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ペダルは自分の足の下にあり、ハンドルは自分の手の中にある。
2012/06/27(Wed)
後部でバンと音がして軽い衝撃が伝わった。「あ~やった」と誘導者の声。
「あ~やった」もないもんだと、ハンドルを握っていた私はあきれてる。
アドバイスを出す側と受ける側との関係は、車の運転手と誘導者との関係に等しい。人の言うことをうのみにすると、車は平気で崖下に転落する。
運転初心者の私には分かっていなかった。
いかに車のベテランでも、車の外にいる限り、運転席から見える光景を直接見ることはできない。誘導する人は車の外にいる。そこに値打ちがある。運転席からは決して見えないものを、見ることができる。そこが有難いのだが、それは同時に限界があるということだから、運転者はそこのところよくよく承知しておかないと、結果を出せない。

アクセルペダルとブレーキペダルに置かれた足は、他ならぬ自分自身の足であり、ハンドルに置かれている手は、まぎれもない自分自身の手である。
走り続けることができるかどうかは、あくまでハンドルを握る本人の感覚の正確さにかかっている。
誘導者の判断とハンドルを握っている運転手の判断は、ぴたり一致することなどないはずで、それも当り前なのだ。それでも車は難所を通過する。判断を一致などさせなくてよいし、誘導者の考えに遠慮もいらない。運転者である自分さえしっかり把握して結果を出せば、それ以上によいことなどありはしない。
少しでもおかしいと思えば、運転者はいったん車を降りてでも、自分の目で確めるべきである。誘導者が少々頼りなくても、運転者自身が必要なことを理解している限り、大いに助けともなり、役にも立つ。

運転席から分かることと、誘導者から分かること。この二つを合わせて正しく判断すれば、車は無事難所を通過する。それが自力療法の操体法でやっていることだ。
しかしながら運転する本人があやふやで、「わたしが運転するよりあなたに運転してもらうほうが確実じゃないでしょうか」などと言って運転席を降りたがっているようでは埒があかない。
人生のハンドルは誰にも替わってはもらえない。それをときどき替わってもらってうまいこと切り抜けるつもりでいても、それはまったくの幻想だ。
足に力を入れればアクセルやブレーキを踏んでおり、手を握ればそこにハンドルがある。
よほどのっぴきならない事情がからんでいる場合も、目の前に広がる光景をよくよく見つめていれば、ほとんど全ての場合において、突破口は見えてくる。
腰をすえるというのは、そういうことだろうと思う次第である。
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