へのかっぱ。
それよりも、目の前に立ちはだかる、この斜面を見よ。
ここを乗り越えられるのは自分の足だけだ。地位もお金も関係ない。今の自分だけが頼りなのだ。

家人は健康マニアの優等生で、健康法の発掘に余念がない。操体法もそんな発掘作業から発見されたものだった。
私の操体法は、安全な所でつつがなく生きていくための便利なものとして始まった。痛いかゆい苦しいが減らせれば、私はじゅうぶん満足だったのだ。
ところが山に通ううちに、ただただ冒険が楽しい。
痛いかゆい苦しいを増やすことになるかもしれない冒険を、つつがなくクリアーするために、操体法は必需品となった。
自分でも体を整えだした。ここで初めて自分は自分の体に関わろうとし出したのである。

山で出会う人々はそれほど健康にこだわってはいなかった。むしろ無頓着のようにさえ映る。
「なるほど、これが作りものでない本物の健康人なのだ!」と感心することも多かった。
ほんとうの健康人ならば、病気やけがを恐れて安全なところに引きこもってなどいられない。病気やけがを抱えていても、飛び出せるうちは飛び出してやるというくらいの気概もある。
山で過ごすことが増えてゆくうちに、「生活を保身・現状維持でとらえている限り、自分の健康も頭打ちなのではないか」と感じるようになった。

山に通って数年経つうちに、それまでなかなか消えなかった症状も気づかぬうちに消えており、生活パターンは山歩きを中心に定まっていった。
私の理想はほとんど達成されたかに見えた。交通事故にあったのは、まさにそんなタイミングであった。
それまで積み上げてきた微妙なバランスが、一気に跡形もなく崩れ去っていくのを見ている他はなかった。自分のもろさを思い知る出来事だった。

あれから五年。
ここから生きてゆくのがまた面白いじゃないか、などと生意気な思いが芽生えている。
自分で自分に見切りをつけたらそれで終わるから、「ヘタレのお前なりに真剣さが増してきているよ」と自分に声をかけている。
しかし細かな工夫を楽しむ健康マニアにはなれそうもない。
かしこい健康グッズもいらないし、たいそうな健康理論も欲しくはない。なくて済むんだったら、ないほうが私はいい。
もっともっとシンプルに。より短い時間で少ない手間で、より絶対的な成果を得られないものだろうかなどと不真面目なことを情熱的に考えている。
むしろ裸一貫がいい。
いつでもどこでも身一つだ。
健康という二文字の意味さえ分からなくなるほどの、元気。
それが今の自分の一番の関心のありかである。
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元気な子ほど寝相がわるい→睡眠時の運動の意味
2012/07/05(Thu)
電車やバスに乗っているときに足を組んだり、びんぼうゆすりをしている人に、「今、何をしていますか」とたずねたら、「何もしてないよ」と返事がかえってくるだろう。「いや、あなたは足踏みをしていましたよ」「指をこうやって動かし続けていました」と指摘しても、「そんなの自分は知らないよ」と不愉快に思われるだけだ。

こうした不随意の動きや無意識の姿勢は、すべて体の歪みを調整するといわれる。
手遊びを禁止されたり、びんぼうゆすりを我慢すると、かえって心の落着きがなくなって集中しにくくなる。無意識の姿勢に気がついたら、わざとその逆をやってみる。右足を組んでいたら左足に、頭を左に傾けていたら右にしてみる。すると真逆の姿勢はとりにくかったり、落ち着かず、呼吸が浅くなったりする。
一日足を組まないようにしていたら、スキをついて足が勝手に組もうとするし、それでも頑張っていると、頭の中は「足を組みたい足を組みたい」でいっぱいになってしまう。
壁で囲われた棺オケのようなベッドで寝てみると、翌朝は体が痛く、頭がぼーっとしている。
年をとるにつれ、人は行儀のよい寝姿になる。「そうやって棺オケが近くなる」と教えられたことがある。

おおざっぱにいうと、起きているときは随意運動が主で、寝ているときは不随意の運動。
起きている人が動くのは不思議には思われない。何か意図や目的あっての動きだと思われるからである。
寝ている人にあまり動かれると、不気味に思われる。睡眠以外に、意図や目的があろうはずもない、なぜこんなに動くのだろうと不審に思われるのである。
寝ているときに動く。そこに何か目的でもあるのだろうか。
「体の歪みを整えるための自動調整システムだ」というのが橋本敬三医師の指摘である。
「そんなバカなことはない。寝ているときに動くのに意味などあるもんか」というのなら、棺オケのベッドで何日も寝ていたらどうなるか、実験するしかない。その結果から言えるのは、寝ているときに体を動きたいように動かしておくということが、気持ちよく生きていくのに大いに役立つということだ。

実は起きているときも、人の動きは随意運動より不随意運動のほうが多い。
さあ掃除しようと思うと、目は掃除機のほうを向き、足は勝手に立ち上がり、手はホースをつかんで指はスイッチを押す。「どちらの足から立ち上がりましたか」「どの指でスイッチを押しましたか」と尋ねられてすぐに的確な返事が戻ってくるだろうか。

このような無意識の動きを発動するのは錐体外路系であるといわれるが、解剖生理学の教科書には「くわしいことはわかっていない」とある。
この錐体外路系の動きを自己回復・自己治癒に積極的に活用しようというのが、野口整体の「活元運動」であり、操体法の「癒動操体法」である。

※癒動操体法の体験は毎年12月第二土曜日午後三時より、福岡市天神の会場にて行っています。
機会があれば、足をお運びください(会費二千円)。

※7月の公開講習の予定(予約不要)
11日、18日、25日 28日…福岡市南区野間で14時から。会費二千円。
14日…福岡市天神で15時から。会費二千円。あとの懇親会も自由参加。
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当たり前に生きているようでいて、当たり前ではない。
2012/07/03(Tue)
雨が続いたあとの山に入ると、大きなしっかりした木が根こそぎひっくり返っていたりする。
当たり前のように立っていたが、当たり前じゃなかったのだと気づく。
つりあいがとれなければ木だろうとビルだろうと何だって倒れる。
人間も、平気で当たり前に生きているようでいて、ほんとうはそれほど当たり前でもないのだろう。

地面がゆるめば支えは弱くなり、木が傾いたりする。
傾きが変わると、幹や枝の伸びる方向が修正され、根の張り方も変わる。倒れまいとするバランス修正のシステムを発揮しながら立っていようとする。
木は成長する。光の当たるところは早く大きくなる。年輪に太さの違いができ、どの方角を向いていたか、どこに多く日が当たっていたかなどを読み取ることもできる。成長で全体のバランスも変わるから、バランス修正は常に発揮されていなければならない。
山ではたくさんの木々が、それぞれにいろんな姿勢をとっている。絶えずバランスを修正し直しながら生きている姿である。
当たり前に見えて当たり前ではない。それぞれに事情がある。

地面から上の木の姿、目に見える「上半身」と、地中にある目に見えない「下半身」のほうを合わせた全体でバランスをとって立っている。
上半身の様子から下半身の様子を想像することもできる。
上半身を支えるには、ただまっすぐ地面に打ち込んだ杭のようなわけにもいかない。そのときどきの、理に叶った根の張り方があるはずだ。地面の固さも一様ではなく、障害物もある。水分や養分のありかも地層の状態しだいだ。それでいて上半身の成長を支えられるようにと根を張ることをしなければ倒れるのである。
上半身の充実は成長と拡大を意味し、下半身の充実は上半身の充実を支えるということを意味するが、その両者のバランスをどうとるかは、木自身の判断にかかっている。

木になったつもりで山を歩けば、倒れずに生きるというのもただごとではないと思われてくる。
最初に芽吹いた場所というのは、崖っぷちのこともあれば、岩の多いところ、斜面であったりと、必ずしも理想的な場所ではない。木の群れに囲まれていることもあれば、群れずに離れていることもあるだろう。他の植物群や昆虫、動物たちとの関わりのこともある。
天候が不順になれば成長も遅くなるが、周囲全体も不作だから、よけい食べられてさらに困難に陥る。
そういうことを想像しながら、山を歩く。
生きものたちの、それぞれの立場での、いろんな事情が聞こえてくるように思われて、いつまでも飽きない。

何を優先するというでもない。あらゆる部分で、あらゆることが抜け目なく考慮されながら、全てが同時に行われている。それでいて、あらゆる細部にも過不足なく、全体のバランス修正がゆき届いている。
これはまさに驚くべきことである。
驚くべきことが、平気で当たり前に行われている。それこそがまた、驚くべきことではないかと思われる。
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他の誰にとっても意味はないが、自分にとって最大の意味のあること
2012/07/01(Sun)
90歳で大腿骨を折った。息子は外科医だが、西洋的な医療の助けを一切受けず、自分一人で運動療法に取り組んだ。92歳ですでに杖一本でふつうに自立した生活を送っている姿が見られたという。
大腿骨折はどんな手厚い医療をもってしても、多くの老人の運動機能を奪い、命取りになる大けがであることに変わりはない。
いかに医師とはいえ、自力の運動療法だけで大腿骨折から立ち上がろうというのは並大抵のことではない。しかも90歳。当時の周囲はこの行為をどう見ただろう。医学常識でいえば再起はぜったいにあり得ないこと。無茶もいいところ。馬鹿げた行為とさえ思われないだろうか。

この話を耳にした当初、実は何とも思わなかった。
「操体法の大先生がやったこと」「医者がやったことだ」で済ませた。
操体法の橋本敬三という、特別な人間だからできたことで、しかも医師の専門知識があったから、できた。
ふつうの人間には何の参考にもならない。
「偉い人はさすがだネ。やることが違うネ」。一瞬そう思ったら、あとは忘れてしまった。
その後も何度か話題にされたが、「そういう成功例も一つくらいあるでしょう」程度の認識である。

野口三千三の野口体操はどのようにして出てきたか。
彼自身が大きな危機に直面した。少しでも体を動かすたびに脊髄の一部が神経を圧迫し、刺激する。猛烈な激痛だが、危険な場所だから手の出しようもない。医者の出した答えは「できるだけ体を動かさない」。
体を動かすのが並みすぐれて得意。生きることは体を動かすこと。そのくらい体を動かすのが好きな人が完全に寝たきり。ちょびっと動けば激痛に見舞われる。そんな体で一生涯過ごさねばならないというのは、まったくの悲劇としか言いようがない。あの野口体操は完全に寝たきりという大悲劇から生まれた。
そのことに大きな意味を感じる。
しかしそれもまた、当時の私には一過性のものだった。
「野口体操の創始者だからできたことだネ。さすがだネ」。そうやって何もかも切り捨ててしまった。

ムチウチで医学から見離されたときも、このお二人のことを思い出すことはとくになかった。
しかし気がついてみると、このお二人の取り組みのことを思い出さない日は一日としてないのである。
一人の人間のやったことだ。
あのずとそのように思われてくる。
自分が救われたい一心で、自分の体に向き合ったのだ。
真剣にならずしてどうするか。
「痛みに教えてもらう」。
お二人に共通しているのはただその一点である。
「痛い」というのは、「それは違います」というぜったいの導きの光である。
真っ暗闇の中で手探りをして、「あっ、痛い」と痛みを感じたら修正をする。
その動きでよいのかどうかは、体がきちんと教えてくれる。体の声に耳を澄ませるかどうかは自分しだいだ。
それは気の遠くなるほどの試行錯誤の繰り返し、積み重ねだろう。
単純なことを、やるかやらないか。ただそれだけのことなのだ。そうちゃんと著書にも書いて残してくれている。

何かの創始者であるとか有名だとか、高度な知識や技術を持っているとか、そういう条件はあとからついてくる。社会的地位にも条件にもめぐまれ、じゅうぶんな能力が備わっているにも関わらず、全てをかなぐり捨てて一人の人間として、自分の体に向き合うことをしないままでいる人もあるだろうと思う。いやむしろそんな人のほうが多いのではないか。
彼らとて一人の無力な人間として涙も流し、ため息くらいついたろう。
そのように思われて仕方がない。
第一、野口体操はまだ生まれてなかったのだ。道のついていないところに、たった一人の人間が道をつくった。
周囲からふびんに思われたかもしれないが、じゅうぶんな理解が得られたとも思えない。なりふり構わず一人の人間として、自分の体と向き合った。
そして自由をふたたび自分の手につかんだ。
私にはそう思われてならないのである。

彼らを一人で放っていてはいけない。彼らの歩んだ努力の道を、鼻先で笑って済ませてはいけないような気がする。
私もまた、彼らのそばで過ごそう。ともに歩もう。
たった一人のバカげた挑戦。他の誰にとっても意味はないが、私自身にとって一番大きな意味のあること。そこに自分の全力を尽くせばそれでいいではないか。
気がつくと、そんなことを自分に向かって言い聞かせていた。
お二人だけのことに限らない。いつ、どの時代にあっても、ちっぽけな人間が、不可能といわれる「無茶なこと」にたった一人で取り組んでいたりする。

ひょっとすると、世の中そんな馬鹿ばっかりなのかもしれない。
そう思えてくる。
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